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腐海  作者: 遠野麻子
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もうひとり

――あれが結局なんだったのか、今でも分からないんです


 そう語る恵さんが一人暮らしをしていた頃の話。


 上京して5年目、恵さんはすっかり一人暮らしにも慣れていた。

 朝は7時30分に起きて、コーヒーとパンで朝食をとる。洗い物を済ませたらメイクをして家を出る。徒歩5分ほどの駅から15分ほど電車に揺られたら職場は目の前だ。


 利便性がいい割りにはアパートの家賃も安く、また、他の住人も取り立てて問題を起こすような人もいなくて恵さんはその住まいを気に入っていた。

 なにより初めての「自分の城」だ。一人暮らしを始めた頃は週末になると雑貨屋を覗き、食器などの小物を揃えていた。また、テレフォンショッピングも利用していた。

 

 その日もコーヒーを飲んで、ぼんやりと仕事のことを考えていた。


「今日は締日だから伝票の整理をやらなくちゃね」


 コーヒーを一口飲む。そのマグカップは恵さんのお気に入りだ。赤いワンピースを着た愛らしいウサギの絵が描いてある。


「いけない、ゆっくりしてられないわ」


 コーヒーを飲み干し、手早く洗って食器かごに入れた。

 メイクをしながらふと時計を見る。定刻どおりだ。朝の10分と夕方の10分は大きく違う、といつも思う。洗い物は帰宅後に回したいという衝動に駆られる時もあるが、それをするとだらしない癖がついてしまいそうで毎朝しっかりと洗っている。

 すっかり夏日となった日差しの中、家を出た。


 一日忙しく働いた。恵さんの職場では、勘定科目別に分けて出金伝票の裏にレシートや領収書を貼り、金額を表に書く。アナログな作業だが小さな会社ということもあり、ずっとそれが続いている。その作業は隣の席の山田さんの役割で、恵さんは仕上がった出金伝票をパソコンに入力し、金庫にある金額と合っているか確認するのが役割だ。


 何度計算しても合わず、伝票の金額と領収書の金額を照らし合わせてようやく「0」と「6」を見間違えていたことに気がついた。山田さんは少し悪筆なのだ。項目も少し読みづらい。せめて数字は丁寧に書いてほしいと何度も言っているのだが、暖簾に腕押しでまったく直そうとしない。役割を交替したいところだが、恵さんより25歳年上の山田さんはパソコンが苦手だそうだ。

 そんな理由で、毎月締日には微妙なストレスが溜まる。


「今日は疲れたなぁ」


 ため息をつきながら帰宅した。といっても、残業に至るほど働いてはいない。いつものとおり仕事をして、終わった頃には終業時間がくる。

 他の職場の友人たちは残業続きで疲れる、とよくメールを送ってくる。それに比べれば「0」と「6」の違いなど些細な問題だ。

 給料の額はそれほど良くはないが、居心地のいいその職場は気に入っていた。

 

 鍵を開けて電気をつけ、部屋に入る。


「あれ……?」


 ウサギの絵が描かれたマグカップがテーブルの上にあった。

 不思議に思いながら確認すると、カップの底にうっすらとコーヒーのようなものの跡が残っていた。


「……洗ってなかったっけ?」


 自分の記憶に間違いがなければ、確かに洗ったはずだ。

 合鍵も誰にも渡していないので誰かが家に入ってコーヒーを飲んで帰った、ということもないだろう。

 念のため通帳などの貴重品を確認したが、盗まれていなかった。

 自分の勘違いで洗うのを忘れたのだろう、そう納得することにした。


 翌日。

 恵さんが昼食を終え、職場に戻ると机の上にメモがあった。


   鈴木さんという方から電話がありました。

   03-7XXX-XXXX  山田


 書かれている電話番号を見た恵さんは驚いた。

 それは恵さんのアパートの固定電話だったからだ。

 ただし、恵さんの名字は鈴木ではない。

 テレフォンショッピングで買い物をする時や、なにかの会員登録をする際は主に固定電話を使っている。仕事中にセールスの電話がかかってくると困る、というのが理由だ。

 恐る恐る書かれている自宅の電話番号にかけてみた。


――ツー、ツー、ツー


 返ってきたのは話し中を知らせる音だけだった。

 隣に座っている山田さんに確認してみる。


「これ、この番号で間違いないですか?」


「ええ、間違いないわよ」


 「9」に見えないこともない「7」を指差す。


「これ、『7』ですか?『9』ですか?」


 山田さんが少しむっとした顔で答えた。


「『7』ですよ」


「この電話の人、何の用事か言ってました?」


「特には。離席しています、って答えたらまた後でかけるって。念のため電話番号を聞いたら、その番号を言われたの」


「……これ、うちのアパートの固定電話の番号なんですよね……」


「ええ? どういうこと?」


「それは私も知りたいです……」


「かけてみました?」


「かけたけど、話し中で……この番号で間違いないですよね?」


「ナンバーディスプレイを見ながら確認したので間違いないわ」


 着信履歴を確認したところ、やはり間違いなかった。

 見知らぬ誰かが自分の部屋から電話をかけている姿を想像するとぞっとする。


「あの、その人女性でした?」


「ええ、女性だったわよ」


 少なくとも変質者の類ではなさそうだ。それでも気味が悪いことには変わりない。


「……どうしよう……」


「社長に相談して早退させてもらったほうがいいんじゃ……」


 山田さんが心配そうな顔でそう言った。


「そうですよね……」


 ちょうどそう話しているときに社長が昼食から戻ってきた。

 事情を説明し、早退させてもらうことにした。

 

 自宅が近づくにつれ、恵さんは緊張してきた。

 家に入って「誰か」と鉢合わせたらどうしたらいいのか。

 散々迷った恵さんは自宅近くの交番へ行き、事情を説明して付き添ってもらうことにした。


「本当に間違いないんですよね?」


 疑わしそうに警察官が聞く。


「着信履歴も確認したので……」


 じわり、と汗をかいた手で、ドアの鍵を開けた。

 先に入った警察官が風呂場やトイレ、押入れなど人が入っていそうな場所を確認した。


「……誰もいませんね」


「そうですか……」


 ほっとしながらふと固定電話をみると、受話器が落ち通話ボタンが押された状態になっていた。

 話し中の原因はこれか、と思いながら元に戻した。


「貴重品は大丈夫ですか?」


 そう聞かれ、あわてて確認する。


「……大丈夫みたいです」


「鍵を誰かに貸したこととか、合鍵を渡したことはありますか?」


「どちらもないです」


 恵さんがそう答えると、警察官は腕組みをしてうなった。


「うーん……とりあえず今のところはなんとも言えないですね。注意してパトロールするので、またなにかあったら通報してください」


 そう言って警察官は帰っていった。


「ふう……」


 ひとりになった恵さんは大きなため息をついて部屋を見渡した。

 知らない誰かが入ったかもしれない、そう思うと部屋の何もかもがよそよそしく見えてくる。いやな気分だ、と恵さんは思った。

 身体が汗ばんでいることに気がついた。

 お風呂にでも入ろう、そう思い浴槽にお湯をためる。鍵とチェーンロックをしっかりかけてのんびりと湯に浸かった。


 身体を拭いている間に湯船の湯を捨てた。入浴後はすぐに湯を捨てて浴槽を洗うことにしている。疲れて帰ってきてから洗うのが面倒だからだ。

 クーラーをつけて涼んでいると携帯電話の着信音が鳴った。社長からだ。


「大丈夫だった?」


 心配そうな声で社長が聞く。


「念のため警察の方に付き添ってもらったんですけど、大丈夫でした」


「ふーん、なにか心当たりないの?」


「それが全く……あっ……」


 昨日のマグカップの件を思い出した。


「なに? なにかあったの?」


「それが……」


 恵さんは昨日のマグカップの件を話した。


「なにそれ? 留守中に誰かが入ってきてるってこと?」


「うーん……今の状況だとそうなりますねぇ……」


「よかったらビデオカメラ貸そうか?」


「え?」


「誰が入ってきてるか撮影して警察に届けたらいいんじゃないかな。長時間録画できるやつだから使えると思うよ」


「それもいいかもしれませんね」


 少なくとも誰が入ってきているのか知りたい、そう思った恵さんはビデオカメラを借りることにした。


 翌日、ビデオカメラの入った紙袋を手に恵さんは帰宅した。

 鍵がしっかりとかかっていたことを確認してからドアを開ける。

 しん、とした部屋は特に誰かいた気配はない。


「お風呂はいろっと」


 クーラーをつけて、浴室にいった恵さんは思わずしゃがみこんだ。


「なんなのよ、これ!」


 浴槽にはなみなみと水が入っていた。手を入れてみるとほのかに温かい。昨日恵さんは間違いなく浴槽の湯を抜き、洗った。その後お湯を入れた記憶は全くない。

 見知らぬ誰かが使ったかもしれない浴槽を使う気にもなれず、その日はシャワーだけで済ませることにした。


 その翌日は一日そわそわと落ち着かなかった。あのカメラになにが映し出されるのだろうか。知らない誰かでも怖いが、知っている誰かならもっと怖いかもしれないと恵さんは思った。

 かすかな頭痛を感じつつ家に入る。

 家の中には夏にも関わらずひんやりとした空気が漂っていた。


「クーラー?」


 確認するとクーラーがついていた。

 家を出るときにクーラーの電源を切ったことを確認したのを覚えている。

 どうやらこの「誰か」は少しだらしないようだ。


 そう思った恵さんは思わず、くすっと笑った。

 この異常事態にすっかり慣れてしまっている。

 シャワーを済ませた恵さんは、早速録画した動画をチェックした。

 身支度を済ませ、家を出る恵さんが映っている。


 しばらく見ていたが変化がないので早送りした。

 画面の中の玄関のほうから光が差したような気配がした。通常再生に切り替える。

 誰かの影が玄関から近づいてくる。


「ひっ!」


 恵さんは手にしたカメラを軽く投げてしまった。

 そこには「恵さん」が映っていた。

 震える手でカメラを拾い、液晶画面を見た。


 カメラの中の「恵さん」はいたって自然に動いていた。休日の日の恵さんそのままだ。

 早送りして様子を見てみた。

 「恵さん」はどうやら風呂に入ったらしい。髪を拭きながら浴室のほうから歩いてくる。

 しばらくテレビを見ていた「恵さん」は、ふと立ち上がり外へ出ていった。

 通常再生なら2時間ほどのところで再びドアが開く。今度は偽の「恵さん」ではなく、本当の恵さんだった。


 動画を見終えた恵さんは呆然とした。一体何なのか。どうすればいいというのか。

 これを持って警察に行っても「何を言っているのか」とあしらわれるだろう。大家さんに言ったとしても同じことだ。


「引っ越そう……」


 それが根本的な解決になるかは分からないが、少なくとももうこの部屋にはいたくない、と恵さんは思った。


 翌日、社長にカメラを返した。

 特に何も映っていなかったが、なぜか浴槽に水が溜まっていたとだけ報告した。怪訝な顔を浮かべる社長にどうしても引っ越ししたいので、と頼み込み有休を取得した。


 帰りに不動産店に寄り、すぐに引っ越すことができるアパートを見つけた。

 帰宅すると、麦茶のポットがテーブルに載っていた。冷蔵庫にいれてあったはずのポットが。横にはコップも置かれてあった。

 ため息をついてそれを片付けた。


 幸いすぐに対応してもらえる引越し業者も見つかり、取得した有休3日のうちに新しい住まいに移ることができた。


 その後「もうひとり」は現れていない。

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