第26話・追悼志村けん・パロディとしてのバレエ
白鳥の生首つきチュチュといえば、過日コロナウイルスによる肺炎で亡くなられた志村けんのイメージがある。彼には、あいーん、など、誰でも知っている決めポーズや決め台詞が多い中、今回はバレエのパロディに特化したエッセイを書いてみます。
こういうのはエロバレエビデオと同様、正当なバレエ雑誌は特集しないので私しか書ける人はいないかもです。
バレエを全く知らぬ人が、バレエとはどんなものか問われれば、白いチュチュを来てトウシューズを履いたバレリーナのことだと答えるだろう。白鳥が羽根を広げている様子を彷彿とさせるポーズ、もしくは片足を高くあげたアラベスク。これが一般的なバレエのイメージだろう。白鳥の湖のそのポーズはそれほど普遍的にバレエのイメージを確定させている。チャイコフスキーの音楽やプティパの振り付けはかくも偉大なり。
パーティーの余興として踊るのも白鳥の湖を思わせる衣裳が多い。ドン・キホーテなどの安売り店でもパーティーグッズに大柄な男性でも着れるチュチュもおいてある。例の股間に白鳥の首をつけたのもちゃんと売っている。Amazonにもあるので欲しくなったらいつでも購入が可能だ。
いかつい男性が股間に白鳥の首をつけてひょうきんに踊るのは、お上品とされるクラシックバレエの世界に対する一種のアンチテーゼと思っている。正当なクラシックバレエにはお笑いの要素が一つもないから。このアンチテーゼというのは一種の否定です。
ちょっと話がそれるが、槇村さとるのバレエ漫画にもバレエに反感を持つ男性が主人公のバレリーナに向かって「おバレエ」 と連呼して、怒らせるシーンがある。私もバレエ好きであることを「高雅な趣味ですね」 と嫌味を兼ねて言われたことがある。どうもバレエ全般にお金がかかるイメージがあるのが悪い。バレエをやるというと留学にお金がかかることや、来日バレエ公演は日本人役者がやる舞台に比べてチケット代が高価だったりするから。そして誰それちゃんが出ていた華やかなバレエの発表会の印象がやっぱりお金持ちねえとうわさ話で伝わったりする。
そういった上品なイメージを徹底的に破壊するのが、志村けんの変なおじさんメークのチュチュ姿だ。股間にある白鳥の首を男性器に見立て叩いたりいじったりするシーンもあったはず。バレエの上品なイメージの破壊は時として爆笑をもたらす。彼はバレエをバカにしているわけではないが、バレエに関心がない層がバレエについてどう思っていたかを良く知っていた。
同じような観客に爆笑させるバレエもあるにはある。男性オンリーのバレエ団でトウシューズを履いて踊るトロカデロ・デ・モンテカルロ・バレエ団、グランディーバ・バレエ団の存在がある。でもあちらはきちんと基礎をつんだダンサーが本気でやっている。バレエの基礎のない俳優が演じて、笑いを取りにいくのと根本的に違う。志村けんは世間が持っているバレエのイメージをいじり、かつ己の個性で爆笑をさらった。でもこういったことでバレエのイメージが損なうと怒るバレエ関係者はいない。逆にこれで舞台に興味が出て足を運んでくれる観客もあるだろうと期待もできる。
心理学によると「笑い」 の要素は、ある種の緊張感や違和感をもたせ、それからそれを開放させるものとある。志村けんのバレエ衣裳は、まず違和感をもたせるということで、その理論にぴたりとはまる。しかも男性なら股間にあるものを白鳥の首に細長くたれさせ、わざと左右にぶらつかせる。ときには上にあがらせる。図に乗るなと舞台上の俳優がばしっと白鳥の頭を叩く。そこへ痛がる演技。男性がペニスを叩かれると悶絶するのは誰でも知っている。その連想もあって思わずわらってしまうシーンだ。そこに意識が集中すると浮世の義理や悩み事が一時的に開放される。続いて志村の持ちネタ、誰でも知っているような誰でもまねできるようなふりが続く。何度か観ていると同じ舞台やテレビ画面にいる俳優たちの呼吸もわかる。ちゃんと双方であわせてやっている。もうちょっとバレエネタを長くやってくれたらよかったのに。私もプロになっていたら拙いながら案も出せたのに。ドリフ時代は「もしも」 シリーズが楽しみでした。動物系は子供と一緒に見ていたりしました。でも私はバレエが一番好きだから。
ほんと、つくづく惜しいひとを亡くしました。ご冥福を祈ります。