嵐の夜
あお葉は、初めての王宮外への外出に心が少し躍っていた。馬車の窓越しに見えていた景色が、馬車を降りると一気に身近に感じられる。
(ここが王都の繁華街…。まるで17、18世紀のヨーロッパの地方都市かしら)
視線を巡らせると、石畳の大通りが広がり、その両脇には木組みの建物がぎっしりと並んでいる。2~3階建ての建物はどれも個性豊かで、軒先には店の看板がぶら下がっている。パン屋や仕立て屋、香料を売る商店など、店先には商品が並べられ、行き交う人々の笑顔が見える。
空を見上げると、電線や街灯がないため視界が開けており、青空が広がっていた。日差しは柔らかく、冬の寒さも和らぎ、春の訪れを感じさせる。
「リリス様、風が少し冷たいので、お召し物をお直ししますね」とマーシャがそっとマントを整え、もう一人の若い侍女も微笑みながら見守る。
護衛として付き従う近衛剣士の二人は、無言のままリリスの両側に控え、警戒を怠らない。そのほかにも、離れた場所に数名の護衛がいるはずだった。リリス一行が繁華街に足を踏み入れる様子は、周囲の人々の目を引いたが、彼らはすぐに日常へと戻り、通りの喧騒は変わらずに続いている。
「さて、まずは町並みを見て回りましょうか」とリリスがつぶやくと、マーシャは「お供いたします」と軽くうなずき、侍女と護衛たちが控えめに距離を保ちながらついてきた。
石畳を踏むたびに感じる新鮮な感覚。あお葉としては、この世界の都市文化をじっくり観察する絶好の機会だった。通りを歩きながら、店先の商品や人々の暮らしぶりに目を留め、何かを感じ取ろうとしていた。
「これは海外旅行のわくわく感ね」あお葉は、心の中でつぶやいた。
大学卒業旅行で訪れたイタリアの街並みが、目の前の王都の風景と重なる。石畳の広場や狭い路地、軒を連ねる店々の雰囲気が、どこか懐かしい感覚を呼び起こしていた。
しかし、今回の旅にはもうひとつの感覚が伴っていた――圧倒的な注目だ。リリスが連れている護衛と侍女たちのものものしい一行は、町の人々の目を引いていた。人々はすれ違うたびに、ちらりと視線を投げかけるが、すぐにさりげなく避けるようにその場を離れていく。
リリスは大通りの店の一つに目を留めた。陳列された鮮やかな色合いの布地や装飾品が目を引く仕立て屋だった。
「このお店、少し見てみましょう」と声をかけると、マーシャがすかさず「かしこまりました」と応じ、扉を押し開けた。
中に入ると、薄暗い室内には所狭しと商品が並べられていた。リリスは目を輝かせながら商品を眺め、マーシャに尋ねる。
「この布地、王宮にはない感じね。これ、どれくらいするの?」
マーシャは店主に尋ねたあと、リリスに耳打ちする。
「リリス様、こちらは銀貨5枚ほどです。庶民の方々には少々高価な品ですが、貴族の方々には一般的な価格かと」
「なるほど…」あお葉は、物価の感覚をなんとか掴もうとするように頷いた。
次に訪れたのは、薬草や香料を扱う店だった。ここでは見慣れない植物や粉末が並んでいた。リリスは棚に並んだ鮮やかな瓶を見て興味を惹かれる。
「これ、何に使うのかしら?」
マーシャが店主に質問すると、「こちらは傷の治癒を早める軟膏を作るための香料でございます」と返答があった。
(なるほど、この世界ではこんなものが普通に売られているのね)
あお葉は心の中で感心しながら、現代にはない珍しい品々に目を奪われた。
そのたびに侍女たちが店主に価格を尋ねたり、用途を聞き出したりしてくれる。リリス=あお葉は異世界特有の文化や物価、商品について知識を深めつつ、「現代の視点」でそれらを分析していた。
庶民のマーケット広場に足を踏み入れたリリスは、目の前に広がる活気あふれる光景に感嘆の声を漏らした。屋台がずらりと並び、果物やパン、手工芸品、さらには焼き立ての肉串やスープのような食べ物を売る店もある。庶民たちが交わすにぎやかな会話や、品物を勧める商人たちの声が、広場全体を彩っていた。
香ばしい匂いに惹かれて、焼きたての肉串を売る屋台に近づいた。興味津々で眺めていると、マーシャがすかさずリリスの横に寄り添い、屋台の店主と交渉を始めた。
「リリス様、こちらの肉串は銀貨1枚未満でございます。お試しになりますか?」
「そうね、せっかくだから食べてみたいわ」リリスはにっこり笑い、マーシャから受け取った肉串にかぶりついた。ジューシーな味わいが口の中に広がり、彼女の顔に満足げな表情が浮かぶ。
「おいしい! もっと他にも試したいけど……あれ?」
ふと空を見上げると、どんよりとした雲が広がり、先ほどまでの晴天が嘘のように薄暗くなっていた。遠くで雷鳴が響き、冷たい風が広場を通り抜ける。
「リリス様、そろそろ戻られたほうがよろしいかと存じます」マーシャが落ち着いた声で促す。
リリスは少し名残惜しそうに広場を見渡しながら頷き、護衛の近衛剣士たちとともに馬車へ向かう。一行は風が強まる中、素早く馬車に乗り込み、王宮へと帰路についた。
その夜――。
嵐が街を包み込むように激しく吹き荒れ、雷鳴が絶え間なく響き渡る。王宮の窓を叩く雨音がリリスの部屋にも聞こえてきた。リリスは寝台の上で、昼間の賑やかなマーケット広場や美味しかった肉串のことを思い出していたが、突然、部屋の明かりが不自然に揺らいだ。
次の瞬間、冷たい風が部屋の中に吹き込み、ランプの炎が一斉に消える。暗闇の中で感じる異様な空気――。
とうとう、嵐の魔王が訪れることになるのだった。




