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世界がひっくり返った

「麗美様!」


 ぐらりと揺れた足元に、思わず私は体勢を崩した。後ろへ倒れる私の体を、麻知が受け止めようと抱き締めたけど、地面は揺れていて、私たちはそのまま倒れて転がった。

 とは言っても、それほど階段の上に居たわけでもない。倒れた床から数回転がっただけで済んだ。


「い、いたた」


 幸いそれほどではないし、骨折もない打撲だろうけど、この美しい私が怪我をするとは。許すまじ地震。

 と、地震より麻知を労ってあげよう。私と麻知なら、麻知が私を庇うのが当たり前とは言え、感謝の気持ちはもちろんある。


「麻知、大丈、夫……? え?」


 起き上がって麻知を振り向くと、その後ろの鏡が目に入って、混乱する。

 鏡に麻知の醜い顔が映っていたからだ。もちろん、このどさくさで紙袋がとれたと言うなら、叱責するつもりはない。そうじゃなくて、おかしいのだ。


「だ、大丈夫です。麗美様こそ、大丈夫です、え?」


 遅れて起き上がった麻知は、私を見て間抜けな声をあげた。その麻知は、紙袋を被っている。鏡には、その後ろ姿が映っている。

 鏡の中では、私の位置に麻知がいるのだ。だから、訳がわからない。


「ま、麻知」

「麗美様、ですか?」

「紙袋を、とりなさい」

「え? え?」

「早くとりなさい!」

「はい!」


 麻知が紙袋をとった。その下には、私の美しい顔があった。


「……」


 言葉が出なかった。黙り込む私に恐怖するように、麻知は恐る恐る、鏡を振り向いた。そして、自分の姿に息をのんだ。

 そんな私の顔は、初めて見る。どんな表情でも、私は美しくて、私は、私の顔は……麻知になっていた。麻知と私の顔が、入れ替わっている。


「も、もう一度階段から転がりましょう!」

「え、あ、はい!」


 どうして私と麻知の顔が入れ替わったのかはわからないけど、今の出来事がきっかけであるのは間違いない。さっき階段から転がり落ちた状況を再現するよう努めて、落ちた。


「いたっ、っ! そ、そんな……」


 痛みに声をあげながら顔を上げるけど、私の前には美しい顔しかない。鏡越しに、吐き気がするほど醜い顔が私を見ている。


「ふ、ふざけないでよ! なんなのよ! こんなっ、こんなことが許されるというの!?」

「お、落ち着いてください!」

「落ち着けるわけがないでしょう! このっ! 私の顔を、返しなさい!」

「ひっ」


 頭がおかしくなりそうで、この恐ろしい現実を認めたくなくて、私は麻知に拳を振り上げた。

 悲鳴を上げて目をきつく閉じ、身を震わせる麻知。その姿に、そんな情けない姿に、それでも世界一美しい私の姿に、私は怒りのやり場がなくて、背後のガラス面を殴った。


 ばんっ! と音がして、大きなひびが入ったけれど、一欠片も床には落ちない。危険対策は万全のようだ。つい殴ったけれど、ガラスが割れて、私の顔が傷ついたら大変だ。

 私は右手の痛みで我に返り、冷静さを取り戻す。このまま、ここでうだうだしても仕方ない。こんな醜聞を、他者に広めるわけにもいかない。


 ひとまず、何でもないふりをして授業を済ませて、放課後にお爺様にでも相談しよう。


「麻知、目を開けなさい」

「あ……。れ、麗美様、わ、私、こんな、奪うつもりなんて」


 目を開けて、きょろきょろしてから、麻知は涙目になって両手を合わせてそう弁明する。私は少しバツが悪くなって、眉を寄せる。


「分かっているわ。あなたは私を庇ったのだし、こんなことが人間にできてたまるものですか。八つ当たりだったわ。悪かったわね」

「麗美様……」


 麻知はほっとしたように息をつく。その様は従順そのものだが、このまま入れ替われると思われては大変だ。そんなことはさせないが、元に戻るには麻知の協力が必要だ。しっかりとくぎを刺しておこう。


「でも、心が入れ替わったからと言って、私と入れ替われると思ったら大間違いよ。私の頭脳には、朝比奈家の全てが入っているのよ。荒唐無稽なこんな事態でも、私が私であることを、親族に証明することはできるわ」


 私は美しいけれど、それだけで世界が回るわけではない。私の婿が当主となるが、万が一の場合には私が代行できるように、教育を受けている。その頭脳もまた、私の価値の一つなのだ。


「い、入れ替わるなんて。わ、私はそんなこと考えていません。すべて、麗美様に従います」

「いいわ。まずは、授業が終わるまでは私の振りをしなさい。いいわね」

「は、はい」


 教室に戻る。仕方ないので私が麻知の後ろについて行く。紙袋? いくら醜い顔になったからってこの私が紙袋を被るなんてあり得ない。

 道中、何だか視線を感じた。いつもなら私はもっと尊敬や憧憬の目だけど、何だか戸惑ったような気配を感じる。これは麻知の顔だからなの?


「!? れ、麗美様!?」


 教室に入ると、驚いたように名前を呼ばれた。麻知、うまくやるのよ。と気持ちを込めて視線をやると、麻知は不安そうに私を振り向いていたけど、はっとして口を開く。


「し、志保子」

「は? 山田さん、何気安く人の名前を呼ぼうとしてるの? 麗美様にちょっとだけ許されたからって、調子にのらないでくれる?」

「え? えっと?」


 麻知は私を見る。困惑しているらしい。私も予想外だけど、ふむ。この状況から推測できることは、なくはない。でも、確認するのが少し恐ろしく感じられて、私は躊躇いながら口を開く。


「……志保子、私の名前を言ってみなさい」

「へ? え、朝比奈麗美様、です」

「じゃあこの子は?」

「……山田麻知です」


 私の質問に対して、志保子は口にするのも嫌だと言う顔で麻知の名前を言った。

 私と麻知が、正しく認識されている。顔が入れ替わっているのに。と言うか、そもそも。


「あなた、志保子よね?」

「は、はい。崎山志保子、です。……麗美様、どうかされたんですか?」


 ますます志保子は困惑したように、不安そうに首を傾げる。

 この志保子に対して、麻知が呼んで反応したから、私も志保子と呼び掛けた。けど、そもそもこの志保子(仮)は私の知ってる志保子と顔が違う。なんとなーく面影はあるけどちょっとブスになってるって言うか。

 落ち着いてクラスを見渡すと、他の人も、私が知ってる顔そのままの人がいない。


 私は麻知と入れ替わった。のではない? 全員が変わっている? つまり、世界そのものが、私が居たところと違うのか?


 自分の推測にぞっとしながら、私は最も重要なことを聞いた。


「志保子、これは私に気を使わずに、素直にありのままの気持ちを答えてほしいのだけど」

「え、は、はい。なんでしょう」


 私はゆっくりと麻知に近寄り、絶対に間違いのないよう、美しいその私の顔に手を添えて尋ねる。


「この、麻知の顔……美しいわよね?」

「はい? あの、ご冗談ですよね? 目を背けたいほど、醜いです」


 嘘でしょ?









 その後、いくつかの確認をして、現在置かれている状況を推測した。

 まず私と麻知は、異なる価値観の世界に来た。しかも意識だけが。美醜の感覚が正反対になっていて、この世界準拠の美しさに皆の顔が変わっている。だから世界一美しい私と世界一醜い麻知の顔が入れ替わったかのようになっている。

 価値観の変化は美醜感覚だけではない。まず男女の関係も違う。女性の方が体が頑丈になっている。妊娠出産による命の危険も苦しみもほぼなくて、男性と変わらず仕事をこなすことができ、以前の世界のように男性優位ではなくなっていた。どころか、確実に自分の血族を見分けられることから、女性が主筋の跡継ぎとして扱われるのが一般的となっていた。

 そのヒントはすでにあったのだ。入れ替わったなら麻知が紙袋をかぶったままなのもおかしかったし、鏡だって私の元の力ならあんなに簡単にひびが入らないし、入ったとして全く手が痛くない無傷なのもおかしい。


 まるであべこべな世界に来てしまったらしい。体が入れ替わったことなら、知識の確認により証明できると思っていた。だけど、価値観が違う世界から来ました、なんて言って証明することなんて、どうすればいい?

 今まで過ごしてきた日々、その性格なんかは全く変わっていないようで、私は普通にしていれば何も疑われない。その状態で、こんなことを言っても、価値観が違うだけだと言われておしまいだ。異世界なんて言って精神の錯乱か、はたまた狂言だと思われる。よしんば信じてもらえても、他の人からして改善する必要がない。


 絶望的な気持ちだった。とりあえず、証明する気力がなかったので、この際説明するのはあきらめた。ただもちろん、美しい私の顔を遠ざけるなんて考えられないので、麻知は私の手元に置くことにした。

 麻知はその醜さから家族から虐待を受けていたらしく、お金を積めば了承された。また私の家族も、元の世界なら認めなかっただろうけど、私が跡継ぎの嫁から、正式な跡継ぎ本人となったことにより発言力がより強くなっていた。

 強引に願って、絶対に必要だと主張する私に、愛人を囲うみたいに誤解されたけど、将来的にはしっかり後を継いで政略結婚をしてその相手と子供をつくることを約束したうえで認められた。


 これも男女の価値観の違いもあるのだろう。女子として次期当主の嫁としてなら、相手の男性が優位であり同性の恋人なんて醜聞は認められなかっただろう。でも今は私こそが次期当主で、婿は種だけのおまけだ。最悪、結婚しなくても種だけあればいい。


 誤解されようとどうでもいい。この醜い顔を四六時中見ているなんて、耐えられない。せめて美しい私の顔がなければ、生きられないのだ。


「はぁ」

「麗美様……今日は、大変なことに、なってしまいましたね」


 ため息をつくと、隣のベットに座っている麻知が声をかけてきた。

 美しい私の顔は今まで通り常に見たいので、もちろん部屋も何もかも一緒だ。だから余計に趣味が悪い愛人を囲っていると勘違いされているのだけど、説明が面倒だからもうそれはいい。


「……麻知」

「はい、何でしょう」

「あなたに、少しは悪いと思わなくもないわ。だけど、その顔を持っている以上、私から離れることは許さないから」


 麻知からすれば、急にすべての環境が変わったのだ。元がよい環境ではなかったとはいえ、その意思の一つも聞かずに、強引に連れてきた。私の美しい顔を持った麻知からすれば、美しくない私のそばにいる意味はないだろうし、奪ったのも麻知のせいではない。

 入れ替わったのではないのだから、私が我慢さえできるなら、協力はしてもらうにしても今まで通りの生活でできないことはない。だから麻知には、申し訳ないと思わないでもない。だけど、譲ることはできない。


「そ、そんな。私は、学校でも言いましたけど、その……麗美様に、従います」


 素直だ。私の地位は確かに前より強くなった。だけど、私の美しさを慕っていた麻知には、今までほど私の価値はないだろうに。私への麻知の忠誠は、簡単にはなくならないようだ。私は麻知の内面の美しさを過小評価していたらしい。


「そう……いい子ね。明日から、もちろん元の世界に戻る方法も探すけれど、私の命には従いなさい。あなたは親からよい扱いを受けていなかったのでしょう? 元に戻っても、悪いようにはしないから」

「あ、ありがとうございます。その、よろしくお願いします」

「……そうね」


 美しい私の顔が励ましてくるので、少しは元気が出た。


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