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第39話・ダンサー大前光市氏

 過日、プロダンサーとお話できました。私のバレエ的探究心からくるプロとの会話は過去にも何度か書いています。が、今回だけは、バレリーナAさんやBさんという書き方はしなくても、誰と話したかが明確です。なぜならば、義足で踊る男性ダンサーで、現役バリバリの人だから……と書けば、世界中さがしても大前光市氏しかいない。故にお名前公開の上でエッセイを書かせていただきます。




 以下は私が大前氏と話をしたかった理由です。

◎◎  氏が左下肢切断の大けがをなさった後のバレエ観の変化などを率直に伺いたい。


◎◎  そう思って、インタビュー依頼しました。ついでだから、受諾していただくに至る経緯説明も書きます。

 ↓ ↓ ↓

 私事で恐縮ですがバレエやってるって嘘でしょと言われるぐらいバレエに不向きな体型です。聴力に問題もあります。そのうえ加齢も。それなのにまだ私はバレエが好きです。踊ることも観ることも。

 過去に私は、私と対極にある恵まれた体型のプロバレリーナとも取材させていただいています。華麗な経歴とは裏腹に結構苦労しているのもわかりました。バレエが好きだからこそプロになれたというのは、どなたも共通です。

 しかし、ダンサーにとっての生命線にあたる足の切断をされた人に対しては私は話をした経験がありません。大けがを通してバレエ観がどう変わったかを伺いたいです。

 ↓ ↓ ↓

 これを私のバレエに対する執着と照らし合わせたい思いもあります。それを考察の上、エッセイにしたいです。

 ↑ ↑ ↑

 最後の二行が重要です。


 ただ氏には知名度がある。単なるバレエ愛好家の私と話をしてくれるかどうか……が、ネックでした。怖いマネージャーがついていて、出版社の後ろ盾もない一般人は拒否されるかも……幸いそれは杞憂に終わりご本人からOKをもらいました。大前氏とのレッスン指導後の取材という形です。過去私は、インタビューを申し込んで断られる経験もしています。だから、受諾の返答を戴いたときはとてもうれしかった。

 氏には率直に話をしていただきました。話の内容をエッセイにまとめて、ネットにあげることは了承していただいています。なお、本文はNOTEにもあげています。そちらには氏の踊っている画像、動画などをUPしています。ぜひ、ご覧になってください。

 それでは行きます。敬称略します。


」」」」」」」」」」」」


 以下は大前光市のウィキペディアから抜粋したもの。

 ↓ ↓ ↓

 大前 光市(おおまえ こういち、1979年生)は、日本のプロダンサー。かかしのダンサーとして、片足が義足というハンディキャップを生かした独自の創作ダンスを演じている。2016年に開催されたリオデジャネイロパラリンピックの閉会式において、東京パラリンピックへの引き継ぎセレモニーでダンスを演じた。


」」」」」」」」」」」」」」」」」


 以上、抜粋終わり。

 依頼にあたり、バレエ観云々を問うことを前面に押した文面故か、インタヴューの最初から氏からはっきりと言われました。

「ぼくにはバレエの才能はないです」 


 私はバレエ関係の舞台やあちこちの発表会にゲストとして出演している状況にもかかわらず、そう思っておられるのかと意外でした。ただ面談後に改めて氏の名前を検索してみると、氏の紹介として媒体によってバレエダンサー、コンテンポラリーダンサー、単純にダンサー、など微妙に名称が違う。私はバレエ脳なので、巷にあるバレエ団やバレエ教室の発表会チラシを通して、バレエダンサーとしての氏を認識していたと思う。

 氏の半生が本になっている。それによると、氏はバレエになじんだ環境で生育はされていない。バレエには無縁の家庭。小学生の時にいじめにあっていたが、杜子春の劇で閻魔大王の役を演じたら、観客から拍手喝さいを受けた。翌日から、周囲から一目置かれ、いじめは一切なくなった。そういう自己確立の基礎を経験している。長じて演劇に興味を持ち、高校生から本格的にミュージカル俳優をめざす。そのための手段の一つとしてバレエを始めた人。だから当時の氏の周囲には、バレエの経験がある人間は皆無です。氏の学生時代はちょうど平成一ケタ時代か。まだスマホでわからないことを気軽に検索する時代ではない。バレエをやるためにまずバレエ教室をタウンページで繰って探す。平成以降生まれの人はもうタウンページの存在意義すら不明かも。当時はお店探しといえばタウンページでした。そんなアナログな手順を経て、氏はバレエ教室に入り、始められた。大阪芸術大学に進まれたときは、私も知っている先生のところにも通われていました。


 氏があの交通事故にあった二十四歳のとき、プロ目前でした。オーディション前の大事な時に左下肢を切断するという悲惨な体験をする……オーディションを受けるどころではない。精神的なショックが当然ある。ただ、氏はこれでダンサー生命が絶たれたとは、まったく考えなかった。ダンサーをあきらめる選択肢すらなかった。これは注目に値すると思う。


① 精神力 → → → なにがあろうとダンサーになる意志

② 根本的な支え → → → 家族関係が良好であればあるほど、逆境時の親の励ましは強い力を持つ。

③ 臨床的状況 → → → 四肢のうち一肢をなくしても残りの三肢が無事だった。


 切断したのは二本しかない足のうちの一本。大きな災難に違いない。歩くためには義足が必要。まず義足で歩けるようになるリハビリを開始する。踊るのはそれがかなったうえでの話になる。道のりは遠い。やることは多い。

 ダンサーになりたいなら、毎日のレッスンも必要。氏には必ず舞台上で踊るという目的がある。それだけは譲れぬ。言葉で書くのは簡単だが、実際にやると言葉に書けないほど大変だったろう。

 現実と理想の狭間でのレッスン再開。そのあたりは実際に全国放送のドラマにもなっている。ダンサーになる、しかし、もうだめだと思うとそこで話は終わる。踊れない、もしくは踊れなくなったと思うのは簡単だが、踊ることに魅入られた人間にとってはそれは考えられぬ。

 実は私は十年ほど前に、某クラシックバレエのオープンクラスで氏と一緒になったことがある。その時は、棒状の義足(足の指がないタイプの義足)で参加されていた。バーレッスンでは義足の人だとは、まったくわからなかった。センターレッスンでやっとわかり、鏡越しでどうやって踊るつもりだろうと見ていた。氏は最初から最後までレッスンに参加されていた。もちろんバレエを踊れていた。

 インタヴュー時も、ストレッチなしだったので軽くだが、義足をしたままでシェネ、簡単な踊りをしてもらえた。話しながら時にはドンキのポーズも。上半身だけ見ていたら義足とはまったくわからない。シェネは鎖というフランス語由来のバレエ用語で、足を揃えたままくるくると回るもの。氏のそれは義足であっても違和感がなかった。

 下肢切断すると、まず体のバランスが取れなくなる。バレエは身体の軸取り、バランスが重きをなすので、致命的。それが目の前でバレエをポーズを取ってもらうとそれも違和感がない。


 氏は言う。

「片足を失くすと、体の半分が萎縮します」

 つまり、左足が使えないので、右足を重点的に鍛えることになる。右足を強くすると、左が縮んでくるという。こうなると、バレエにはならない。やはり両方とも鍛えるべきだと気づく。そういうことを教えられる人はいない。氏は試行錯誤のうえ、自得するしかなかった。自動的に義足ダンサーの先駆者になる。

 氏には友人が多い。バレエ仲間や周囲が励ましてくれる。その善意に、時に傷つくこともある。

「だんだん、元に戻って来たね。普通になってきたね」

 もちろん彼らに悪意はない。バレエ的にバランスが取れるようになり、褒めている。しかし、言われた本人にとっては違和感でしかない。聞き手の私はそこのところに、共感を覚えた。

 氏は笑顔を交えて言う。

「普通になってきたね、と言われる時点で、ぼくのバレエは少なくとも普通じゃない。ということは、ぼくのバレエは普通以下だろうと受け止めました」

 わかる、すごくわかる……。

 ……相手は励ましているつもりだから不快感を覚えて反論するのもいけない。ストレスもたまる。すごくわかる。そこで氏は一時はバレエから距離を置く。


 氏には義足で踊りつつも、こういった精神的な分岐点もあった。何があっても、踊り続ける。踊りたい。それもプロとして踊りたい。模索を続ける。ヒップホップダンスを始める。ヨガも武道もはじめる。

 ダンサーになるという望みは諦めない。氏の父も事故前はダンサーになることは反対していたが、もう何も言わなくなった。氏の自伝には父の言葉がある。

光市こういち、お前なら、だいじょうぶやけな……」

 これは、ご出身の岐阜弁そのままかな、子を信頼している……いい言葉です。


 自伝を読む限り父親からの影響と心理的な結びつきが非常に強い。改めて確認を取ったら、そうですと認められた。素直に良き教育を受けられた人だ。氏は一生懸命に働いて育ててくれたご両親の姿を見ている。姉と妹の存在もある。突然私は脈絡なく、アウシュビッツの過酷な状況を生き延びた人々の逸話を思い出す。あの悪名高いホロコーストに生き残った彼らを診察した心理学者の報告を。彼らには特別体力があったわけではない。幸運だったわけでもない。ただ、幼いころの家族の結びつきが非常に強かった……父母への愛慕、かならず生きて故郷に戻るという強い想い。それは自己肯定感と密接につながっている。私はそれを氏にも見た。


 プロのダンサーになるのは、どこかのプロ団体でのオーディションに参加し、合格を勝ち取らないといけない。しかし何度受けても不合格。それでも氏はあきらめない。転機はまた訪れる。今度はバレエダンサーの大柴拓磨おおしばたくま氏と武道場で出会い、一緒に踊るようになる。レッスン場でなく武道場というのが意外でしたが、ダンサー向けの講座があったという。

 大柴氏やその仲間は、氏が踊ると「いいね、かっこいい」 と声をかける。「義足なのにすごいね」 ではない。これも重要なセリフですね。大柴氏たちは、物理的な身体能力よりも、踊りそのものを観た感想を述べた。氏も「義足なのに、いいね」 という褒め言葉は期待していない。

 やはり出会いは大切だなあと私は感じ入る。ここで次の転機も訪れた。義足は数時間つけっぱなしで踊ると左切断面の前部が痛む。女性が履くトウシューズみたいなものかな……聞き忘れたなあ……、ま、ともかく義足をはずして踊ると大柴氏らが義足なしの方が動きが自然だと指摘する。それで義足なしで振り付けを試みる。長じて舞台でも義足なしで踊るようになる。

 あとのご活躍は皆様ご承知のとおり。

 リオのパラリンピックの閉会式で次の東京オリンピックへの引継ぎとしてリオデジャネイロのステージで踊る。ソロで。義足を外したままの姿で連続バク転がクライマックス。世界中の観客が驚く。大成功。

 氏は話す。


「今のぼくがあるのは、多くの人たちのおかげです」


 現在ではバレエ教室の発表会、コンテンポラリーダンスの公演、全国を飛び回る。令和二年以降のコロナ禍でも出番は多い。

 氏は正直に話す。


「義足であることはわざと強調して振りつけています。だから、ぼく、なんです。それでどこからでも呼ばれて踊る。それでお金をいただいている。ぼくは、プロダンサーになれた。とてもありがたい」


 災いは転じた。

 氏は周囲への感謝の言葉を口にする。私はずっと圧倒されて話を聞いていた。踊ることが日常になっている人独特のオーラが氏にも見える。私はそれをダンスの神様に選ばれ、呼ばれている人という。氏もまた一生踊る人だ。しかも、これからも伝説を作り続ける人だ。

 時間を割いて指導次いで話をしていただき、光栄だった。どんな境遇であろうと、踊りたい、ただその思いだけでやってきた人は相当に強い。氏はこれからも強くなる人だ。今後の活躍も注目しよう、そして称賛しよう。


 結論 ⇒ 私もまた勇気をいただいて帰りました。

      バレエは、細々とでも、一生続けようと思います……。


氏の映像や著作はNOTEにもまとめました。よかったらぜひご覧ください。


」」」」」」」」」」





 次回は氏がコンテンポラリーダンスの審査員もされていることもあり、そのことについて聞いてみました。読んでいただけましたらうれしいです。終わります。



参考図書、大前光市著 「ぼくらしく、おどる」 副題、義足ダンサー、大前光市、夢への挑戦

発行、学研プラス  二千二十年五月発刊

 

取材、於・大阪市立芸術創造館 令和三年一月三十日 感謝


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