第5章 アルとジル
「お前、名前は?」
そう聞いてきたのは、黒い服を着た、少年よりも幾分か背の高い少年だった。それは、陽が暮れかけた頃、少年が自分のアジトでパンを齧っている時のことである。彼は周りに置かれた死体を一瞥すると、何ともなしにそう尋ねたのだ。少年が答えずにいると、
「俺はジルだ」
黒い服の少年が言った。
「僕は…」
少年は言い淀む。答えようにも名前などないのだ。
「名前なんかないよ」
ありのままに告げる。
「名前がない?」
「うん。呼ばれたことがないからね」
「…親の顔も知らないってやつか?」
「違うよ。この間まで母さんと暮らしていた。けれど、母さんは僕に名前をつけてくれなかったんだ」
「……」
「村のみんなは、僕を白い化け物と呼んでいたよ」
ジルは少年の方へと歩み寄ると、おもむろにその髪に触れた。
「綺麗なのにな」
どきりと鼓動が鳴る。次の瞬間、ジルに頭をわしわしと撫ぜられた。
「ちょっと!」
抗議すると、ジルは声を上げて笑う。
「白というより、銀色だよな。なら、アルジャンかな」
「……?」
「銀色なら、アルジャンだろ? でも、長いな。アルとジャン、どっちがいい?」
「何を言っているの?」
「だから、お前の名前だよ。名前がないなら俺がつけてやる」
「別にいいよ。名前なんか…どうせ、誰も呼ばないんだから」
「俺が呼ぶんだよ。好みがないなら勝手につけるぞ。よし、お前は今日からアルだ。俺がそう呼ぶ」
勝手にそう告げると、ジルはその場に腰を下ろした。
「お前、歳はいくつだ?」
「12。もうすぐ13になるよ」
「俺はもうすぐ15だ」
「そう…」
「お前さ、なかなかの腕だよな」
ジルは、服の袖口から林檎を出すと、それを齧りながら言った。
「この間、お前のスリを見た。随分と鮮やかな手口だった」
「そうかな…」
「なあ、アル。お前ってさ、女装が趣味だったりするのか?」
「そんなわけないだろ!」
珍しく声を荒げたアルに、ジルは含み笑いを漏らす。
「悪い悪い。けどさ、俺が見かける時、お前は大体女装してるんだよな」
「それは…その方が、相手に警戒されずに済むからだよ」
「まあ、お前は似合うからいいよな」
「嬉しくないよ…」
言いながら、アルは死体のひとつに近づくと、いつものようにその服を剝いでいく。
「なあ、もうひとつ聞いてもいいか?」
ジルが改まって言う。
「なんで笑っているんだ?」
アルははっとした。自分の顔に手をあてる。目尻が下がり、口角が上がり、その表情は確かに笑っているようだった。
「俺は路地裏に住み着いて長いし、死体も飽きるほど見てきた。でも、そいつらを前にして笑える気はしねぇよ」
「ごめん…」
「別に謝ることはないんだが…」
「笑っているつもりはないんだ。勝手にそういう顔になっちゃうだけで…」
「なんだよ、それ。何かの病気か?」
「数ヶ月前まで、僕は西にある山間の村に住んでいたんだ。そこでは、みんなが僕を白い化け物と呼んだ。見つかれば石を投げられ、死ぬ寸前まで殴られたこともあった」
ジルは俄かに顔を顰めた。
「ある日ね、僕は気づいたんだ。どんなにやめてとお願いしてもやめてもらえない。泣けば、されに酷く殴られた。だから、笑うことにしたんだ。そしたらね、そこまで酷くならないうちにみんなやめてくれるようになったんだ。気持ち悪い、気味が悪いって言ってさ」
「……」
「何年もずっとそうやってきたからかな。この顔は僕の感情に関係なく、いつも笑顔を作ってしまうんだ」
「やっぱり、病気じゃねぇか」
ジルはため息をつくと、アルに林檎を差し出した。
「お近づきの印ってやつだ」
「ありがとう」
「だが、お前のそれは、ここで生きるにはいい武器なると思うぜ」
アルが林檎を齧りながらジルを見据える。
「お前の笑顔は、どんな奴からもその警戒心を解いてしまう。スリっていうのは、自分の姿を認識された時点でしくじる可能性が高いわけだが、お前は敢えて認識させているように見えた。無謀というか自棄というか…殴られることを何とも思っていない感じだった。その理由が、今わかった気がしたぜ」
「ねえ、ジルはいつからここにいるの?」
自分ばかりがあれこれ尋ねられるのは癪だとばかりに、アルもジルに聞き返す。
「7年前からかな」
「それまではどこで暮らしていたの?」
「ヴィル・リシュ」
「え、それって…富裕層街だよね?」
「ああ」
「そこにいたの?」
「ああ」
「それが、なんだってこんな所に…」
「親父が死んだからだ。親父は借金をしていた。その借金のかたに、家も資産も全て持っていかれた。お袋も身を売った。俺は需要がなかった。だからここに捨てられたんだ」
淡々と話すジルを前に、自分で聞いたものの何と答えれば良いかわからずにいると、
「お前、よくこの話でそんなふうに笑えるな」
そうジルに言われた。咄嗟に自分の顔を触って確認する。確かに口角が上がっていた。
「ごめん…」
謝ると、ジルが笑う。
「冗談だよ。俺にとってはもう過去の話だし、ここにいる連中はみんなそれぞれに抱えているものがあるんだ。お前だってそうだろう? だから、いちいち気にするな」
そう言われたアルは、今度は心から微笑んで見せた。
アルとジルは、組んで仕事を行うようになった。
アルにとって、ジルは庇護する対象ではない。その日を生きるために助け合えるパートナーだった。そういう存在は、アルにとってもジルにとっても初めてのことだったが、互いに最高のパートナーに巡り合えたと感じていた。
「おい、待て」
アルはすれ違った男から呼び止められた。
「今、俺にぶつかっただろう?」
その日も白いワンピースを着ていたアルは、スカートの裾を握りしめる。
「ご…ごめんなさい」
「謝って済むか!」
男が拳を振り上げた。
「この、路地裏が!」
だが、男の拳が降ってくることはなかった。その代わりに、
「ぐわっ!」
と短い悲鳴が上がる。それとともに、男が地に膝を着いた。
「うぐっ」
再び男は呻き、こめかみを押さえながら倒れた。
「アル、走れ!」
突然の声に弾かれたようにそちらを見ると、ジルが薄暗い路地の向こうから手招きしているのが見えた。その手にはゴムパチンコが握られている。
「アル、早くしろ! こっちだ」
足元に倒れていた男が、頭を押さえながらも立ち上がろうとしていた。
「…殺してやるっ」
男の目は血走り、今にもアルにつかみかからんばかりだった。アルは竦む足を両手でひとつ叩くと、
「うわぁっ!」
大声で叫んだ。そして、起き上がりかけた男の顎を蹴り上げたのだ。男は後頭部から地面に叩きつけられ、しばらく起き上がることはなかった。その隙に、アルはジルのいる通りへと走ったのだ。
「アル、やるじゃないか」
ジルがそう言ったのは、男からすり盗った財布の中身をアジトで確認していた時だった。
「もう、無我夢中だったんだよ。でも、仕返しにきやしないかな?」
「ここにいる限りは見つかるわけねぇよ。こんな死体置き場、路地裏に住んでる奴らだって気味悪がって近づかないんだぜ。それに、ここは迷路のように道が入り組んでいるからな。追ってなんかこれないさ」
「うん。でもさ、僕たちはまた外に出なきゃいけないだろう? こんな手荒なことを続けていたら、生き辛くなるよ」
「最後にあいつを伸したのはお前だろう?」
「まあ、そうなんだけど…」
うつむくアルを見つめながら、ジルはある考えを伝える。
「なあ。俺たちも、同盟を組んだらいいんじゃないか?」
聞き慣れない言葉にアルが目を瞬かせた。ジルは続ける。
「グラン・マルシェの奴らが手を組んで俺たちを捕まえようとするように、俺たちも手を組むんだ」
「俺たちって…」
「路地裏に住む奴らだよ」
「それは…一体どれくらいいるかもわからないのに、どうやって手を組むの?」
「もちろん、全員と同盟を組むのは難しいと思う。だから、ひとりひとり、見かけた奴らに声をかけていくんだ。特にグラン・マルシェで仕事をしている奴は狙えると思う。あそこは、どこよりも稼げる仕事場だが、ひとりで仕事をするにはかなりのリスクが伴うからな」
アルは目を見開いた。
「…できるの?」
「やるんだ!」
ジルがにっと笑う。
「そうでなけりゃ、俺たちに未来はない。路地裏の未来のために、俺たちがそれを始めるんだ」
ジルのとてつもない思いつきに、アルは目を輝かせながら笑った。その思いつきは、早速実行に移された。
「それじゃあ、二手に別れようぜ。お前がすってきた金で食糧を調達する役と、同盟を組めそうな奴を勧誘する役だ」
「なら、僕が食糧を調達してくるよ。ジルの方が口が上手そうだもの」
「俺を詐欺師みたいに言うなよ。だが、わかった。言い出したのは俺だからな。俺が仲間を増やしてやる」
そうして、2人はそれぞれの目的のために歩き出したのだった。
グラン・マルシェに着いたアルは、青果店の前にいた。そこは、これまでに一度も訪れたことのない店だった。アルは一般の客と同じように店の扉を開ける。その瞬間、じろりと値踏みするような視線を感じた。だが、アルはそんな視線を無視し、店員に話しかける。
「その籠の果物とそこの長いもの、あと林檎を2つずつ下さい」
そう言って、訝しむ店員の前に巾着袋から取り出したコインを置いた。そのコインをまじまじと見ていた店員だったが、それが偽金ではないとわかったのか、注文通りの品物を紙袋に入れて渡してくれた。
「ありがとう」
礼を言って店を出たアルは、次にパン屋を目指した。パン屋でも同じように注文し、袋に焼きたてのパンを入れてもらった。2つの袋を両手に抱えながら、アルはグラン・マルシェの通りを歩く。そこへ、
「このガキどもがっ!」
と、遠くの路地から穏やかでない声が聞こえてきた。アルは、袋を抱える手に力を込める。
「もしかして、ジル…?」
ジルは、グラン・マルシェで仕事をしている奴らにこそ同盟の話を持ちかけるべきだと言っていた。ジルも、グラン・マルシェに来ているのかもしれない。そう思ったアルは、声を頼りに路地を急いだのだった。
声が増えてきた。グラン・マルシェの店の大人たちだろう。誰かを追っているようだ。
人ひとりがなんとか通れるほどの狭い路地を走っていたアルは、もうじき路地を抜けて大通りに出られると思った矢先、不意に立ちすくんだ。抱えた袋から林檎が零れ落ちそうになり、慌てて体制を持ち直す。
「アル!」
呼ばれて見た先には、額に汗を浮かべた必死の形相で立ちすくんでいるジルの姿があった。そのすぐ後ろには、アルと同じ年頃の少女がジルに手を引かれるように立っていた。
「あの角を曲がったぞ!」
すぐ近くで声が聞こえた。咄嗟に状況を理解したアルは、ジルにパンの入った袋を渡すと抱えた袋から林檎を取り出した。それを大きく振りかぶる。アルの行動を見たジルは、少女の頭を自分の方へ引き寄せると、反射的にその場に屈んだ。アルは、手にした林檎を勢い良く全力で放り投げる。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴とともに、追ってきた男が顔を押さえながらうずくまった。
「どうした?」
あとからきた男が尋ねる。
「何かを当ててきやがった」
悔しそうに言うが、林檎をぶつけられた男は目を開けることができないようだ。
「おい、とにかくそこをどけ! 逃げられるぞ」
人ひとりようやく通り抜けられる狭い路地の入り口にうずくまる男のせいで、あとからきた男たちも足止めを食らっていた。それを見たアルは、
「ジル、早く!」
そう声をかけて、通ってきた路地を戻る。ジルは、先ほどアルが投げた林檎を拾い上げると、少女の手を引いて走った。
走りに走って、なんとか路地裏に帰り着いた3人は肩で息をしながらそれぞれの顔を見合った。ふと、笑い声がもれる。アルとジルが、互いに顔を見合わせて笑っていた。それを、ぽかんとした表情で少女が見つめている。
「なあ、これでわかっただろう? 同盟を組むことの意味が」
ジルが少女に林檎を投げて渡した。少女は咄嗟にそれを受け取る。その林檎はへこんでいて、べたつく汁がもれ出していた。
「路地裏の連中が助け合えば、もっと楽に稼げるようになる。グラン・マルシェの奴らからだって逃げられる。今日のようにな」
見つめ合う2人の前に、アルがすっと手を差し伸べた。
「ようこそ、路地裏同盟へ」
そう言って笑うと、少女も微笑んでアルの手の甲に自分の手を重ねた。
「私はソフィ。いいわ、あなたたちと手を組んであげる」
「決まりだな」
ジルはソフィの手の上に自分の手を置くと、上と下からがしっと両手で2人の手を握り込んで笑ったのだった。




