エルフ少女
馬車は静かに南へ向かって進んでいった。
王都を出てから数時間、馬車はしだいに山道へと入っていった。周囲には緑深い森が広がり、時折小鳥のさえずりが木々の間から聞こえてくる。車輪が石ころを踏みしめる音が、森の静寂に溶け込んでいた。
リリスは窓を少し開け、頬に触れるひんやりとした空気を感じながら外の景色を眺めていた。木漏れ日が馬車の側面をかすかに照らし、揺れる葉の影が地面に複雑な模様を描いている。
「もう随分、山道を走ったわね。そろそろ休憩にしたいところだけど……」
リリスが呟いたそのとき、馬車が急に揺れ、手綱が引かれた様子だった。
「お待ちしておりました、王女様」
澄んだ声が馬車の外から響いた。驚いてカーテンを開けると、馬車の前方に小柄な緑髪の少女と、もう一人、すらりと背の高い褐色少女が立っていた。
一人は白い肌に長い緑髪を背中で束ね、小柄のエルフの少女、エアリスだった。尖った耳が小さく揺れ、淡い金色の瞳が静かにリリスを見つめている。彼女は茶色の稽古着に似た動きやすい装束を身にまとっていたが、その姿にはどこか品のある気品が感じられた。
隣に立つのは、褐色の肌に深い琥珀色の瞳を持つダークエルフの少女、サリスだった。エアリスよりも背が高く、筋肉のついた引き締まった体つきが、彼女の高い身体能力を物語っていた。黒髪は後ろでまとめられ、ピンと立った尖耳がわずかに風に揺れている。彼女も同じく茶色の装束を着ていたが、手には得物である十字槍があった。
どちらの装束も無駄のない作りでありながら、緻密な刺繍が施されており、エルフならではの美的感覚が垣間見える。両者とも背筋をまっすぐに伸ばし、凛とした空気を纏っていた。
「王女様のご一行に加えていただきたく、お待ちしておりました。」
その言葉に、イルヴァとミィナが同時に眉をひそめた。イルヴァは馬車の御者席から飛び降り、地面に降り立つと腕を組んで二人を睨みつける。
「断る。我々の任務に見知らぬ者を加えるわけにはいかない」
「そうです。ご厚意はありがたいですが、リリス様の安全をお守りする責務は私たちだけで十分です」
ミィナも冷静に、きっぱりと告げる。
リリスはそのやり取りを見て、少し困惑したように口を開いた。
(二人ともエルフのようだし、若いエルフなんて初めて見たわ)
「護衛が増えるのは悪いことじゃないでしょう? それに、彼女たちも力になりたいと思って来てくれたんだし……。ねえ、二人とも、何か得意なことはある? 御者はできるのかしら?」とリリスが尋ねると、サリスが即座に答えた。
「馬は初めてですが、獣の扱いには慣れております。必要であれば、御者も務めます」
「では、試用期間としてみましょうよ」リリスがそう提案すると、イルヴァとミィナの表情が一瞬で険しくなった。
「それは認められません!」イルヴァが即座に声を上げた。「旅は散策ではない。素性もわからぬ者を同行させるなど」
「リリス様の安全を守るため、私たちは慎重でなければなりません」ミィナも力強くうなずいた。
「でも、エルフに悪い人はいないような気が……」
「それはどこ情報ですか?」
ミィナが呆れる。
イルヴァがイルヴァが一歩前に出て、目を細めて二人を見据えた。
「ふん……腕には覚えがあるようだな。ならば、我々と腕試しをするか? それでお前たちの力を見極めてやろう」
サリスが目を細め、唇にかすかな笑みを浮かべた。エアリスも静かに構えを取り、目には期待の光が宿る。空気が張り詰め、一触即発の雰囲気が森に満ちていった。
「リリス様は、ここでお待ちを。ご身辺は、ミィナがお守りいたします」
イルヴァはエアリスとサリスの前を横切り、森の奥を指し示した。
「2対1なの?」
リリスが驚いたが、イルヴァは笑顔で振り向き、「申し訳ございません。少々お待ちくださいませ」とだけ言った。
「そうご心配なく」ミィナも大きな瞳に自信をたたえて微笑んだ。
エアリスとサリスも、面目をつぶされた様子で憤然とした表情を浮かべる。互いに視線を交わし、無言のまま意志を固めるように頷いた。
3人の姿は馬車を離れ、森の奥へと消えていった。葉擦れの音だけが静かに響き、森の緑が彼らの後ろ姿をすぐに隠していった。
「では、まずは私から」サリスが一歩前に出て、足元の小枝を踏みしめた。褐色の肌が木漏れ日に映え、琥珀色の瞳が鋭く光る。
「何で闘いますか? 剣でも槍でも魔法でも、何でも構いませんよ」彼女の声は落ち着いていたが、その奥には戦士特有の熱が秘められていた。
イルヴァは無言で頷き、森の奥へと歩を進めた。細い獣道を抜けると、そこには低木がまばらに生え、地面には苔と落ち葉が敷き詰められた開けた場所が広がっていた。
「ここの広さなら十分でしょう。こちらは素手で構いません。お二人同時にどうぞ」
イルヴァは微かに口角を上げ、まるで余裕を示すかのように両手を軽く広げた。武器は持たず、まさかの素手で構える姿に、サリスの瞳が細まる。
「ふふ……油断しないことね」
彼女は足を引き、十字槍を握り直した。エアリスもまた、静かに後方に回り込む。木々のざわめき、遠くの鳥のさえずり、そして彼らの呼吸音だけが響く緊張感の中、風が一陣、葉を巻き上げた。次の瞬間——空気が裂けるように、ダークエルフのサリスが跳躍した。
サリスの跳躍はまるで獣のようだ。低木を蹴り、空中で体をひねりながら、十字槍を振り下ろす。その一撃は鋭く、風を切る音とともにイルヴァを狙った。
だが——。
「遅い」
イルヴァは片手を上げただけで、サリスの槍を軽々と受け止めた。衝撃が周囲の空気を震わせる。サリスは驚愕したが、そのまま膝を振り上げる。狙いはイルヴァの腹部——しかし、それすらも読まれていた。
イルヴァはわずかに体をひねり、サリスの膝を紙一重でかわす。そして、そのまま彼女の腕を掴み、地面に向けて投げ飛ばした。
「くっ!」
サリスは地面に叩きつけられる寸前で空中で体をひねり、手をついて着地する。だが、イルヴァは追撃の手を緩めない。瞬時に踏み込んで拳を振るった。
「っ!!」
サリスは槍を盾にし、拳を受け止めるが、その衝撃は彼女の体ごと弾き飛ばすほどの威力だった。数メートル後ろに飛ばされたサリスは、膝をつきながら荒い息を吐く。
(強い……!)
その様子を見ていたエアリスの瞳が鋭く光った。
「加勢するわ!」
彼女は手を広げ、空気中の魔力をかき集めた。次の瞬間——淡い光が指先に集まり、エアリスの周囲に小さな風の刃が生まれる。
「少しはできるようね」
イルヴァはわずかに目を細め、構え直した。
「ふふ……遠慮はしないよ!」
エアリスは手を振るい、一気に風の刃を放つ。鋭い刃が四方からイルヴァに襲いかかる。しかし——。
「甘い」
イルヴァの体が突然、爆発的な速度で動いた。風の刃を紙一重で回避しながら、まるで踊るようにサリスとエアリスの間を行き交う。
「——なっ!」
エアリスが驚いた瞬間、イルヴァの蹴りが彼女の脇腹を襲う。衝撃が走り、エアリスの体が吹き飛んだ。だが、彼女はすぐに魔法で風を操り、空中で体勢を整える。
「やるわね……!」
その間にサリスも再び飛び込み、十字槍を高速で繰り出す。イルヴァはそれをかわしながら、すれ違いざまに彼女の肩を掴んだ。
「終わりだ」
次の瞬間、イルヴァはサリスの体を空中へと放り投げた。そして、すぐさま跳躍する。空中で自由を奪われたサリスに、イルヴァの蹴りが叩き込まれた。
「ぐっ!」
サリスはそのまま地面に向かって叩き落とされる。地面がわずかに揺れ、埃が舞い上がった。
「させないわ!」
エアリスが最後の一撃を放とうとするが——その手をイルヴァが掴んでいた。
「——しまっ……!」
エアリスが気づいたときには遅かった。イルヴァはエアリスの腕を引き、足を払うように動いた。エアリスの視界が回転し、次の瞬間には、彼女もまた地面に押さえつけられていた。
「……ま、まだ……!」
サリスが身を起こそうとするが、イルヴァは余裕の笑みを浮かべながらその肩を押さえつける。
「動けるかな?」
イルヴァは落ち着いた声で尋ねた。
「……チッ……」
サリスは悔しそうに唇を噛んだ。エアリスもまた、抵抗を試みるが、イルヴァの圧倒的な力の前に、身動きが取れなかった。
「二人とも、まあ、やれる方だったよ」
イルヴァは手を離し、二人を解放した。
「しかし、まだまだ足りないな」
そう言いながら、イルヴァは悠然と立ち上がる。別格の強さだった。
サリスとエアリスは地面に手をついたまま、悔しげに彼女を見上げる。
「……認めざるを得ませんね」
エアリスが肩を落としながら言う。
「くそっ……こんなに差があるなんて」
サリスも拳を握りしめながら、悔しそうに顔をしかめた。
「……さて、どうする? これで帰るか?」
イルヴァは淡々とした口調で問いかける。
二人は顔を見合わせ、静かに息を整えながら立ち上がった。
「……いいえ。まだ諦めません」
エアリスが毅然とした態度で言う。
「このままでは終われません」
サリスも力強く頷いた。
イルヴァは満足げに頷きながら、微かに笑みを浮かべた。
「ならば、もう一度鍛え直すことだな」
そう言い捨てて、イルヴァはくるりと背を向け、馬車へと歩き出した。だが、数歩進んだところで立ち止まり、肩越しに振り返る。




