第1章 闇の中の光
アルが連れてこられたのは、とてつもなく大きな豪邸であった。10メートルはあるだろう高い塀に、大人10人が手を広げたくらいの幅はあるだろう大きな門がある。門を開くとさらに門があり、その向こうには広大な庭が広がっていた。それは、庭というにはあまりにも広すぎた。もはや街である。家の敷地内に、ひとつの街がすっぽりと入り込んだかのような光景であった。
豪邸というには足りない。これは、城だ。
広大な庭の向こうには、城と呼ぶに相応しい佇まいの建物が、優雅にこちらに顔を向けている。
「ブランシュ」
はっとして、声がした方へ振り向いた。年老いた男がこちらに目を向けている。
「返事だ」
「…はい」
「次からは一度で返事をするんだ」
どうやら何度か呼ばれていたらしい。
「乗りなさい」
2つ目の門を抜けると、2頭の馬が待ち構えていた。それぞれ茶と白の立派な毛並みの馬だ。2頭は車を引かされていた。
「どうした?」
いつまでも乗り込もうとしないアルに業を煮やさしたのか、老人が先に乗り込んだ。傍らに付き添っていた長身の男は、最前の扉を開けて座る。老人が無言でこちらを見るので、アルはおそるおそる老人の隣に乗り込んだ。アルが乗るのを確認すると、御者の青年が扉を閉めた。そして、最前の扉を開け、長身の男の隣に腰をかけ手綱を引く。
馬車は、20人が並列しても余裕がありそうな広い道を、草木の咲き乱れる中をゆったりと走る。20分も走ったところで、遠くに見えていた城がようやく眼前に現れた。
馬車が停まった。御者が恭しく扉を開けてくれる。老人が降りたあとで、高い段差があるところを御者に支えられながらアルも降りた。
城の扉の前に立つと、ぎぎぎっと重々しい音とともに中から扉が開けられた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
黒いスーツをぴしっと着込んだ白髪が目立つ初老の男が、扉の向こうでこちらに恭しく頭を垂れていた。その男の背後には、20人ものボーイやメイドが控えている。
「ヨハン、彼の部屋を至急作りなさい」
老人がアルの肩に手を置く。
「彼はブランシュ。今日から私の子供です」
「かしこまりました」
ヨハンと呼ばれた中年の男は、老人からアルの身を預かると、先ほどと同じように一礼をする。老人と長身の男が去ると、ヨハンはすぐさまボーイやメイドに指示を出した。呆気にとられながらことの始終を眺めていたアルだが、ふと我に返ってヨハンに尋ねた。
「…子供って、どういうこと?」
「お言葉のままにございます。旦那様は、時折貴方のような子を連れてきては、自らのお子としてお育てになるのです」
「そんな…。ねえ、僕を帰してもらうことはできないの?」
「なぜです? ここにいる限り、貴方はもう飢えることも寒さを感じることもないのですよ」
ほんの一瞬、アルの心が揺れた。それを見てとったのか、ヨハンは促すように、アルを来客用の待合室のようなところに通した。その部屋は、なにやらきらきらとまばゆいばかりの装飾に溢れていた。
「お部屋の準備が整うまで、しばらくこちらでお待ち下さいませ」
ヨハンが退室する。その後、ほどなくしてメイドが入室してきた。手にはトレーを持ち、その上にはティーポットとティーカップ、そして美しい装飾の小皿に甘い匂いを漂わせる焼き菓子がいくつか添えられていた。
メイドがカップに紅茶を注ぐ。
「どうぞ」
そう声をかけかれたものの、アルは湯気を立てる紅茶を前に動けずにいた。それをどう思ったのか、
「本日のお紅茶は、ベルガモットの爽やかな香りが特徴のアールグレイでございます。お好みでミルクを入れてお召し上がり下さいませ」
と言い足して、扉脇の壁際まで下がった。しかし、ブランシュには何が何だかわからなかった。紅茶が何なのかもわからないし、茶器も小皿の上に乗せられた菓子も、すべてが初めて目にするものだったのだ。また、メイドの言葉の端々にも引っかかる箇所はいくつかある。「お紅茶」「ベルガモット」「アールグレイ」など、耳にしたことがない言葉だ。また、「召し上がる」という言葉も知らない。だが、おそらく、食べてもよいということなのだろうとアルは解釈した。
アルは恐る恐る、甘い匂いにつられるように焼き菓子に手を伸ばす。そして、それをひとつ取ると、口の中に放り込んだ。さくさくという食感のあと、ほのかな甘みが口内に広がる。もうひとつ取り、口の中に再び放り込んだ。ひとつ目とは違う味だが、同じように思わずうっとりとするような甘さが口内を満たす。ふと、喉の渇きを覚え、カップに手を伸ばした。カップを口元に近づけると、甘美な香りが鼻孔をくすぐる。これがベルガモットの香りというものだろうかと思いながら、アルはひと口、ふた口と喉へ流し込んだ。カップを口から離すと、あとを引くように熱気が鼻から抜けた。メイドが言うように、確かに爽やかな心持ちになった、とアルは思った。
瞬く間に焼き菓子を平らげると、メイドがお代わりの皿を持ってきて空になった皿と交換した。そして、3杯目の紅茶を飲んでいる時、
「失礼致します」
ノックの音とともにヨハンの声がしたかと思うと、扉が開かれた。
「大変にお待たせを致しました」
そう言って入室したヨハンは、またも恭しく一礼をする。
「ブランシュ様、お部屋の準備が整いました。これよりご案内させて頂いても宜しいでしょうか?」
一応お伺いを立てられたものの、その言葉には強い意志が宿っているようで、否とは言わせない雰囲気があった。そこで、アルはおとなしく席を立った。それを見たメイドが少しばかり慌てて席を引く。ヨハンは、
「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」
と言い、アルを促して部屋を出て行った。
大広間へと繋がる赤い絨毯の引かれた広い階段を上り、突き当たって右奥の部屋に通された。その辺りには小部屋がいくつもあり、そのうちのひとつをアルのためにあてがったのだった。小部屋といっても、ロジェの村でアルが母と暮らしていた家の大きさは優に超えていると思われた。
「本日より、ここがブランシュ様のお部屋にございます。どうぞ、ご自由にご利用下さいませ」
「僕の、部屋…?」
「はい、さようにございます。のちほどご兄弟の方々ともお会い頂くようになるかと存じます。それまで、どうぞお寛ぎ下さい。また、扉の外にはボーイを待機させております。ご用の際には、ベッドの脇にある鈴を鳴らして下さいませ」
そう言ってヨハンは退室した。
ここにきて、アルは自分がもうアルでなくなったことを改めて知らされた。これからは、この屋敷で、ブランシュとして生きて行くことになるのだ。
ひとり残されたブランシュは、まじまじとその部屋を見回す。天井が高く、豪奢な細工のシャンデリアが吊り下げられていた。白一色の壁紙で清潔感がある。扉を入ってすぐ右手にはふたり掛けのソファが向かい合ってふたつ並び、その中央には長い木製のテーブルが置かれていた。奥には衝立があり、その向こうにベッドがある。ベッド脇にはサイドラックが置かれ、そこに先ほどヨハンの話に出ていた鈴が置かれていた。そして、その隣には机と椅子がある。物が一寸のぶれもなくきちっと置かれており、とても整然とした部屋だった。
しばらくは部屋の物を見て回っていたが、すぐに見る物がなくなると、ブランシュはおもむろにソファに腰を下ろした。沈み込むようなふわりとした感触に驚き、思わず立ち上がる。その後、さらにゆっくりと腰を沈めた。また、ふわりとした感覚を得るが、今度は立ち上がることなく安心して身を委ねた。
何をするでもなくぼうっとしていると、突然に扉が開かれた。
「ブランシュ」
しわがれた声が耳に届いた。
「この部屋は気に入ったかな?」
尋ねながら、ブランシュをここに連れてきた老人が部屋に入ってくる。ブランシュはソファから立ち上がると、老人の方へと歩み出た。
「はい。…旦那様」
ヨハンが老人のことをそう言っていたのを思い出し、老人に答えて言う。だが、老人はため息混じりに首を振った。
「ブランシュ。私はお前を雇い入れたつもりはない。私の息子として引き取ったのだ。これからは、私のことをお父様と呼びなさい」
「…お父様」
「そうだ、それでよい。ブランシュ、ついてきなさい」
ブランシュは促されるままに部屋を出る。
「これより、お前の兄弟たちを紹介しよう」
そう言いながら、父となった老人は部屋の扉を閉めたのだった。
ブランシュが連れてこられたのは、広々としたダイニングルームであった。
「ブランシュ、挨拶をしなさい。これから、この子らがお前の兄弟姉妹となるのだ」
ダイニングルームに集められていた子供たちは、20人は超えていると思われた。ざっと顔を見渡したところで、
「僕は、ブランシュ。…はじめまして」
たどたどしく言葉を紡いだブランシュに、彼よりも幼い女の子が歩み寄ってきて花束を差し出した。
「よろしくね、ブランシュ」
ブランシュがそれを受け取ると、今度はブランシュよりも背の高い男の子が声をかける。
「俺はタクト。ここでは一番の古株なんだぜ。わからないことがあったら、何でも聞いてくれよな」
「うん。ありがとう」
「よし、ここまでだ」
父の言葉に、子供たちはぴたりと動きを止めた。
「今日は顔見せだけの予定なのだ。お前たちはもう部屋に戻りなさい。ブランシュは私とともにくるのだ」
突然に連れてこられて紹介されたかと思えば、ひと言ふた言かわしただけですぐに解散となった。その慌ただしさに混乱していると、ふと背を押された。父に付き添っている男だ。見れば、父はブランシュに構うことなくすたすたと前を歩いている。周囲の子供たちもすでにいなくなっていた。ブランシュは慌てて父のあとを追った。
次に連れてこられたのは、ブランシュにとって夢のような世界だった。
建物の中だというのがまるで嘘のように、緑が芽吹き、花畑がそこにあった。空は快晴でゆったりと雲が流れ、鳥が飛んでいた。花には蜂が止まり、蜜を吸っている。そして、花畑の向こうには豊かな森が広がっていた。
「ブランシュ、この場所をお前にやろう」
その言葉が飲み込めずただ目を見開くばかりのブランシュに、父は再び口を開いた。
「あれも、あれも、すべてお前のものだ。お前が私に従う限り、お前が望むものを何でも与えよう」
そう言って父は、ふたつの大木に吊るされたブランコやその奥にある滑り台、大きな噴水などを指さす。だが、ブランシュは、それらをただ口を空けて見つめるしかなかった。そこで、何かに気がついたらしい主人がブランコに歩み寄ると腰をかけた。
「来なさい」
手招きをする。ブランシュはそれに従った。
「さあ、腰をかけなさい」
言われたままに従い、ブランシュは恐る恐るブランコに腰を下ろす。ぐらりとした揺れを感じ、慌てて縄にしがみついた。バランスを崩して揺れ続けるブランシュの体を、父の腕が支える。それは、ただの老人のものとは思えない、力強く逞しい腕だった。
ブランシュの体を支えながら、父が軽くブランコをこぐ。風の心地良さと流れる風景に、ブランシュは言葉もないほどに感じ入っていた。
「これからは、ここにあるものすべてがお前のものだ」
ブランコを止め、ブランシュを抱えて地におろしてやりながら父が言った。
「全部、僕のもの…?」
ブランシュがつぶやく。
「ああ。お前が私の子供であり続ける限り、私はお前が望むものを何でも与えよう」
そう言うと父は微笑んだ。初めて見る父の笑顔を、いまだ浮遊感の残る頭で、ブランシュはただ見つめていた。




