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桜ノ樹

作者: きずな

 私には、憧れの先輩がいた。


 校門には、白い看板が立てかけられていた。そこには、黒く太い文字で「卒業式」と毛筆で書かれている。

 その横を抜けると、左手前に大きな桜の木が一本そびえ立っていた。この木は、歴史のあるこの高校に創立当時からあるという。

 これは、私が初めてこの高校に来たときからとても印象に残っていたものだ。校門のそばに、一本だけ、堂々と立っているその桜の木は、この学校の歴史を物語っているようだった。初めて見たときは思わず見とれてしまって、しばらくそこで立ち止まって眺めていたほどだ。私の入学式のときに満開に咲いていた桜の木は、それこそ凛としていて、誇らしげだった。

 その入学式で、体育館の場所が分からなくてこの木の下で立ち往生していたとき、その場にいた生徒らしき男の人に案内してもらったことを、ふと思い出した。


「体育館は、この桜の木の先を真っ直ぐ行けばあるんだ。そう覚えておくと分かりやすいよ」


 誰だったのかは今でも分からないままだが、その言葉だけは、やけに私の心に残っていた。

 そんなことを思い出しながら、私は桜の木の下を通り抜けて、体育館へと足を進める。

 今日は、お世話になった先輩たちの卒業式。私の憧れの先輩とも、今日でお別れなのだ。

 登校してきた他の生徒たちが、そろって体育館に向かっていく。体育館が見えると、入り口には生徒たちが群がっていた。

 私もその流れに乗って、体育館へと足を踏み入れた。



  ***



 先輩と知り合ったのは、桜が満開の時期を少しだけ過ぎたときだった。

 私は昔から、親や兄がやっていた影響でバスケが好きだ。テレビでやっている試合を見たり、兄が出ている試合によく見に行ったりしていたから、ルールもすぐに覚えてしまった。たまに兄に教わりながら、バスケをやったりもした。

 もっとバスケをやりたくて、中学では迷わずバスケ部に入部した。しかし、なかなか上達しなかった。元々運動神経が良いわけではなかったということもあったが、思ったよりも練習がきつく、周りにもすぐに抜かされて、メンバー入りもできなかった。自分には才能がないのだと思って、二年生になる前に辞めてしまった。

 それでも、バスケが好きなのに変わりはなかった。見ているのも楽しいが、それだけでは物足りない。どうにかしてバスケに関わりたいと思っていたとき、兄に、バスケ部のマネージャーを勧められた。プレーはできなくても、バスケに詳しい私ならマネージャーに向いている、と兄に助言されて、高校でバスケ部のマネージャーとして入部をした。

 そこで、先輩と出会ったのだ。

 その先輩は、部長だったわけでもなかったし、部員不足でメンバーにギリギリ入っているような、周りから見たら、上手いわけでもなく、かといって下手でもないような人だった。

 でも、私には、その先輩が誰よりも上手いと感じていた。

 なぜかは分からない。尊敬している兄に、動きなどが似ているからかもしれない。

 引っ込み思案で、周りからもおとなしい子だと見られている私は、なかなか部員に話しかけることができなかった。その影響もあり、最初は先輩と関わることもほとんどなかった。強いて言うなら、入部してから、部員全員とメールアドレスの交換をしたときに、一言二言交わした程度だ。

 だから私は、そんな先輩を毎日近くで眺めているだけだった。



 ***



 自分の席についてしばらくして、式が始まった。

 卒業生の入場のアナウンスで、体育館の入り口から制服をきっちりと着こなした卒業生たちが入場してきた。私たち在校生は拍手で迎える。

 数少ないバスケ部の先輩たちも、次々と入場してきた。最後のクラスの入場のとき、憧れの先輩の姿を見つけて、思わず目で追ってしまった。着席するのを見届ける。

 拍手が止み、開会の言葉が始まろうとしていた。



  ***



 そんな先輩と関わり始めたのは、桜の木の葉が濃い緑色となっていたときだ。桜の木は、涼しい風が吹き抜けると、葉がカサカサと音をたてて揺れていた。

 マネージャーを始めてから四ヶ月が経ったのにも関わらず、私はマネージャーとしての仕事を未だに果たせていなかった。プレーをしないから、ルールは分かっているから、とマネージャーを甘く見ていた部分があったのかもしれない。

 マネージャーは思ったよりも大変で、毎日の練習の準備や後片付けでは、毎回手間取ってしまって顧問に叱られ、部員たちのサポートもままならない。ルール以外にも覚えることはたくさんあって、正直ついていけていない。

 それは、三年生の先輩が引退し、マネージャーが私一人になったことで、さらに明るみになった。それまでは、三年生のマネージャーの先輩が私を引っ張っていってくれていて、何とかやれていた。しかし、いざ一人になってみると、今までのことが嘘だったかのように何もできなくなっていた。

 私が、部内で迷惑をかけているのは明白だったのだ。

 夏休み明け直後、私は顧問にその事実をはっきりと告げられ、いつもよりもひどく叱られた。その日はお説教で時間が潰れて、部活にも出られなかった。

 私には、見ていることしかできないのだろうか。何をやっても上手くいかない私には、マネージャーなんか向いていなかったのだろうか。今の私は、ただの邪魔者でしかないのだろうか……。

 バスケは好きだけれど、やっぱり辞めた方がいいのかもしれない。でも、それだと、中途半端に諦めた中学のときと同じだ。

 そんな考えをループさせたまま学校を出ようとしたとき、ふと桜の木に目が止まった。自然と足が止まる。

 この桜の木は、どんなに大きな台風や地震が来ても倒れることなく、今日までしっかりと立っている。

 花を咲かせ、すぐに散る。しばらくすると濃緑の葉をつけ、それが色を変えて散っても、次には新しい小さな葉とつぼみをつけて、再びたくさんの花を咲かせる――。それをこの桜の木は、諦めずに毎年続けているのだ。満開の花を咲かせるという、短い期間のためだけに。

 桜の木は、本当に堂々としていて、凛々しくて、自信に満ち溢れている。

 それに比べて、私は上手くいかないとすぐに諦めて、何もできないと否定的になる。自分に自信を持つこともできない。

 急に涙が出た。部活を終えて帰っていく生徒たちに見られたくなくて、私はとっさに桜の木の陰に隠れた。

 一度出た涙は止まらない。溢れる涙と共に嗚咽も漏れた。必死に止めようとしても、涙は意思に反してどんどんと溢れていく。


「川瀬さん?」


 突然、近くで私の名を呼ぶ声がした。一瞬のうちに涙が止まる。

 聞き慣れた、夏休み前までは毎日聞いていた声だ。


「相沢先輩……」


 顔を上げると、そこには、私がずっと眺めていた先輩の姿があった。


「どうしたの? こんなところで……。何かあったの?」


 先輩は私の顔を心配そうに覗き込む。それに私の涙はまたこぼれた。

 先輩の顔が焦りに変わる。泣いている私を見て、先輩はあたふたとしながら、「川瀬さん?」と再び私の名を口にした。


「……す、すみま、せん……」


 泣いたまま喋ったせいで、声が途切れ途切れになった。


「……俺で良かったら、話聞くよ? まぁ、聞くだけしかできないかもしれないけど……。それでいいなら」


 先輩は、私の隣で、大きな木の幹に寄りかかる。先輩の視線は、そらされることなく私に向けられていた。

 気づいたら、私は全てを話していた。いつの間にか涙は止まっていて、先輩の反応すらも見ないまま、ただただ自分の心境を打ち明けていた。

 我に返ったのは、話し終えたあとだった。


「ごめんなさい……勝手に喋っちゃって」


 謝ると、先輩は、私に優しく笑いかけた。


「ううん、いいよ。……川瀬さんがこんなに喋ってるの、初めて見た」

「普段はこんな事、他の人には言わないので……」

「そっか」


 先輩が、視線を私から暗くなった空に移した。


「分かるよ、その気持ち。俺もそういうこと、あったからさ」

「え……?」

「俺、中学のときは帰宅部だったんだよね。高校でも部活入る気なかったんだけど、佐竹に誘われて」

「佐竹先輩に?」

「そ。俺と佐竹、同じ中学で、その頃から結構仲良かったんだ。佐竹は中学のときもバスケ部で、そのときから上手かったらしいよ」


 佐竹先輩は、バスケ部の副部長で、一年生の頃からメンバーに入ることもあったと聞いている。佐竹先輩の実力や、相沢先輩と佐竹先輩の仲の良さに、そんな理由があるとは知らなかった。


「それで、まぁ入ってみたはいいけど、佐竹も含めて周り皆上手くって。てか、俺以外、全員中学からの経験者だったんだよね。そりゃあ上手いわけだよ」


 先輩が苦笑する。

 私は、先輩の横顔を黙って見つめた。


「元々、バスケは好きだったし、それなりのルールも知ってたから、何とかやれたんだよね。そのときは、自分がメンバーに入ることはまずないと思ってたから、純粋にバスケを楽しんでたっていうか……。言っちゃえば、本気でバスケに向かおうとしてなくて、本気でバスケをやろうとしなかったんだ。……だから、練習もおろそかにしてた部分があった」


 先輩の声のトーンが少し落ち、真剣な顔つきになった。夜空から目を離す。その目は真正面の何かをじっと見つめていた。


「だけど、続けていくうちに、周りの同級生たちがメンバー入りするようになって。それ見てると、だんだんうらやましくなっていってさ……。すごい悔しくて。自分も試合に出たい……ってやっとやる気になったけど、スイッチ入ったのが遅すぎたんだよね。なかなか周りに追いつけなかった」


 先輩はそこで、ふう、と小さく息をはいた。


「挫折しかけたよ。今からじゃ遅いのか……って。辞めようかとも考えて、かなり悩んだ」

「……でも、辞めなかったんですよね?」

「そりゃそうだよ。辞めてたら俺今ここにいないから」


 先輩が、私を見て苦笑した。


「で、ですよね。……すみません」

「何で謝るの。面白いこと言うよね、川瀬さん」

「え?」


 先輩の苦笑は、私を面白がっているような表情に変わっていた。


「……先輩、私のこと馬鹿にしてます?」


 思わず冷めた声が出てしまった。

 すると、先輩はまた表情を変えて、慌てて弁明し始めた。


「ご、ごめん、そういうわけじゃなくて! 川瀬さんがあまりにも突拍子なこと聞いてきたから、つい……」


 確かに私は、分かりきっていることを聞いたし、先輩に対して失礼なことを言ってしまったかもしれない。

 でも、とっさに出た言葉がそれだった。


「まあ、いいですけど……」


 先輩もすぐに表情変えて面白いのになぁ、と心の中で笑いながら、私は話を戻した。


「それで、どうして辞めなかったんですか?」

「決まってるじゃん。バスケが好きだからだよ」


 私の問いに、先輩は真顔で間髪入れずに答えた。


「上手く言えないけどさ、バスケ部に入って、バスケ始めたら、いつの間にかバスケをすることが当たり前みたくなってて。バスケ部入ってなかったら、こんなにバスケを好きになることはなかっただろうし、メンバー入って試合に出たい、って思うことはなかったと思うんだよね。……だから辞めなかった」

「それだけで?」

「それだけ……って、どういうこと? 今のも立派な理由だと俺は思ってるけど」


 確かに、立派な理由かもしれない。

 でも、私には、それ以上に考えてしまうことがあった。


「私は、それよりも、部に迷惑をかけ続けるのが嫌だと思ってしまいます。熱意だけじゃどうにもならないと思って。……中学でバスケ部を辞めたのも、そう思ったからかもしれない」


 バスケへの熱意は人一倍あっても、実力がついてこなければ意味がない。部にとって邪魔者でしかない。

 そんな考えが、私の中にあった。

 意外なことに、先輩はそれにうなずいた。


「そう。やる気があるだけじゃ何もできないし、何も進歩しない。……だから、俺はひたすら練習した」

「え?」

「部活終わってからも残って自主練したし、休みの日も必ず練習した。そうでもしないと、追いつけないと思ったから」


 大変だったなぁ、と先輩はつぶやく。


「佐竹にもたびたび練習付き合ってもらったし、先生にも教えてもらって。とにかく練習した。やる気を練習に向けたっていうか。……初めて試合に出たときは、すごく気持ちよかった」


 先輩は、再び夜空を見上げた。


「そっか……私……」


 努力してなかった。

 何もできないから、と決めつけていた。そうやって決めつけて、努力することから逃げていた。努力しても、実力がついてこなかったら、と恐れていた。


「川瀬さん」


 先輩の声が頭上から降ってきた。

 見上げると、先輩は優しい笑みを私に向けていた。


「努力は報われる、ってよく言うでしょ。その通りだと思う。努力することを止めたら、何も変わらないけど、努力すれば、何か変わるかもしれない」

「……変われますかね、私……」

「大丈夫。川瀬さんならできるよ」


 やけに自信満々そうに言う先輩に、私はくすっと笑ってしまった。


「え、ちょっと川瀬さん、何で笑ってんの? 俺、今おかしなこと言った?」

「いえ、違います。……気にしないでください」


 先輩の言葉に根拠なんてなかったけれど、先輩が言っていたからか、何となくできそうな気がしてきた。


「先輩、ありがとうございました。私、もっと頑張ってみます。迷惑かけないように、努力します」


 バスケが好きだから。

 先輩くらい、バスケに打ち込めるようになりたい。


「うん。……これからも、何かあったら相談していいからね」

「え?」


 思わぬ言葉に、私はまじまじと先輩を見つめた。


「引退はしたけど、一応先輩なわけだし。後輩が困ってたら、力になりたいしね。……もっと頼っていいからさ」


 先輩の言葉に、気が楽になった気がした。


「ありがとうございます、相沢先輩」


 桜の木の上の夜空には、いくつかの星が輝いていた。



  ***



 卒業証書の授与が始まった。

 部長として部をまとめていた先輩。試合ではいつもゴールを決めていた先輩。パス回しが上手かった先輩。そして、佐竹先輩。

 バスケ部の先輩たちが、壇上で次々と卒業証書を受け取っていく。


「相沢遥人」


 やがて、相沢先輩の名が呼ばれた。

 はい、とよく通る声で返事をした先輩は、壇上の中央へと真っ直ぐ歩いていく。校長から証書を受け取り、深く頭を下げて、先輩は壇上から下りていった。

 その姿を、また見えなくなるまで見送っていると、私の知っている名前が聞こえた。


「小谷チカ」


 バスケ部のマネージャーだった先輩だ。

 チカ先輩にはたくさんのことを教えてもらったし、私にも親切で、いつもにこにこと話しかけてくれた。

 でも、私とは真反対で、誰とでもすぐに仲良くなって、サバサバしていた。茶髪で化粧もしていて、見た目も私より派手だった。

 それでも、私はチカ先輩を尊敬していた。相沢先輩と同じくらい。

 私なんかとは比べ物にならないくらいてきぱきと仕事をこなしているチカ先輩は、本当に頼りになる先輩だった。私の分の仕事も手伝ってくれたし、私が顧問に怒られたときも励ましてくれた。

 けれど、チカ先輩を尊敬している反面、あることを聞いてから、私はチカ先輩に不信感のようなものを抱くようになっていた。



  ***



 それは、暖かさが過ぎ、寒さに変わろうとしているときだった。桜の葉は明るくなり、風に吹かれて落ちてきていた。

 その頃、バスケ部には、ある噂が広まっていた。

 相沢先輩とチカ先輩が、付き合っているのではないか――と。

 同期の部員が、二人で出掛けているのを目撃したのが、噂の始まりだった。

 もちろん、それは私の耳にもすぐに入ってきた。

 それからしばらくは、そんな噂が絶えなかった。引退してからは、二人でよく一緒に帰っている。引退してもバスケの練習をしている相沢先輩に、チカ先輩がよく付き合っている。二人で出掛ける頻度も少なくない。二人は、同じ進路を目指しているらしい……。

 私自身も、その噂にのまれていった。

 そういえばチカ先輩、唯一経験者でない相沢先輩の面倒、よく見てた気がする。相沢先輩も、チカ先輩にいろいろ聞いていたかもしれない。

 相沢先輩とは、あれ以来あまり話していなかった。たまに学校ですれ違うとき、会釈をしてくれる程度だ。チカ先輩とも、引退してからはほとんど会っていない。

 だからか、二人の話を聞くたびにもやもやして落ち着かなかった。理由は分からないが、二人のことが気になって仕方がなかった。

 


 その日、私はいつも通り、部活を終えて帰ろうとしていた。

 前よりはスムーズになった後片付けを終えて、職員室にいる顧問に体育館の鍵を返しに行ってから、校舎を出る。

 この時期のこの時間だと、もう外は暗くなっている。遠くから見る桜の木も、暗くてよく見えなくなっていた。

 遅くならないうちに帰ろうと早足になったとき、見慣れた姿が目に入った。

 体育館の近くには、小さなバスケコートがある。そのバスケコートに、相沢先輩とチカ先輩がいたのだ。

 思わぬ光景に、私の思考回路と足が止まった。二人に見つからないように、重くなりそうな足を進めて、私は近くにあった桜の木の下に逃げ込んだ。遠くから二人の姿を見つめる。

 制服姿の相沢先輩は、シュートの練習をしていたようで、ゴールから離れたところに立っていた。バスケットボールを持っているから、やはり練習をしていたのだろう。

 その隣では、同じく制服姿のチカ先輩が、相沢先輩に身振り手振りで指示を出している。

 次の瞬間、相沢先輩がボールを放った。そのボールは綺麗に弧を描いて、ゴールに入った。

 「ナイスシュート!」という、チカ先輩の声が、ここからでも聞こえてきた。相沢先輩の顔には笑みが浮かんでいる。

 逃げ込んでから、鉛のように動かなくなっていた私の足は、もう動いていた。見ていられなくなって、私は二人の姿から目をそらして帰路についた。



  ***



 式は厳かに進んでいく。全員の証書授与が終わり、校長が壇上で話していた。

 私の耳には、校長の話は入っていなかった。一年間の出来事を思い出しながら、式をぼうっと眺めていた。

 結局、今でも相沢先輩とチカ先輩の噂は残っている。だからといって、あれから新たな目撃情報があったわけでもなかった。けれどバスケ部内では、二人は付き合っている、と勝手に認識されていて、もちろん私もその認識に流されていた。

 確かな証拠があるわけでもない。でも、実際に私自身も見てしまったから、そうなのだと思っている。

 でも私は、心のどこかでそれを否定していた。

 ふと、二ヶ月前、たまたま相沢先輩に会ったときの会話を思い出した。



  ***



 その日はいつもより練習が延びてしまい、私も仕事が多く、帰りが遅くなっていた。

 部活終了間近に顧問に頼まれ事をされて、私は職員室と体育館を行き来していた。そのうちに、部員たちは帰り始めていて、終わった頃には私一人が残っていた。

 最後の仕事である体育館の戸締りをしようと、体育館に入ろうとすると、ドリブルをしている音が聞こえて思わず足を止めた。

 中をそっと覗くと、一つの人影が見えた。奥のゴールネットの前でシュートの練習をしているようだ。

 制服姿だったから、バスケ部員ではないことはすぐに分かった。部員が更衣室でユニフォームから制服に着替えて体育館に戻ってくることはほとんどない。

 けれど、その姿には、とても見覚えがあった。


「……相沢先輩?」


 人影がこちらを振り返った。表情が明るくなったのが、遠くからでも分かった。


「あー、川瀬さん、久しぶり! てか、お疲れ様」

「ありがとうございます。先輩、練習ですか?」


 先輩の元に向かいながら尋ねた。先輩がこくんとうなずく。


「いつもは外のコートか近くの公園でやってんだけど、たまには広いとこで練習したくて。暇だったし、たまたま学校に残ってたから、ちょうどいいかなー、と」

「……引退してから、ずっと練習してるんですか? それに、暇って……?」


 この時期の三年生は進路で忙しいはずだ。先輩の口から「暇」という言葉が出たのが意外で、思わず聞いてしまった。


「あー、そっか。川瀬さんに言ってなかったっけ。……俺、入試終わったから」

「え?」

「推薦入試で。だから、冬休み前には終わってた」

「ということは……合格してるんですか?」

「してるしてる! してなかったらのんきにバスケやってないから!!」


 先輩が声をあげて笑う。


「で、ですよね……」

「相変わらずおかしなこと言うよね、川瀬さん」


 お互い、笑いながら話していたが、先輩のその一言に、私の笑いは止まった。


「先輩、相変わらずって何ですか? だいたい、相変わらずって言われるほど、私、先輩と話したことないですよ」


 最後の言葉は、自分で言っていて空しくなった。


「あ、そっか、言われてみればそうだね。俺、そんな気全然しなかった。……でも、あの時と同じ感じだったから、つい」


 ごめん、と苦笑しながら手を合わせる先輩に、私も苦笑してしまった。


「そこまでしなくてもいいですよ。……とにかく、合格おめでとうございます」

「ん。ありがと」

「将来の夢とかあるんですか?」

「うーん……まだ分かんない。だから、大学でやりたいこと見つけたいなーって」

「そうなんですか……」


 先輩も、あと二ヶ月で大学生なんだということを、改めて実感した。

 先輩が大学生になったら、私も二年生になる。後輩も入ってくる。

 そんな感覚を、あまり信じることができなかった。


「あ、ここ、閉めるんだよね? ごめんね、練習してて。俺もそろそろ帰るから」


 そんなことを思っていると、先輩が声をかけてきた。


「いや、大丈夫ですよ。先輩こそ、もう練習しなくていいんですか?」

「うん。ちょっと体育館でバスケやりたくなっただけだから。早く閉めちゃいな」

「はい。ありがとうございます」


 中の戸締りを確認してから、体育館を閉める。急いで鍵を顧問に返しに、職員室に走った。

 鍵を返してから、先輩がついてきていたことに気づいた。


「先輩、いたんですか? てっきり帰ったかと……」

「いたんですか……って、ひどくない? そりゃ、置いて帰るわけにもいかないでしょ」

「すみません。わざわざ付いてきてもらっちゃって……」

「いいよ、俺が待ってたかっただけだから。ほら、早く帰んないと、どんどん遅くなるよ?」


 そう言って、先輩は優しく微笑んだ。



 一緒に校舎を出て、校門の近くまで来たときに、私はいつものように桜の木を見上げた。

 今の時期の桜の木には、葉がついていない。だから、黒々とした枝が四方八方に分かれているのがよく見える。太い幹も、他の季節よりずっと大きく、立派に見えた。


「好きなの? 桜の木」


 不意に尋ねられて、先輩のほうを向く。

 ためらうことなく、はい、と答えた。


「理由があるわけじゃないんですけど。……一目見て、惹かれた……っていうか」

「俺も」

「え?」

「俺も好きだよ、これ。初めて見たときから」


 先輩も、私と同じように、桜の木を見上げた。


「すごいよな。……いつ見ても立派」

「……ですよね」


 いつの間にか私たちは立ち止まっていた。しばらく黙って桜の木を見上げていた。

 やがて、先輩が口を開いた。


「俺が挫折しかけてたとき、桜の木見たら、頑張れる気がしてきたんだよね。この木は、どんな逆境にも負けない力を持ってるんだなー、って思ってて。まぁ、俺の勝手な考えだけど」

「……私も、そう思います」


 私と、全く同じだ。


「堂々としてて、自信に溢れていて……私とは、大違いで。この木に、憧れてた……っていうのはおかしいかもしれないけど、でも、この木はそれくらいの強さを持ってると思ってます」


 言い終えてから、隣にいる先輩からの視線を感じた。先輩に目を向けると、先輩は驚いたような顔で私を見つめていた。


「……先輩?」

「初めてだ。……これを分かってくれたの、川瀬さんが初めて」

「え?」

「これ、他の人に言っても分かってくれないんだよ。同級生とか、先輩とか後輩にも言ったんだけど、なかなか分かってくんなくて。……佐竹も小谷も」


 先輩が小さな苦笑を浮かべる。

 言われてみれば、確かにそうだ。私はこれを話したのは先輩が初めてだが、他の人がそんな話をしているのを聞いたことがなかった。何より皆、登校するとき、下校するとき、この桜の木に目もくれずに素通りしていく。

 この桜の木に偉大さを感じるのは、私だけなのか、と心のどこかで思っていた。


「だから、今、すごい嬉しかった。……やっと分かってくれる人、見つけた」


 先輩の苦笑は、満面の笑みに変わって私に向けられた。

 先輩も、ずっと私と同じような思いを抱いていたのかもしれない。

 そして私自身も、先輩がこの気持ちを分かってくれたことに素直に喜んでいた。私が思っていた以上に。


「私もです」


 にっこりと先輩に微笑む。

 またしばらく、私たちは、寒さも忘れてしまうほど桜の木を眺め続けていた。



  ***



 いつの間にか式は終わりを告げていて、卒業生が退場していた。

 退場のときの先輩、見逃した、と思いながら、私もクラスの流れに続いて体育館をあとにする。

 先輩、すぐに帰ってしまうのだろうか。

 そんな不安が私の頭をかすめる。

 先輩に、どうしても会いたかった。

 会って、渡したいものがあった。



 クラスのホームルームが終わり、私は急いで教室を飛び出した。

 階段を駆け下り、外に出ると、校庭が卒業生たちでごった返していた。それをかき分けて、私は校門へと急ぐ。

 もしかしたらこの人混みの中にいるのかもしれない。一瞬そんな考えもよぎったが、私の足は止まらなかった。

 一直線に校門へ向かう。

 校門の近くの、桜の木に。

 息をきらせて桜の木までたどり着くと、木の幹に寄りかかっている、探していた人の姿をすぐに見つけた。私は迷うことなく声をかける。


「相沢先輩!」


 先輩は、私の姿を見て、柔らかな笑顔を作った。


「そ、卒業おめでとうございます」

「ありがとう。それで、どうしてそんなに急いで俺のところに来たの?」

「あ、はい。あの、これ……」


 私はおずおずと先輩に手紙を渡した。

 昨日、先輩に感謝の気持ちを伝えたくて書いたものだ。


「どうしても渡したかったんです、これ。早くしないと、先輩帰っちゃうんじゃないかと思って……」

「そっか。わざわざありがとう」


 先輩は、私に笑いかけて、それから桜の木を見上げた。


「あの……先輩」


 その横顔を見つめながら、私は先輩に、気になっていたことを尋ねた。


「先輩って、チカ先輩と付き合っているんですか?」

「え!?」


 先輩の視線が私に向けられる。それは、何を言っているのか、とでも言いたそうな目だった。


「何でそんなこと?」

「部内ですごく噂になっているので……」

「そ、そうなの? とりあえず、それ嘘だから」

「……へ?」


 そうなのだと信じ込んでいた私は、その答えに驚いてしまった。


「だ、だって、よく一緒に帰ってるって……。それに、バスケの練習も一緒にしてましたよね?」

「あー、俺と小谷、たまたま家近くて。そんで一緒に帰るとき多いってだけ。それと小谷、佐竹が好きだから」

「そ、そうなんですか!?」

「うん。俺と佐竹が中学一緒で仲良いからってことで、小谷の手助けしてたっていうか。小谷が俺に相談持ちかけてきたときに、ついでに練習見てもらってるんだ」

「じゃ、じゃあ、本当に付き合ってないんですか?」

「ないない! ……そういう川瀬さんは?」

「え、そんな、私こそないです!」


 突然の質問に、慌てて答えると、先輩は、小さく笑った。


「そっか。とにかく、ありがとね、これ。……あ、そういえばさ」


 先輩が、私の顔をそっと覗き込んだ。


「去年の入学式のとき……川瀬さん、迷ってたよね。体育館の場所が分からなくて」

「え!? 先輩、何でそれ……」

「この先を真っ直ぐ行くと体育館。……覚えやすかったでしょ?」


 先輩はいたずらっぽい笑顔を残して、桜の木の下を出て行った。

 あのとき、教えてくれたのは……。

 私は、去っていく先輩の後ろ姿を、木の下で見つめていた。




 先輩。


 一年間、本当にありがとうございました。


 先輩は、優しくて、バスケも上手くて、尊敬していました。


 あのとき、先輩が相談に乗ってくれたおかげで、少しではありますが、自分に自信を持つことができました。

 本当に感謝しています。


 先輩が卒業してしまうのは、正直寂しいです。


 でも、先輩がくれた言葉を胸に、これからも頑張っていきます。


 先輩も、自分の道を見つけて、それに向かって頑張っていってください。


 私にとって、先輩は憧れの人です。


 遠くから、ずっと先輩を応援しています。




 桜の木は、枝の先に、小さな新芽と、まだ開きそうもない小さなつぼみを揺らしていた。


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