キャプション・ボード(三十と一夜の短篇第67回)
誕生
Birth
望月ヤマト
24.8×33.0cm
油彩 キャンバス
1921年
望月画伯の『小時代』の代表作。これまでの革新的な画法を捨て、細密画的タッチに原点回帰したまさに『誕生』である。細密画でありながら不幸な私生活に影響された停止期間を跳ねのけた躍動感と生命力を感じさせる。
(残された落書き)
間違いはここから始まった。Y.M
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叫び声の習作
Study of yell
望月ヤマト
40.0×169.8cm
透明水彩 水彩紙
1922年
望月画伯の作品では井戸がモチーフになることが多々ある。画伯の怪死事件後は井戸を描いた作品はどうしてもその事件に考察が引きずられがちだが、生前は世界に対する人間の影響力を考察する評論が多かった。本作については井戸を横から見たもので他の作品中の井戸のようにのぞき込んだりはしない。そのため顔が確認しにくく、井戸の底の人物は男性にも見えるし女性にも見える。絶望しているようにも見えるし、歓喜しているようにも見える。『小時代』にしばしば見られる中性が落とし込まれたともいえる作品である。
(残された落書き)
お前の子殺しをおれは決して忘れないだろう。Y.M
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エルサルバドルの太陽
Sun of El Salvador
望月ヤマト
42.5×60.1㎝
油彩 キャンバス
1922年
水に映る太陽をもって月とする独特のモチーフが印象的な本作は1918年、百田康子画伯との中南米旅行で見たマローラ遺跡の簡単なスケッチから起こしたものである。現地の政情不安と百田画伯とのあいだにあった不幸な行き違いが原因となり、早期に帰国することになったが、このときの旅行のことは望月画伯にとって大きな影響を与え、1918年以後に制作された作品の数々に見ることができる。
本作は『小時代』に描かれた唯一の中南米をモチーフとした作品である。
(残された落書き)
太陽を直視できぬものだけが、水に映った影を見る。Y.M
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恍惚とする魚類たち
Ecstatic fish
望月ヤマト
33.3×59.7cm
テンペラ 板
1923年
この作品については評価が分かれる。画商桃内靖治郎氏との出会いが『小時代』を終わらせたという意見やむしろこの作品こそ『小時代』作品の精髄であるという評論がある。しかし、確かなことは桃内氏との出会いは常に沈みがちな心象を抱く望月画伯にとって一流のさわやかな風のようなものであった。その安堵と幸福が一見残酷なこのモチーフにも表れている。火に巻かれた人びとの表情は殉教の喜びに満ちている。
(残された落書き)
彼らは聖人である。
彼らは殉教者である。
彼らはつみびとである。
望月もつみびとである。
我々もまたつみびとである。
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桃内義雄の肖像
Portrait of Yoshio Momouchi
望月ヤマト
45.6×61.2cm
油彩 キャンバス
1923年
輝かしい未来が待つ利発な十三歳の少年を細密なタッチで描いたその背景には燃える城が描かれている。その城は少年自身よりも細かいディテールによって構成され、王子を抱きながら火の玉となり塔から飛び降りる乳母や崩れ落ちる城壁の下敷きになる人びとの苦悩と絶望を余すことなく描き切っている。画商桃内氏とは1922年ごろから家族ぐるみの付き合いをしていたといわれる。その際に桃内氏の弟にあたる義雄少年との交流もあり、彼を描いた作品は六作あるが、これを除くと、どれも凡庸な肖像画である。六点の肖像画のなかでこれが第一作であることから桃内家のこの肖像に対する評価が望月画伯が期待したものではなかったことが予想される。
(残された落書き)
卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者! Y.M
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ミルクをすする男女たち
Fools sipping milk
望月ヤマト
129.9×303.6cm
油彩 壁画
1925年
望月画伯が1925年、そして彼が怪死した1927年に三点発表した『呪詛絵』の一作目で当時の画壇に対する批判であることは明白である。壁一面に何百体と描かれた異様で輪郭の崩れた生き物たちにはヒエロニムス・ボスの影響が顕著にみられる。むしろ、望月画伯はボス自身になろうとした節さえ考えられた。この作品は他者の作品について作者への不必要な罵倒までしてしまう不器用な性格のために画壇から孤立していた望月画伯が画壇に対して出したひとつのこたえである。この醜い生き物ひとつひとつに他の画家たちの顔が使われているのは明白であった。これにより画壇から事実上の追放処分を受ける。この時期、画家で交流のあるのは当時同棲していた百田康子画伯だけになっていった。
(残された落書き)
壁を相手に嘆いたところでお前の絵はお前を救わない。Y.M
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桃内兄弟の肖像
Portrait of Yasujiro Momouchi and Yoshio Momouchi
望月ヤマト
45.1×69.7cm
テンペラ キャンバス
1926年
画商桃内靖治郎氏と弟の桃内義雄少年の肖像は特に技術として優れたところがあるわけではないが、『呪詛絵』と比較すれば、いかに桃内兄弟への感情が親しいものであるかが、はっきりと分かる。遠近法を排した構図には古式ゆかしい聖性が読み取れ、望月画伯が桃内兄弟へのプラトニックな愛情を抱いていたという説を補強するかのようだ。桃内氏と知り合えたことはどこか破滅的なところのある画伯が得た安らぎのときであるのだが、それゆえに『小時代』にふさわしくない画風がこの時期には存在するという声もある。確かにこの肖像画はありふれたものかもしれないが、しかし、芸術は芸術家の生と切り離すことはできず、継続性のあるものであることを一筆しておかなければならない。
(残された落書き)
純粋であるほど悩ましく、醜悪であるほど喜ばしい。Y.M
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百田画伯の肖像
Portrait of Yasuko Momoda
望月ヤマト
38.1×66.8
油彩 キャンバス
1927年
『呪詛絵』の二作目であり、百田画伯を描いた唯一の作品である。線は崩れ、手足は歪に生え、暖色を多用する。これをもって『小時代』以前の望月画伯に戻ったとする評論があるが、ただ望月画伯が自分の庭に埋める直前の百田画伯を描いだだけという意見もある。この作品の発表の直前年1926年10月に桃内義雄少年が兄の桃内靖治郎氏を殺害したのち自殺した事件があり、百田画伯がこの両人と性的関係を結んでいたことが分かっている。兄と同じ女性を愛し独占したいという思いで精神的に追い詰められた義雄少年が実の兄を殺害し、自らも命を絶ったことは望月画伯に計り知れない絶望と後悔を惹き起こしたと思われる。望月画伯は以前から百田画伯の奔放な性生活について悩まされていて、1917年には百田画伯が望月画伯に何も相談せず堕胎もしていた。『呪詛絵』において唯一暖かい色彩の本作は長年の恋愛関係にあった百田画伯への愛憎がこもった複雑な感情の発露ともいえる。
(残された落書き)
噛み癖のある獣が優しくなれることをお前は知りもしない。Y.M
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自画像
Self-portrait
66.6×66.6cm
油彩 キャンバス
1927年
『呪詛絵』の第三作目で、のぞき込んだ井戸の水面に映る自分の姿を描いたもので画伯が見つかった井戸のそばに、本作がイーゼルにかかったまま放置されていたことを考えると、これが望月画伯の最後の作品ということになる。一見乱暴だが計算されたタッチは冷たく光る石や背景の曇り空を大胆に描き、死を前にして一切の枷がなくなったかのように生き生きと絵を描く画伯の思いが伝わるようである。