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【注意】
最後、性描写を匂わせるものがあります。
今から三ヶ月前のこと。
「よう、久しぶり」
「…………アンタ、誰だっけ」
「オマエのそれは挨拶か?」
居酒屋のカウンターで一人酒にしゃれ込んでいると昔からの知人に話しかけられた。
店員にビールを頼みよっこらせと言いながら椅子に座る。そして店員が寄越してきたお通しを受け取った。お通しは適当に切ったキャベツに塩だれをかけたものだった。
野郎と一緒に吞むなんてそういうつもりは一切なかったが、相手は一年ぶりに会う知り合いだ。たまには悪くないかと思い自分は何も言わなかった。
上下毛玉だらけのスエット姿の男にスーツ姿のサラリーマンという奇妙な組み合わせで始まったそのやりとりは、周囲の話声でかき消されるくらいには静かなものだった。
「クズなんてひでえこというなよ」
「どうせ今も無職なんだろ」
「楽に生きたいんでね」
「そうかい、クズだな」
知人は箸でキャベツをつまみながら店員から差し出されたジョッキビールを受け取る。
知人。石井とはかつての仕事仲間だった。
適当な酒場で知り合い飲んだくれ、口論するほど程度には仲が良いが、友人と呼べるほどの仲ではないと自分は思っている。
以前は仕事を仲介してもらっていたりもしたが、自分が働くのが馬鹿らしくなってからは一切連絡を取っていなかったから本当にこの場で出会うのは偶然である。
「一応聞くが今どうしてんだ」
「あー………」
この格好で飲んでいるので誤魔化しようがないが、なんとなく言うのは気が引けた。
この男は女に金をせびることを良しとしない、自分とは逆のタイプ。だが一年ぶりでの再会ではあるものの自分の事情はある程度把握している。別に今更説教されたところで痛くも痒くもないかと思いぎこちなくも口を開いた。
「メンヘラ女の世話をしながら居候してる」
「とうとう穀潰しにまで成り下がったか」
「可愛い女の子を介抱してやってあげてんだろ」
「どうせ慰めるのを口実にしっぽりヤってるんだろ」
「Win-Winだろが」
「どこがだよ」
その顔は呆れて説教する気にもなれないらしい。
手には指輪をしていないが結婚はしていないようだ。フェミニストな癖にモテないのは相変わらずだなとまたビールを頼んだ。
「……その相手は良い女か?」
「さぁな。まあ顔は悪くないし胸もデカイ。でもガチのメンヘラだから、部屋でゲロだの小便だのまき散らすこともあったけど」
彼女の家に転がり込んでかれこれ三ヶ月が経つ。最初こそその状況に驚きもしたが、それを放置するのも気が引けて無言で世話をすればゲロに耐性が出来てしまったが多少の暇つぶしにはなった。
「……それだけ聞けば最早介護だな」
「ああ。でも俺が見たのは2回ぐらいだ。一応仕事には行ってるみたいだしな。あの駅にある地雷系の多い安いソープだよ。源氏名はなんだったけ……」
本人に聞けばわかるかなんてスマホからトークアプリを起動しようとしたが、行かないし聞きたくないと止められた。
女に誠実とは言ったが、相手がいない時はそう言う店で発散するようなヤツだったはず。だが「婚約者がいるんでね」と付け足された。なるほど彼もいい歳だから身を固めることにしたのだろう。指輪をしていないから分からなかった。
「早いな」
「そうでもねえよ。付き合い始めたのもオマエが連絡しなくなったころだ」
「……あっそ、おめでと」
これ以上は互いの近況を話すことは無く、しばらくは他愛もない雑談が続いた。注文の度にカウンター上では色とりどりの食器が増えたり減ったりする状況を眺めて、まあコイツにおごってもらえばいいかなんて思う。
年の近い男同士で実の無い会話をするのは久しぶりだ。近況を石井と疎遠になる一年前がとても遠い記憶のように懐かしく思えた。
石井はコトンと空になったビールジョッキを置いてオマエはと深いため息を吐く。
「オマエは、本当に何もしてないんだな」
「あぁ、そうだよ」
「いつまでそうしてるつもりだよ、遥祐」
途端にこの状況が他人事のように思う。あぁ、ここまで来て説教かと今更痛くも痒くもないことを思う。
パチンコ店で出会う常連客でも、たまにそうやって自分に説教をする爺はいたのだ。
「仕事をするのが、馬鹿らしくなった。それだけだ」
「世話をするくらいならもう少し大切にしろ」
「…………」
無言でいる自分に呆れながら石井は懐から名刺入れを取り出すと、雑用なら仕事はいくらでもあると、自身の名刺を置いて出て行った。
俺の分も奢ってくれよ。
―――
「おかえり」
今日も今日とて同居人は先に帰ってきていた。20時を回っており、昼からのシフトなら既に帰ってきても別におかしくなかったけど。
部屋を見渡せば、部屋中のゴミや汚れが徐々に減っており、その代わりゴミ袋が積み重なっていた。その隙間に彼女は座ってスマホをいじっている。
古いものも捨てたようで、カーペットやシーツ。布団カバーが新しいのに取り替えられていた。
こういう時は何かアクセサリーとか、そういうもので気分転換すべきなのではないかと思ったが、彼女は既にネイルも髪も綺麗に整えたばかりだった。
「……おう」
片付いて広くなった部屋は落ち着かない。しかも風俗から帰って早々に同居人の顔を見ると妙な罪悪感が芽生えている。
すっきりした状態で済ませられれば別にどうもしなかったのだろうが、本番行為が無かったからなのか満足出来なかった。
「なんか食べる?」
「いや、いい…………明日食うから」
「分かった」
彼女が気配りできるようになったから尚更顔を合わせづらく、ぎこちない返事しか返せなくなる。
自分はシンクの前に立ってコップから水を入れて飲む。そしてしゃがんで冷蔵庫の中を見れば一番手前にペットボトルのお茶が入っており、その奥に昨日自分が買ったビールが入っていたが、いつもなら酒を呑むのに奥のビールを取る気力が起きなかった。
立っているわけにもいかず、いつも通りの場所に座ろうとしたが、ゴミ袋が邪魔をしているせいで座れない。
もっと他にいい所があっただろうにと退かそうとしたが、やけに同居人からの視線が気になってその手を止めた。
「……なんだよ」
「ゴミ出そうとしてるのかなって……」
「しねえよ。この時間にめんどくさい」
自ら行き場を失った手を引っ込め、仕方なく同居人の隣に座った。
まだ散らかってはいるが片付いた部屋に、多少マシになってきた身なり。時給の良い仕事。気持ちの余裕が出来つつある今、少しづつ彼女はまともな人間になろうとしている。
そんな彼女の手前だからなのだろうか、これまではなんとも思わなかった事が今では虫の居所が悪い。
前にも言った通り彼女は馬鹿な女だ。
素直で下手な笑顔でくしゃりと笑う彼女は、愛の飢えを凌ぐためにひたすら男を求め、挙句の果てに社会のヒエラルキーの底辺に堕ちてしまった女。
一度堕ちた人間がまともな生き方ができるかどうかなんて同じ堕ちている身であるとはいえわからないが、自分と同じように落ちぶれたままでいて欲しかった。いくらでもそばに居てやるから、自分に意地汚く縋っていて欲しかった。
邪魔だったのか適当に結いていた髪に手を伸ばせば滑らかなそれが手から滑り落ちる。
髪を触られた事に少しだけ驚いたのか彼女の肩が震えたので、思わず手を離してしまった。
「どう、したの?」
キョトンとした顔でこちらを向く彼女に自分は自分が何をしたかったのか分からず、誤魔化すように彼女の頭を掴むように撫でた。
「わっ!?」
「なんでもねえよ」
突然の事で戸惑っている同居人だが満更でもない顔をしていた。
ボサボサになるまで髪を乱してそのまま彼女の身体を押し倒せば、彼女は抱かれる思ったのかそのまま自分の動きを伺うように見つめてくる。
本当に欲しかったのは居場所だけで本当は自分となんかシたくないくせに。
「……遥祐?」
この状態で一切動かないので戸惑う同居人。
そういえば今日は酒を飲んでいなかったことを思い出し、それと同時に自分は酒を飲んだ状態で彼女を抱いていたことも芋づるのように思い出す。酒気を帯びないと何も出来ないなんて惨めな自分にまた嫌気がさした。
「…………悪い」
体を起こして手を離した。
彼女からすれば意味もなく謝罪を述べるように見えているだろうか。
正直自分自身も何故彼女に罪悪感を抱くのか分かっていない。これまでソープに行ったこともあったし、それが彼女にバレることはあってもお咎めもなかったから。何となく。ただそう思った。
「太った私って魅力ない?」
不安がる彼女のTシャツの隙間から下着の黒い肩紐が覗き見える。
骨が浮き出ている鎖骨も二の腕もまだ細い方なのに、なぜ女はそこまで見た目を気にするのか分からない。柔らかい方が抱き心地がいいだろうに。
「肉はあった方がいいだろうが」
「バカ」
拗ねた。こうなると面倒臭いのは経験上分かっている。最悪彼女が金を寄越してくれないだけではなく飯もくれない。
「……いいや、今日、パチ行って、さ」
「なに、また負けたの?」
「…………そうだな」
久しぶりに彼女に嘘を吐いた。何かを隠すことはあっても偽ることはなかったせいか、少しだけ胸の奥が痛む。
彼女は気にしないと言った素振りで両腕を自分の方へ伸ばしては引き寄せてきた。彼女は膝立ちで自分の顔に胸を押し付けてきた。
「しょうがないな」
そのままゆっくりと自分の髪を撫でられる。なぜ自分が慰められているのだろうか疑問に思ったが辞めた。
風俗でもそういうプレイがあった。胸が大きい彼女のことだからそういうコースも受けているのだろうか。柔い胸に自分の顔に埋めると、ああ、こうしていつも知らない野郎を抱いているのかなんて自分の中で沸々と嫉妬の感情が湧いてくる。
以前から分かっていたことではないか。今更こんなことを考えるなんて烏滸がましいにも程がある。
彼女が男を選ぶ側なんて思ったことは無いが、この同居人が自分のモノだなんて思ったことも思ったことは微塵も思ったことは無かった。
「なあ、今も仕事でこんなことしてんの」
「……うん」
少しだけ彼女の腕が強くなった。彼女が自分の身体を売っている現状を嫌だと思っていることは嫌でも察してしまう。
「……嫌ならやめてもいいだろ」
ただの居候が何を偉そうに。それに彼女は律儀なところがある。最近店を変えたばかりだからすぐに辞めることも憚られるのだろう。
それでも自分を抱き締めている彼女に手を伸ばしてしまうのは男の性。そして彼女もそう言ってくれる自分を抱き締めつつ縋っていた。
「……シたくない……遙介とがいい」
「そうかい」
「キス、したい」
「あぁ」
返答しながら彼女から体を離し、お互いの衣服を慣れた手つきでたくし上げてはその肌を露わにし、お互いの本能のままその肌に触れ合った。
ここまで己が惨めな気分になる行為も初めてだった。彼女も汚く涙と鼻水を垂れ流すわけでもなく、ただひたすらお互いにしたいように善がって求め合った。
酔っていない状態ですらリードらしいリードをするわけでもなく、ただ乱暴に犬のように息を荒げて好きなように腰を動かして愛撫し合って、時には噛みつかれたり背中に爪を立てられた。
好きだと何度も縋る彼女の声に自分は何も答えることが出来ず、その代わり体のどこかに唇を落とすせば満足そうな顔をする。
ただ自分の中にあるぽっかり空いた穴を埋めたかった。それは彼女も同じはずだった。懐かれたのも優しくしてやってあげたから好きだと思っているだけで、それ以外は彼女を搾取するだけして、何もそれらしいことはしていない。
自分はこの女に懐かれ好かれているのを良いことに甘い汁を啜っているだけ。だが彼女の方は飲みたくもない不味いそれを咥えて、昼も夜もただひたすら野郎の奉仕をしている。
そんな彼女の馬鹿さに一瞬だけ嫌気がさして、リストカットしていた左腕の傷痕の上から血が滲むくらい強く噛みついてやった。
セックスをすれば大抵彼女の寝付きは良かった。
雑に扱っているのに自分とすれば、満足そうな顔をしては泥のように眠るのだ。夜中に目が覚めることもあまり無いらしい。
下着一枚という情けない恰好で煙草を吸いながら眠る彼女の見慣れた寝顔を見つめ、吸い切った吸い殻を灰皿に押し付けると、彼女の隣になだれ込む。
自分の肌を彼女の背中に押し付けて眠った。