新たな生活の幕開け
リリス――いや、前田あお葉は、柔らかなベッドに横たわりながら、天井をぼんやりと見つめていた。まだ自分の置かれている状況を完全には理解できていない。それでも、先ほどのゼノンとの会話から得た断片的な情報を、なんとか頭の中で整理しようとしていた。
部屋は広々としており、優雅な調度品に彩られている。天蓋付きのベッド、装飾の施されたドレッサー、そして大きな窓から差し込む暖かな光。まさに「お姫様の部屋」といった趣だった。
「リリス様、お加減はいかがですか?」
落ち着いた女性の声が響いた。視線を向けると、しっかりとした体格で肩までの茶色い髪をきちんとまとめた30歳前後の女性が立っている。彼女はリリス専属の侍女、マーシャだった。
「ええ、大丈夫……」
あお葉は、リリスとして振る舞うべきか悩みながらも、なんとか声を出した。マーシャはその様子をじっと見つめ、少し微笑みながら手に持っていたトレーを近くのテーブルに置いた。そこには温かなスープとパン、果物が並べられている。
「本当に無理をなさらないでくださいね。まだ完全に回復したわけではありませんから」
マーシャが丁寧にリリスを気遣う様子に、あお葉は少しだけ安心した。彼女の誠実そうな態度に、少なくとも敵意は感じられない。
「ありがとう、マーシャ」
自然と口から感謝の言葉が出た。その瞬間、部屋のドアがノックされ、続いて扉がゆっくりと開いた。
「リリス、調子はどうだ?」
まず最初に入ってきたのは、威厳に満ちた男性――アルセリオン王国の国王、レオナルトだった。続いて、穏やかで冷静な雰囲気をまとった王妃セリーナ、そして落ち着きと鋭さを兼ね備えた第一王子アーサーが後に続く。
レオナルトはリリスを見るなり、優しいまなざしを向けた。その視線には心からの気遣いと、わずかながらの安堵が込められている。
「父上……」
思わず呼びかけると、レオナルトはベッドのそばまで歩み寄り、そっとリリスの手を取った。
「無事でよかった。お前の容態を聞いたときは、胸が潰れそうだったよ」
その言葉に、あお葉――いや、リリスはどう答えるべきか迷った。ここでは王女としての振る舞いを求められるのだと直感的に理解していた。
「ご心配をおかけして……申し訳ありません」
小さく頭を下げながら、あお葉はリリスらしい口調を意識して答えた。レオナルトは満足そうに微笑む。
しかし、その後ろで立ち止まったままのセリーナとアーサーの視線は、どこか冷ややかだった。特にセリーナは、まるでこちらを品定めするような眼差しを向けている。
「リリス、体調が戻ったのなら、これからのことをしっかり考えなさい」
セリーナの言葉は厳しく、突き放すような響きを持っていた。リリスの母親ではなく、あくまで義母という立場がその態度に影響しているのだろう。リリスが3年前に亡くなった側室の子であることが、彼女の冷たさをさらに強調している。
「はい、王妃様……ご心配をおかけして、すみません」
あお葉はリリスとしての立場を意識し、深々と頭を下げた。それでもセリーナの表情は変わらない。
「少なくとも、隣国の件は片付いたのですから、今後は自分の身の振り方を慎重に考えることです」
隣国の件――その言葉が耳に残ったが、詳しく尋ねる余裕はなかった。セリーナの背後でアーサーが一歩前に出て、リリスをじっと見つめる。
「これからは家族としての役割を果たすことが求められる。期待しているよ、リリス」
アーサーの言葉は厳しさの中にわずかな温かみを感じさせた。だが、その期待とやらが、リリスにとって重圧であることもまた明白だった。
その後、3人は短い見舞いを終えると、揃って部屋を後にした。扉が閉まると同時に、あお葉はようやく安堵の息を吐き出した。
「リリス様……まるで別人のようです」
マーシャがポツリと呟いた。その言葉に、あお葉の胸は少しだけ痛んだが、同時にこうも思った。
(そりゃそうだよね……私はリリスじゃないんだから)
それでも、この状況を生き抜くためには、リリスとして振る舞うしかない――そんな決意が、あお葉の中で徐々に形を成し始めていた。