リリス王女の寝室にて
月明かりが淡く照らす広大なアルセリオン王宮、その中でも特に美しいと噂される第三王女リリス・エステル・アルセリオンの私室は、まるで絵画の一部のようだった。
高い天井には細やかな彫刻が施され、純白の大理石に金箔が織り込まれた柱が部屋を支える。壁には、遠い昔に描かれたとされる優美な風景画が飾られ、窓辺には柔らかな刺繍が施された絹のカーテンが揺れている。床を覆う深紅の絨毯は足音を吸い込み、その上には精巧に作られた家具が並んでいる。
リリスが座っているのは、細長い脚のついた青いベルベルトの椅子。隣には、同じくベルベルト張りの肘掛け椅子と、光沢のある木目の丸いテーブルが置かれている。
しかし、この豪華な部屋の主であるリリスは、その美しい空間の中で微かな影を落としていた。
鏡台の前に座る彼女の姿は、どこか憂いを帯びていた。彼女の年齢は十五歳、その年相応の瑞々しさを備えながらも、どこか子どもらしさを失いつつあった。薄い金髪が肩口で柔らかく波打ち、大きな青い瞳は月光を受けて輝いているはずだったが、今はその輝きがやや曇って見える。
彼女の頬は、日々の悩みのためか少し痩せこけており、唇も乾いた色合いを見せていた。その小さな手は、自分の膝の上でぎゅっと組み合わされ、落ち着きのない様子を物語っている。
「明日になれば、すべてが決まるのね......」
リリスは小さく呟いた。その声は、彼女自身にすら届かないほどのか細さだった。
明日、隣国の第二王子との婚約が正式に発表される。彼の名はエドウィン・グレイヴァル。端正な顔立ちで知られるが、性格は傲慢で自己中心的。そのわがままぶりに隣国でも頭を抱える者が多いという噂を、リリスも耳にしていた。
(あの方と一生を共にするなんて......本当にこれでいいの?)
自分が国と家族のために決まった未来に従わなければならないのはわかっている。だが、まだ十五歳の彼女にとって、それは余りにも重く、現実感が希薄な運命だった。
机の上に置かれた羽ペンと開かれたままの手紙には、書きかけの言葉が並んでいる。しかし、どれも最後まで綴られることなく止まっていた。(私は本当にこれでいいのだろうか)という疑問が、リリスの筆を止めてしまっていたのだ。
外から聞こえるかすかな夜の静寂が、彼女の不安をさらに募らせる。その耳に届くのは、自分の心臓の鼓動と、時折窓の外を過ぎる風の音だけだった。
「マーシャ、そろそろお休みください」
部屋の隅で控えていた侍女が、リリスの申し出に一瞬ためらいの表情を見せたものの、深々とお辞儀をして静かに部屋を後にした。
リリスは一人きりの時間に身を委ね、鏡の中の自分を見つめた。青い瞳が、どこか遠くを見つめるように揺れる。その視線の先には、明日を越えた未来があるのだろうか。それとも、ただ暗闇だけが広がっているのだろうか。
(私は、何を求めているの......)
彼女は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。そして、カーテンをそっと開くと、月明かりがその顔を照らした。その光の中で、リリスの目元には微かな涙の跡が浮かび上がった。
彼女は一度深呼吸をすると、机に戻り、書きかけの手紙をすべて手に取った。そして、それを化粧台の横にある小さなゴミ箱にそっと捨てる。新しい紙を一枚取り出し、震える手でペンを持った。
「申し訳ございません」
その一言だけを書き記すと、リリスはペンを置き、立ち上がった。窓を開け放つと、冬の風が冷たく流れ込み、彼女の髪を乱した。冷気が肌に触れるたび、彼女の心は不思議なほど静まり返っていく。
窓の外を見下ろすと、三階の高さと、そのさらに下に水をたたえた堀が見えた。暗闇に沈むその水面は、まるで全てを飲み込む深淵のようだった。
(これで、全てが終わる......)
リリスの顔に、決意の色が浮かぶ。そして、彼女は窓枠に手をかけ、ためらいながらもその身体を闇へと投じた。
冷たい風が、彼女の耳元を鋭く吹き抜ける。その瞬間、彼女の瞳には、今まで見たことのないほど鮮やかな月明かりが映っていた。
―――
次に目を覚ましたのは、どこか異様な空間だった。
数多くのろうそくが灯された窓のない部屋。漂う空気には、古びた紙と薬草が混じったような独特の香りがする。黒い石で作られた壁には無数の魔法陣が描かれ、床には精緻な模様が施された大きな絨毯が敷かれている。その中心には、リリスの身体が静かに横たわっていた。
そのすぐ傍らで、一本の杖を手に立っているのは、白髪に長い耳を持つ老人だった。エルフの血を引き、王国の最長老魔導士として名高いゼノンである。
「やれやれ、今回こそ成功して欲しいものだ……」
ゼノンは低く呟きながら、リリスの額にそっと手をかざした。彼の周囲には、炎の揺らぎの中で魔力が青白く光りながら渦を巻いている。その光がリリスの身体を包み込み、彼女の青白かった顔に徐々に血色が戻ってきた。
三日間にわたる禁忌の蘇生魔術――世界でもほんの一握りの術者でなければ、このようなことはできない。そして、この術を行使する代償もまた、計り知れない。しかし、それでもゼノンは迷いなくこれを行った。
やがて、リリスの瞳がゆっくりと開いた。だが、その瞳には、以前の彼女の面影はなかった。
(ここはどこ......? 私は、誰?)
戸惑いの表情を浮かべたのは、リリスの身体を借りた全く別の存在――前田あお葉の意識だった。
「目覚めたか」
ゼノンの声が、静かな部屋に響いた。彼はリリスの表情の変化を見て、何かを察したように小さく息を吐いた。
「その反応......やはり、魂が入れ替わっているようだな。さて、まずは状況を説明せねばなるまい」
そう言うと、ゼノンは杖を軽く振り、周囲のろうそくの火を明るく灯した。暖かな光が部屋を満たし、彼の顔が一層厳かに浮かび上がる。
「ここは私の魔法実験室だ。そして、お前は......いや、この身体はアルセリオン王国の第三王女、リリス・エステル・アルセリオンのものだ」
ゼノンの言葉に、あお葉は混乱を隠せなかった。
(アルセリオン王国? リリス・エステル・アルセリオン?......何を言っているの?)
「お前が何者であれ、今はこの事実を受け入れるしかない。私が蘇生術を行った結果、こうなってしまったのだ。だが、それもまた運命というものだろう」
ゼノンの静かな声が、あお葉の混乱する心に響いた。こうして、リリスの身体を借りた前田あお葉の新たな物語が始まろうとしていた。