第4章 ナハドの少年たち
「ドニ」
呼ばれた幼い男の子は、とてとてとした足取りで駆け寄ってきて少年の手をつかんだ。ドニは、少年を見上げてにこりと微笑む。
「出かけてくるよ。戻ったら朝食にしよう」
少年の言葉に、ドニはこくりとうなずいた。
ロジェの村を逃げるように出た少年は、7日の旅を経てナハドに辿り着いた。ロジェの村は、エルターナ国南西の国境付近にあった。村を出てより、食料に困らない所を、少しでも環境の良さそうな所をと探しながら東に向かって歩いてきたのだが、ロジェの村ほど恵まれた地は他になかった。そして、国の南東に位置する首都ナハドまでやって来た少年は、そこに腰を落ち着けることに決めたのだった。
ナハドは貧富の差が目に見えて明らかな街だった。この街においても、少年が生き辛いだろうことはすぐにわかった。だが、この街には、少年と同じような境遇の子供たちがたくさん暮らしている。それが、いつもひとりだった少年に妙な安心感を与えたのだ。
ナハドに流れ着いてから、4ヶ月が経った。今では、街の状況にも詳しくなり、周りの浮浪児たちとも顔見知りとなった。ロジェの村で白い化け物と呼ばれた少年は、ナハドの地においても路地裏と呼ばれ蔑みの対象とされた。だが、ロジェの村での生活よりも、路地裏での生活の方がずっと心持ちは軽かった。
ナハドで路地裏の少年たちがその日の糧を得るのはかなり大変なことだった。しかし、それでも、少年はひとりではなかった。仲間意識などはないに等しかったが、周りには自分と同じような境遇の子供たちがたくさんいた。それが、少年に一種の安心感を与えていたのだ。
路地裏を出た少年は、まっすぐにグラン・マルシェを目指した。
グラン・マルシェは、この日も盛大な賑わいを見せている。フードを深々と被り、擦り切れた白いワンピースを着た少年が、人でごった返している大通りを歩く。ある店の前に来た時に騒ぎが起きた。
「この野郎!」
この商店街ではすでに名物となっている声に、通りを行きかう人々はさして興味を示すことなく先を行く。ただ、付近の店からは、声を聞いた店主や使用人らがぞろぞろと出てきて、商店街を荒らす輩を捕えようと躍起になっていた。
「またやられたか?」
ある店の主人の言葉に、
「ああ、路地裏のガキだ!」
被害にあった店の主人が答えた。
「どんな奴だ?」
「おい、あれじゃないのか?」
「あの黒い服のガキか」
「お! 今、あの角を曲がったぞ」
みなは口々に言い合い、それぞれに得物を持って逃げた少年を追う。
白いワンピースを着て少女に扮した少年は、黒い服の少年が全速力でこちらに向かってくるのを見た。少年の後ろから、どたばたと複数の足音が近づいてくる。少年は咄嗟に、黒い服の少年へと手を伸ばした。そのすぐあとに、角を曲がって大人たちがこちらへやってくる。みな、手に手にそれぞれの得物を携え、血眼で逃げた少年を探しているようだ。そのうちのひとりが、ワンピースの少年に気がついた。
「おい、お前。こんな所でなにをしてるんだ?」
少年は、ある店の従業員用出入り口を背に座り込んでいた。
「妙な奴だな。お前も、まさか路地裏のガキか?」
そう問いながら得物を構えたのを見て、少年は顔を上げて大人たちを見据えた。
「違うよ。私はお母さんを待ってるの」
少年がきっぱりと答えたのを見て、ゆっくりと得物を下ろす。
「私、お母さんとはぐれちゃったの。あちこち探したけれど見つからなくて…。でもね、お母さんが言ってたの。グラン・マルシェは広いから、もしもはぐれたらこの青果店で待ち合わせしようって。このお店には、お母さんとよく来るのよ」
そう言い放った少年は、最後ににっこりと微笑んで見せた。大人たちは目配せをし合う。
「そうか。お嬢ちゃん、早くお母さんに会えるといいな」
ひとりがそう言うと、みなも同意とばかりにうなずき、再び黒い服の少年を追って駆け出した。
商店街の大人たちが遠くに走り去ったのを見届けると、少年は目の前のごみ捨て場に声をかける。
「もう行ってしまったよ」
だが、ごみ捨て場からは何の応答もない。
「ねえ、君」
少年は立ち上がると、ごみ捨て場に歩み寄った。そして、ポリバケツの蓋を開ける。中には黒い服の少年が体を折り曲げるように尻から押し込まれていて、手足をばたつかせていた。
「あれ?」
少年が間の抜けた声を上げると、バケツの中の少年が睨む。
「…早く、ここから出せ」
「うん」
少年は、黒い服の少年の腕をつかみ、なんとかバケツの外へと引っ張り出した。
「くそっ、突然こんな所に押し込みやがって」
ようやくバケツから出られた黒い服の少年は、悪態をつきながら少年をじろりと見やる。
「何のつもりだ?」
「……?」
「金持ちのお嬢さんが、何の気まぐれで俺を助けたんだ?」
「僕は、金持ちじゃないよ」
その言葉に、黒い服の少年は目を見開く。
「それに、お嬢さんでもない」
「お前…」
「僕も君と同じ、路地裏の子供なんだ」
その時、商店街の大人たちが去って行った方向が騒がしくなってきた。こちらに戻ってくるようだ。
「くそっ」
黒い服の少年は背を向けて駆け出す。ふと、振り向いて少年に告げた。
「お前も今日は引き揚げろ」
そう言って去って行く黒い服の少年を見つめながら、少年はグラン・マルシェのメインストリートに出る。どこの店も、これ以上ないくらいに警戒しているのがひしひしと伝わってきた。先ほどの騒ぎのせいだろう。少年はため息をひとつつくと、やむなくグラン・マルシェをあとにするのだった。
路地裏に戻ってきた少年は、重い足取りで路地を歩いていた。ドニの顔が脳裏に浮かぶ。今頃、腹を空かせているだろう。何も持って帰らなかったら、がっかりとするに違いない。そう思い、再びため息を漏らした少年の頭に何かがあたった。少年は振り向く。だが、近くには何もない。首を傾げる少年の側頭部に、またも何かがあたる。あたって落ちたものを見ると、それは小石だった。少年は顔を上げ、付近を探す。しかし、いくら探せども近くにそれらしい人影はない。ふと、笑い声が聞こえた。そちらを見れば、路地の暗がりからこちらに歩いてくる人影がある。
「よお」
目の前にやってきてそう声をかけたのは、先ほどグラン・マルシェで会った黒い服の少年だった。
「君は…」
「さっきは助けてくれてありがとな。礼も言えずに逃げてきちまったからな」
「お礼? 今、僕の頭に石を飛ばしたのは君だよね?」
黒い服の少年はバツが悪そうに苦笑する。
「どこから狙ってたんだい?」
「ああ、あの奥にある階段の辺りだ」
黒い服の少年が指差した方向は、薄暗い路地の奥だ。ずっと奥に階段らしいものが確かに見える。だが、目視するのも大変に思えるほどの距離だ。
「どうやって飛ばしたの?」
「こいつを使ったのさ」
黒い服の少年が見せたのは、竹を削って作られたゴムパチンコだった。
「これで、あそこから命中させたの?」
驚いた表情の少年に、黒い服の少年が林檎ひとつと小さなパンをひとつ手渡してきた。
「やる。さっきの礼だ」
「いいの?」
「ああ。俺のせいで仕事ができなかったんだろう?」
「ありがとう。これでドニに言い訳がたつよ」
「ドニ?」
「うん。僕の弟なんだ」
「お前の?」
黒い服の少年はしばらく考える素振りをしたあと、
「やめとけ」
と言った。
「そいつ、どうせお前の本当の弟なんかじゃないんだろう?」
「…そうだけど?」
「なら、放っておけよ」
「どうして? ドニはまだ小さいんだ。放っておいたら死んでしまうよ」
「お前が他人のことを考えてやれる立場かよ。今日だって、結局何も盗れずに戻ってきたんだろう?」
「それは…」
「自分のことも満足に守れないくせに、他人を守ってやることなんかできるかよ。お前のそれは、ただの庇護欲なんじゃないのか?」
「庇護欲…」
「本当に守ってやりたいなら、そいつにも働かせろ。ここでの生き方ってのを叩き込んでやれよ」
「そんな。ドニにはまだ無理だ」
「なら死ぬだけだ。例えば、お前が死んだらそいつはどうなる? ひとりで生きていけない世間知らずのそいつは、次に自分を守ってくれそうな奴を探すかもしれないが、そんな奇特な奴はそうそういるもんじゃない」
少年は言葉を失った。ドニの兄が死んだことにより、自分が今の立場にいることを思い出したのだ。
「まずは、この路地裏の現状から教えてやれ」
そう言って黒い服の少年は、さらに林檎をひとつ少年に手渡すと踵を返し去って行った。
「ドニ」
呼ぶと、ドニは喜んで少年に飛びついた。
「今日は林檎とパンが手に入ったよ」
差し出すと、ドニは受け取ってすぐに口に運ぶ。
「おいしい」
そう言って微笑むドニを見て、少年は実に愛らしいと思った。そこで、先ほどの会話を思い出す。
「庇護欲、か…」
少年のつぶやきに、食べながらドニが首を傾げる。少年も林檎をかりりと齧った。
少年は、ロジェの村でのことを思い出していた。生まれてからずっと、白い化け物と罵られながら生きてきたのだ。少年は誰からも愛された記憶がない。少年はドニに自分を重ねていたのだろうか。ドニを守ってやることで、愛されなかった自分を慰めようとしていたのかもしれない。そこまで思いを巡らせた時、
「お兄ちゃん」
そう呼ばれて、少年は現実に立ち返った。
「どうかしたの?」
「いや、何でもないよ」
少年は林檎を齧りながら、ドニの頭を優しく撫でてやる。
「ねえ、お兄ちゃん。この林檎おいしいね」
「そうだね」
「いつもどこからもらってくるの?」
「この路地を出た所に大きな通りがあってね、その通りをしばらく歩くとグラン・マルシェっていう大きな商店街が見えてくるんだ」
「へえ。そこに行くともらえるんだね?」
ドニは、商店街というものを、貧しい人たちに食べ物を恵んでくれる所だと信じて疑っていない様子だった。少年は少しばかり思案したが、結局、ドニに本当のことを言うのをやめた。しかし、この選択こそが、のちに悲劇を生むことになるのである。
それは、翌日のことだった。
いつものように路地裏を出た少年は、グラン・マルシェを目指していた。昨日の通りは警戒が強いだろうから、今日は別の通りを狙おうなどと考えながら歩いていた少年は、自分のあとをついてきているドニに気づくことができなかった。
事件は、グラン・マルシェに入ってすぐに起こった。
「なんだ、このガキは!」
「路地裏の奴か?」
少年は早速ばれたのかと身構えたが、その声は自分に向けられたものではないらしい。恐る恐る振り返ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
「ドニ…」
言いかけた口を、背後から伸びてきた手に押さえられる。そのまま、路地の隅に連れていかれた。少年が振り向くと、昨日知り合った黒い服の少年がそこにいた。黒い服の少年が、口元に指を立てて「黙れ」の合図を送る。少年はドニのことが気になり、路地の隅から様子を伺った。ドニが、商店街の大人たちに何かを言っている。すると、商店街の男が、突然ドニを殴り飛ばした。ドニの小さな体が宙を舞い、硬い地面に叩きつけられて跳ねた。
「あ…!」
声を出しかけたところを、再び黒い服の少年に口を押さえられる。
動かなくなったドニを、殴り飛ばした男が引きずってどこかへ連れて行く。引きずられながら、虚ろな目がこちらに向けられたように少年は思った。
「ああっ…!」
少年は涙を流す。口を押さえていた黒い服の少年の手に、涙が道を作った。完全にドニの姿が見えなくなると、少年は少し落ち着いたようで、声を上げるのをやめた。それを見計らったように、黒い服の少年が手を離す。
「だから、俺たちの現状を理解させろと言ったんだ」
そう言いながら少年の前に回り込んだ。そこで、涙を流す少年の顔をのぞき込んだ黒い服の少年は、はっと息を飲む。
「お前…泣いているんだよな?」
涙を流しているばずの少年は、美しい笑顔を湛えていた。
唖然とする黒い服の少年を他所に、涙を拭う。そして、何かを決意したように、少年はグラン・マルシェの中を突き進んで行くのだった。




