第2章 教育のはじまり
ブランシュが屋敷に住むようになり7日が過ぎた。
彼は、いまだ夢の中にいるかのような気分だった。この7日間、何をするでもなく屋敷での日々を過ごした。彼は、本当に何もする必要がなかった。何もせずにだらだらと過ごしていても、毎日決まった時間に夢のような豪華な食事が与えられた。食事中、フォークを落としても、すかさずボーイが拾い上げて新しいフォークを渡してくれる。口元がソースで汚れると、傍に控えていたメイドがそっとナプキンで拭き取ってくれた。欲しいものは口にするだけで何でも与えられた。今までの生活からはとても考えられない、夢のような毎日だった。
だが、ブランシュの心は、日が経つにつれてどんどん沈んでいった。
その理由のひとつは、この素晴らしい生活を共有できる友人がいないということだ。屋敷にきた初日に兄弟姉妹を紹介されたものの、それ以来彼らには会っていない。広い屋敷のどこかにはいるのだろうが、誰ひとり見かけることもなかった。
もうひとつは、屋敷での生活が何不自由なく素晴らしいものであるほどに、それを失くす時のことを想像してしまうのだ。屋敷での生活が夢なのか現実なのか、はたまた路上で生きるか死ぬかの生活を送っていたことが夢だったのか…ブランシュは、アルとして生きた時間が遥か昔のことのように思えてきてならなかった。
夢はいずれ醒めるものである。ブランシュは、そのことをよく知っていた。そして、その日は唐突に訪れたのだった。
ある日、ブランシュが部屋にいると父が訪ねてきた。父の傍らにはいつもの長身の男が立っている。それとは別に、もうひとり、見たことのない厳つい体躯の男を連れていた。その男は顔つきも厳しく、凄みを利かせるかのようにブランシュをひと睨みした。
「ブランシュ、お前に先生を紹介しよう」
父の言葉を聞くと、厳つい男がブランシュの前に歩み出た。
「はじめまして。私はロドルフです。今日から、あなたの教育の一切を任されることとなりました」
ブランシュも挨拶をした。
「ブランシュです。よろしくお願いします…ロドルフ先生」
「こちらこそ、よろしく」
ロドルフが手を差し伸べたので、ブランシュはそれをとる。すると、思いのほか力強く握り込まれた。苦痛に思わず声を上げそうになった時、ロドルフが手を離した。解放された手はじんじんと痺れ、見ればくっきりとした指の跡が赤く浮き上がっていた。
父はそれには気づいていないかのように、兄弟たちの時と同じように淡々と紹介だけを済ませると、すぐに退室する。残されたロドルフは、父がいなくなるやいなや態度を一変させた。
「ブランシュ」
厳つい声で呼ばれる。
「俺は他の使用人たちとは違う。お前の教育について、その一切を任されているのだ。お前が俺に逆らうことは許さない。絶対に服従してもらう。いいな」
あまりの豹変ぶりにブランシュが固まったまま動けずにいると、
「いいな!」
怒声にも近い声とともに、近くの壁を激しく叩かれた。そこで、ブランシュはこくりとうなずく。
「口がないのか! 返事をしろ!」
「…はいっ」
こうして、ブランシュの教育がはじまったのだった。
「何をしている?」
教育というからには勉強をさせられるのだろうと思い、机に向かって歩き出したところを呼び止められた。
「俺が指示をするまで勝手に動くな」
ブランシュが動きを止める。
「返事!」
「はい…っ」
「よし。では、ついてこい」
ロドルフが部屋を出て行く。その後ろ姿を見据えながら、ブランシュはこの男から逃げられないことを肌で感じていた。
「何をしている!」
再びロドルフの怒声が飛んでくる。ブランシュは思考を停止させると、弾かれたようにロドルフのあとを追って部屋を出て行った。
連れてこられたのは、これまでの煌びやかな風景から一転して、随分と殺風景な部屋だった。幾つか階段を下りて辿り着いたそこは、薄暗く、冷たい雰囲気をまとっていた。
「よし、はじめるか」
部屋の扉を閉めるとともにロドルフがそう言った。その直後、強い衝撃がブランシュに走る。ブランシュの華奢な体は軽く飛ばされ、背中から床に叩きつけられた。ブランシュは、口元を拭いながらよろよろと起き上がる。手の甲に真っ赤な血が筋を作った。今、何が起こったのかブランシュにはわからなかった。だが、それはとても懐かしい感覚だった。
「ほお、声ひとつ上げないか」
ロドルフがいやらしく口角を緩ませながら言う。
「殴られるのには慣れているのか。それならば、随分と鍛えがいがありそうだな」
「…鍛える…?」
「そうだ。教育だよ。俺はお前の先生だ。そうだろう?」
「教育…先生…」
「お前は長いこと路上生活をしていたそうだな。つまり、お前は街のゴミだったわけだ。ゴミが、どういうわけかボスの目に留まり、人間らしい生活を送れるようになった。だが、人間の真似をしても、一度ゴミ溜めに足を突っ込んだお前は、やはりゴミでしかない」
「…ゴミ…」
「そうだ。路地裏の奴らは自分で何かを生み出すことを考えず、人が蓄えた物を奪って生きる。自分が生きるためなら人がどうなろうと構わない、そう思っている連中だろう。そんな連中は人間ではない。ゴミ以外の何物でもない」
「……」
「だから、まずはお前のその性根を叩き直す。お前をゴミから人間に昇格させてやる」
ロドルフはにやりと笑うと、胸倉をつかみ、片手でブランシュの体を軽々と持ち上げた。ブランシュが地から離れた足をばたつかせる。逃げ場と抵抗力を失くしたのを見届けると、ロドルフは再びブランシュの頬を2度、3度と力一杯に張った。胸倉をつかまれているブランシュは倒れ込むこともできず、ぐったりとロドルフの太い腕に項垂れる。意識を飛ばしかけた時、ロドルフがブランシュから手を離した。支えを失くした体は少しの浮遊感とともに、尻から固い床に叩きつけられ、飛ばしかけた意識を再び呼び戻した。
「立て。今日はお前に戦闘の心得を教えてやる」
ロドルフは下卑た笑みを浮かべながら、ブランシュを見下ろしていた。
小一時間ほど経ち、ようやく解放されちブランシュは、ふらふらとした足取りで自室に戻るとベッドにその身を投げ出した。力を失くした体は、柔らかいベッドに沈んでいく。ふと、夢心地の頭が俄に覚醒した。扉を叩く音が聞こえる。
「ブランシュ様」
若い女性の声だ。メイドだろうか。ブランシュは起き上がろうとしたが、全身に突き刺すような痛みを感じて諦めた。そこで、
「どうぞ」
と扉に向かって声をかける。大声を上げたつもりだったが、その声は掠れていて、扉の向こうまで届いたのか不安になるほどだった。だが、ブランシュの返事の直後に扉が開かれる。現れたのはやはりメイドだった。メイドは、ベッドに力なく横たわるブランシュを見て息をのむと、小走りで駆け寄ってきた。
「ブランシュ様、大丈夫でございますか?」
その声は少しばかり焦っている。
「ブランシュ様…」
そのメイドは、ブランシュの小さな体に刻まれた無数の青痣やいまだ血の滴る傷を前に均整のとれた眉をしかめた。
「ブランシュ様、昼食の準備が整いました。ですが、まずはご入浴をなさってはいかがでしょう? たくさん汗をおかきになったご様子でございますので」
「…僕は…」
微かに首を横に振り断ろうと口を開いた時、不意にブランシュに顔を寄せたメイドが耳打ちしてきた。
「傷の手当てを致しましょう」
そこで、ブランシュは素直にメイドの言葉に従った。
浴室に行くと、メイドはブランシュを労るように優しく体を拭いてくれた。時折、ひりひり、ずきずきとした痛みが走ったが、それ以上にメイドの手の温もりが心地良かった。
「お姉さん、ありがとう」
消毒液を染み込ませた脱脂綿を切り傷に当てているメイドに、そう声をかける。すると、メイドは驚いたような、焦ったような表情でブランシュの言葉を制した。
「お姉さんなどと…私はただのメイドにございます。メイドに、お礼なども必要ございません」
「それなら、なんて呼んだらいいの?」
「おい、でも、そこの、でも結構でございます。私どもにはそれだけで充分通じます」
「でも、お姉さんにだって名前はあるんでしょう?」
「それは、もちろんございますが…」
「教えて」
「…ナターシャと申します」
「ありがとう、ナターシャさん」
ブランシュは振り返り、ナターシャの目を見て改めて礼を述べた。ナターシャは手当てする手を止め、困惑したような表情を浮かべる。そののちに、
「いいえ…勿体ないお言葉にございます」
それだけ言うと、うつむきがちに手当てを再開させた。ナターシャが痣に湿布を貼る。その手が、先ほどよりもわずかに震えていることに、ブランシュは少しばかり違和感を抱いていた。
ひと通り手当てを終えると、ブランシュは部屋に戻りベッドに横たわる。しばらくの間、高い天井を眺めていると部屋の扉が叩かれた。
「ブランシュ様、昼食をお持ち致しました」
ナターシャの声だ。
この屋敷に来て10日が経つが、食事の時間はきっちりと決まっていた。だが、食事を摂る場所は不特定で、ダイニングルームであったり自室であったり、時には中庭を案内されることもあった。そして、ボーイやメイドが傍に控えているのを抜きにすれば、決まってひとりで食事を摂らされた。たくさんの兄弟姉妹がいるのにと不思議に思わないわけではなかったが、なんとなく、それは尋ねてはいけないことのようにブランシュには思われた。
「どうぞ」
声をかけると、扉を開けてナターシャが入ってきた。ナターシャは必要以上のことは語らず、淡々とテーブルの上に食事を並べた。ブランシュはベッドを離れ、ソファーに移動する。その頃には、ナターシャはトレーを持って部屋をあとにしようとしていた。ふと、テーブルの上に目を向けると、ひと切れのパンとサラダが少し、そして湯気を立ち上らせる紅茶が置かれているだけであった。
「これだけ?」
ブランシュは思わず尋ねる。ナターシャはこくりとうなずくと言った。
「旦那様からのお言葉です。成果をあげられない者にまともな食事を摂る権利はない…と」
「成果? 成果って何なの?」
「申し訳ございません。私には解りかねます」
表情を曇らせたブランシュに、ナターシャは顔を上げ、にこりと笑った。
「ですが、お紅茶だけはいくらお代わりして頂いても結構でございます。私、いつでも淹れて参りますので」
「ありがとう、ナターシャさん」
ナターシャが退室すると、ブランシュはパンに手を伸ばした。それをひと口かじる。外はぱりっとしているが、中はふわっと柔らかい。パンのほのかな甘さを楽しんだ。サラダに目をやる。パリパリのレタスに真っ赤なトマトが添えられていた。トマトを口に入れる。酸味の少ないフルーツのような甘さが口内に広がった。
この食事は、路地裏で生活していた時に比べれば、まるで天国にでもいるかのように素晴らしい。味はまさに一流だし、誰に盗られる心配もなく落ち着いて食べられる空間だってある。だが、物足りなかった。それに気づいた時、ブランシュは無性に恐ろしくなった。
自分はなんと欲深いのか、と。
つい10日前までは、餓えと寒さに怯えながらくらしていた。今は、餓えも寒さも感じることはない。多少食事を減らされたからといって、路地裏での生活よりも遥かに良い生活を送れていることに変わりはないのだ。10日ですっかりと慣らされてしまったのだ。人並み以上の暮らしぶりに。そして、それがいつまでも続くと無意識のうちに思っていたその土台がぐらついた時、ブランシュはこれまでに感じたことのない絶大な恐怖を抱いた。
あっという間に食事を終えたブランシュは、満たされないままに、ナターシャが父の言葉として語った「成果」について考えていた。




