第6章 路地裏からさらなる闇へ
路地裏同盟が結成されて、3ヶ月が過ぎた。今では、50人を越える子供たちが同盟に加盟している。そして、アルは13歳になっていた。
「どうしたんだい、ジル?」
明け方頃、傍らに寝そべっていたジルの息遣いで目を覚ました。アルが傍によって見れば、肩を上下に揺らしながら荒い呼吸を繰り返している。
「ジル?」
アルがジルの顔をのぞき込む。その肌はじっとりと汗ばみ、触れる前から熱気が伝わってくるかのようだった。アルが肩を揺すると、ジルがうっすらと目を開ける。
「ジル、具合が悪いのかい?」
尋ねると、ジルはおもむろに頭を押さえた。
「頭が、痛い…」
ジルの頬は上気し、答える吐息にも熱を孕んでいる。額に触れると、手のひらが焼かれるように熱かった。
「凄い熱だ…」
熱を確認して、離そうとした手をジルにつかまれた。
「行くな」
「え?」
「お前の手、気持ちいい」
体温が低いアルの手は冷たくて、汗ばんだ肌に心地良いのだろう。だが、それも一瞬のことだ。瞬く間にアルの手はぬるくなり、ジルの体温と変わらないくらいに熱くなった。そこで、ジルはアルの手を解放する。
「ジル、待ってて。今、冷やすものを持ってくるから」
アルは立ち上がると、熱に浮かされたジルにそう告げてアジトをあとにした。
「やあ、アル」
路地の角を曲がったところで声をかけられた。路地裏同盟に加盟しているダミアンとルイーズだ。彼らは血を分けた実の兄妹である。兄ダミアンは17歳だが、14歳の妹ルイーズよりもずっと小さな体つきをしていた。なんでも9歳の頃から成長が止まってしまったのだという。栄養が足りず、また過度のストレスが原因だろうと当人は笑いながら語っていた。だが、それもうなずける。ダミアンは、本当に優しい少年だった。路地裏で生きるには彼は優しすぎた。そんなダミアンにのしかかるストレスは計り知れないだろう。一方のルイーズも優しい少女だった。しかし、それ以上に男勝りな性格でもあった。兄の成長が止まったのは自分のために無理をし過ぎたためかもしれないという思いもあり、兄の負担にならないようにしなければという自立心が人一番に強かった。そんな2人は、路地裏という闇の中にありながら支え合って生きている、本当に仲の良い兄妹であった。
「そんなに急いで、どうしたんだい?」
ダミアンが尋ねる。
「ジルが、ひどい熱なんだ」
アルは手短に答えた。
「ジルが?」
ルイーズが心配そうな声を上げた。
「何か冷やすものが欲しくて、探しているんだ」
「冷やすものって言っても、今は冬じゃないからなあ。氷も張らないし」
ダミアンは首を捻って考えている。その傍らで、ルイーズが明るい声を上げた。
「そうよ、兄さん、氷よ」
アルとダミアンはルイーズを見る。
「この辺にないなら、ある所に行って盗ってくればいいじゃないの」
「ある所って?」
ルイーズの言葉に首を傾げるアルに、ルイーズは笑う。そこで察したらしいダミアンが、
「それは危険すぎる!」
と止めに入った。
「危険なんて今さらじゃないの」
「いつもより断然危険だよ」
「どういうこと?」
ダミアンとルイーズの話についていけないアルは、首を傾げながら尋ねた。
「グラン・マルシェから盗ってくるのよ」
「グラン・マルシェから?」
アルはグラン・マルシェを思い浮かべた。確かに氷屋はあったと思う。だが、冷凍庫に入れられた巨大な氷塊を、売る時にだけ取り出し、その場で切り分けて客に渡すという仕組みだったはずだ。そこから氷を盗んでくることなどほぼ不可能だろう。
「でも、氷屋から盗んでくることなんて…」
できるわけがないと続くはずだった言葉を、ルイーズに遮られた。
「氷屋じゃないわ。肉屋よ」
「肉屋?」
「ええ。他にも、生ものを扱っているところになら氷があるはずよ」
「けれど、どうやって盗ってくるつもりなんだい? 氷は確かにあるだろうが、客の入らない店の奥にだろう?」
ダミアンの言葉に、アルもうなずいた。
「それは、従業員通路からこっそりと…」
「危険だよ」
そんな2人のやり取りを見つめながら、
「魚屋だ」
とアルが唐突に声を上げた。
「魚屋なら、通りに面したところに氷を置いているよね。氷水の中を魚が泳いでいるのを見たことがあるよ。それに、氷の詰まった笊に乗せられた魚も見た。僕たちはさ、火を起こすのが難しいから普段は魚なんて盗らないだろう? なら、きっと店の人も油断しているんじゃないかな」
ダミアンとルイーズは顔を見合わせた。
「僕、魚屋に行ってくるよ。ありがとう、ダミアン、ルイーズ」
そう言って去りかけたアルの腕を、ダミアンがつかんだ。
「なに?」
振り返りながらアルが尋ねると、ダミアンはため息をついて言う。
「ひとりで行くなんて、それはないよ」
ルイーズも苦笑を浮かべている。
「ここまで聞いてしまったものね。一緒に行ってあげるわ」
「え、でも、危険だよ?」
アルの間の抜けた言葉に、ダミアンは笑った。
「だからこそだよ。危険を少しでも回避するために、君たちが路地裏同盟を創ったんだろう?」
アルとダミアンが話している間にも、ルイーズはグラン・マルシェの方へと歩き出している。
「ほら、早く行くよ」
ルイーズが振り返って言う。ダミアンがアルの手を引いた。アルが笑う。そこで、3人はジルのため、グラン・マルシェを目指したのだった。
グラン・マルシェは今日も賑わっていた。
3人は、人ごみに流されないように気をつけながら通りを行く。しばらく歩いたところで、目の端に目的の店が飛び込んできた。そこで、3人は作戦を実行に移す。
作戦と言っても、実に単純なものだった。走るのが遅い小さなダミアンが、買い物を頼まれたのだと店員に貨幣をちらつかせる。店員の気がそれた隙に、アルとルイーズが笊をひとつずつ持って逃げようというものだった。
「ねえ、おじさん」
ダミアンが動いた。
「お母さんにね、今日の夕飯に魚を買ってきてって頼まれたんだ」
店員は、ダミアンの姿を下から上まで舐めるように見回す。擦りきれた衣服に汚れきった姿のダミアンを明らかに訝しんでいる様子だ。だが、ダミアンが貨幣を取り出して見せると、特に何も言わずに客として応対する。しかし、警戒心を捨てていないのはひしひしと伝わってきた。
「とても近寄れる空気じゃないわ」
物陰に隠れて、店員とダミアンの動向をうかがっていたルイーズがつぶやく。
「…僕がなんとかする」
アルが決意して言った。
「ルイーズ、あのおじさんの気がそれたら、氷の入った笊を持って逃げて。笊はひとつだけでもいいから」
「アル…?」
「そうしたらね、ジルに届けてあげてよ。僕らのアジトは、死体置き場だ」
「アル、何をするつもりなの?」
「僕があのおじさんの注意を引きつける」
「どうやって?」
「騒ぎを起こせば、注意がそれると思う」
「騒ぎって?」
それには答えずに、アルは笑顔を向けた。
「ルイーズ、頼んだよ」
そう言ったアルの声があまりにも穏やかだったので、ルイーズは反射的にうなずいていた。その後、アルは魚屋が面した細い小道の奥へと消えて行く。ほどなくして怒声が上がった。
「路地裏だ!」
その声に、魚屋の店員が弾かれたように小道に目を向けた。
「店を頼む!」
店員が店の奥に声をかけると、代わりの店番を待たずに小道へと入って行った。今だとばかりに、ルイーズは絶好の好機に動く。それはダミアンも同様だった。
店の奥から代わりの店員が姿を現した時には、細かく砕かれた氷の上に魚を入れた笊が2つ、忽然と消えていた。
ジルは、突然のひんやりとした感触に目を開けた。ほとんど無意識に額に手をあてると、何か冷たいものに触れる。触れたところが濡れているようだった。
「ジル」
傍らで名を呼ぶのは、ルイーズだ。その隣にはダミアンもいる。
「なんで…」
自分の掠れた声に驚き、ジルは口をつぐんだ。意を汲み取ったダミアンが答える。
「アルに頼まれたんだよ」
「アル…?」
「熱のあるジルのために氷を調達したいって言うからさ、魚屋から盗ってきたんだ」
再び額に手を置く。布に包まれた、冷たくて固いものに指があたった。布の荒い目からは水が滴り落ち、前髪を濡らしている。生臭い臭いが鼻についた。
「アルは?」
ジルが起き上がって尋ねる。
「わからない」
ダミアンが答えた。
「店員の注意を引きつけるって言ってどこかへ行ったきり、見あたらないのよ。アルがいなくなってすぐに騒ぎになったから、私たちはその隙に氷を持って逃げたのだけれど…」
ルイーズがうつむきながら言った。それを聞いていたジルはおもむろに起き上がる。その拍子に、氷が石造りの地面に転がり落ち、漏れ出た水が染みを作った。
「ジル、どこに行くんだ?」
驚いたダミアンが声をかける。だが、その声が聞こえているのかいないのか、ジルは答えることなく、ふらつく足を引きずるようにアジトを出て行った。
アルは走っていた。
追手がすぐそこまで迫っている。捕まれば殺されるだろう。
グラン・マルシェの通りを走るに連れ、追手が次々に増えてくる。だが、グラン・マルシェの連中は、なかなかアルを捕まえられないでいた。
それは、単純にアルの足が速かったからである。風のようにグラン・マルシェの小道を走り抜けるアルには、大人たちの誰も追いつくことができなかったのだ。
よく知った小道を走り抜け、アルはようやくグラン・マルシェを抜けた。そのままの速さで路地裏を目指す。ダミアンとルイーズが無事にグラン・マルシェを抜けられたとしたら、ジルに氷を届けてくれている頃合いだ。
あとひとつ、この路地を曲がって奥まで走り抜ければ、そこはもうアジトだった。だが、その手前に、ふたりの人影を見かけた。
長身の若い男と背筋のぴんと張った老人。ふたりはぴしっとしたスーツに身を包んでおり、どちらもこの場には似つかわしくない空気を発していた。そうであったのだから、アルは関わるべきではなかったのだ。しかし、それは条件反射のようなものであった。
足が速く動きが機敏で手先の器用なアルは、スリを最も得意としていた。金持ちそうな人物とすれ違うと、考えるよりも前に手が勝手に動く。スリを初めたばかりの頃は、自分の姿を相手に気づかせた上で殴らせてから隙を作って財布を盗るという方法をとっていたが、今では相手に触れることなく、気づかせることもなく仕事を終えることができるほどに腕前は上達していた。しかし、このふたりは今までのどんな相手とも違っていた。
かちり、と耳元で無機質な音がする。
長身の男が、アルのこめかみに銃口を突きつけていた。
「まさか、私の懐に手を伸ばす者がいるとは」
そう言った老人は実に楽し気な口調だったが、目がまるで笑っていない。眼力だけで人を殺せそうな雰囲気を醸し出していた。実際、長身の男は老人の言葉を待っているようでもあった。老人が「殺れ」と一声上げたなら、躊躇うことなくアルのこめかみを撃ち抜いたことだろう。
動けずにいるアルのもとへと老人が歩み寄る。冷や汗にしっとりと濡れた額に手をあてると、そのまま顔を隠していたフードを取り払った。
「白い髪に白い肌…白い民に似ているが、その瞳は海底のように碧い。混血か」
答えないアルを前に、銃を握る男の手に力が加わった。しかし、老人がそれを制する。そして、にやりと笑みを浮かべた。
「面白い子供だ。この状況で笑えるのか」
アルは、満面の笑顔をそこに湛えていた。
「…ブランシュ」
老人がつぶやくと、その意を解した男が銃を下ろしてアルを解放した。
「お前の名はブランシュ。今からそう名乗るがよい。そして、私とともにくるのだ。今よりもずっとよい暮らしをさせてやろう」
話が勝手に進んでいく中、選択権などあるはずがないことをアルはすぐに知った。
銃口から逃れたものの、アルの細い腕は男のがっちりとした腕に拘束されている。拘束されたのとは逆の手につかまれたままの財布を取り返すと、老人は背を向けて歩き出した。そのあとを男がついていく。アルは、状況が吞み込めず、ひと言も発することができないままに引きずられるようにしてついて行くしかなかった。
男に連れられながら見慣れた路地に目を向ける。ふと視界に入った人影に、はっと息を飲んだ。
声は上げなかった。声を上げれば、この男たちがなにをするかわからない。アルに対しても、そして、あの路地の向こうにいるジルに対しても…。
ジルもアルに気づいているようだった。壁にもたれるようにして、じっとこちらを見つめている。具合はまだまだ悪そうだが、動けるようになった様子にアルは少しばかり喜んだ。そこで、アルは意図して笑う。もういつ会えるかわかない。もしかしたら、もう二度と会えないのかもしれない。それならば、笑顔を覚えていて欲しいと思ったのだ。
一方のジルは、笑ってはくれなかった。困惑したような表情のあと、唇を噛みしめ、ひどく悲しそうな目をこちらに向けていた。それでも、アルは笑顔を送り続けた。自分を気にかけてくれたこと、仲間に誘ってくれたこと、名前をつけてくれたことなどへの感謝を込めて…。アルは、自分は今、最高の笑顔を作っているという自覚があった。だが、ただひとつだけ、次から次へと溢れて頬を濡らす涙だけは、どうすることもできないでいたのだった。




