第2章 生きるために
エルターナ国内でも取り分けて荒んでいる街の名は、ナハドという。エルターナ国の首都である。この街こそが、闇の影響を最も強く受けているのだった。
そのナハドに、ある日ひとりの少年が現れた。白髪に深海のように碧い瞳、抜けるように白い肌を持つ10歳を過ぎたぐらいの少年だ。
その少年に、名はなかった。
それは、生まれてからこれより、少年を呼ぶ者がひとりとしていなかったからである。
少年は、擦り切れた外套をまとい、フードを目深にかぶっていた。そして、薄暗い路地をひとり歩く。
狭くて暗い路地を抜けると、大きな通りへと出た。路地裏とは違い、いくらか賑わいも感じる。大通りをしばらく歩くと、エルターナ国最大の市場が見えてきた。そこはグラン・マルシェと呼ばれるアーケードつきの市場で、中に入ると迷路のように小道が走り、数百という店が軒を並べている。ナハドで…いや、エルターナ国で最も活気のある場所であった。
「このっ…待ちやがれ!」
この日も、お馴染みの声が上がる。追いかける男と逃げる少年。少年は、人混みを掻き分けて上手に逃げる。だが、グラン・マルシェの中で追われては、そう簡単に逃げ切れるものではない。なぜなら、市場の者たちが手を組み、鼠も逃がさない勢いで少年たちを捕まえようと躍起になっているからである。
「捕まえたぞ、このガキ!」
「よし! こっちに引き渡してくれ」
少年の細い腕を捻り上げているのは肉屋のオヤジだ。それを、まるで物でも投げるかのように、パン屋のオヤジに突き渡す。
「路地裏のガキどもめ。たっぷりと後悔させてやる!」
「い、いやだ! 離せっ」
パン屋のオヤジは、小麦粉の袋でも持つように少年を軽々と担ぎ上げると、小道の奥へと去って行った。
名もなき少年がパン屋の店先に辿り着いたのは、その騒動からほどなくのことである。
少年は、店の窓越しに店内の様子を伺った。使用人が数人いるが、都合の良いことに店主の姿は見当たらない。今が狙い目だろうと店の扉に手をかけた時、何かが聞こえてきた。それは、店のすぐ脇に伸びる小道の奥からのようだった。激しく何かを打ちつける音と、くぐもった、まるで人の呻き声のようなものが、少年の耳に届いた。俄かに震えた右手を左手で押さえる。そして、意を決すと、少年は目の前の扉を開けたのだった。
少年にとって好都合だったのは、店主が不在だったことに加えて店内が非常に混雑していたことだ。目の前の客に手一杯で、使用人の誰もが少年の姿に気づいていない。
少年は、扉に最も近い棚に足早に歩み寄る。そして、右手で平べったいパン2枚をつかみ、左手で手のひらに乗るほどの大きさの丸いパン2個をつかむと、すぐに踵を返して扉を出た。背後で「あっ!」という声を聞いたが、少年は振り向きもしない。ただ、一目散にグラン・マルシェの出口を目指して走った。
「誰か、そいつを捕まえてくれ!」
使用人の男が叫ぶ。その声に、辺りの店々からはぞろぞろと男たちが出てくる。
「どこだ?」
男たちのひとりが使用人に尋ねた。
「あれだ! あのガキだ!」
使用人が指で示す。だが、その時にはすでに、目で確認するのも困難なほど少年の姿は遥か先に見えていた。
運が味方したのか、または持ち前の俊足のためか、少年はなんなくグラン・マルシェを出ることができたのである。
路地裏に戻った少年は石造りの壁に背を預け、今しがた盗ってきたばかりの戦利品にむさぼりついた。平べったいパンを1枚食べ終えると、残りは外套の小さなポケットに押し込む。
ふと、傍らに目を向けた。そこには、同じ年頃の少女が横たわっている。少女の体の周りを蝿が飛びかっていた。少年は少女に近づくと、おもむろにその襟首に手をかけた。そして、無造作に少女の服を剥ぎ取る。
死体から服を剥ぐというのは、実に非人道的な行為であろう。だが、少年を咎めるどころか、非難の目を向ける者すらもそこにはいなかった。なぜなら、少年が今いる場所で動いている者は、蝿などの生物を除けば、少年ただひとりだったからである。数多の人影がそこにはあったが、みな物言わぬ死体であった。
路地の奥の奥に、ぽっかりと開けた場所がある。そこには、路地裏に住む者であっても滅多に近寄らない。この場所へ訪れるのは、死体を運ぶ時くらいである。路地裏で死ぬと、無条件でそこに放り込まれるのだ。浮浪者が集まる路地裏においても、そこは最も悪臭漂う場所であった。
少年は、そこを根城としていた。
剥ぎ取った女物の服を身にまとった少年は、フードを深くかぶり直すと、再び光の方へと歩き出した。
少年がやってきたのは、先ほどと同じ大きな通りだった。ふと見れば、小麦粉をこねる木の棒を持った男が何かを探している。少年は、その男に気づかれないように逆方向へと向かった。
「って…! このガキ、どこ見てやがる!」
不意に尻餅をついた少年は、よろよろと立ち上がる。目の前には、細身の厳つい男が立っていた。
「人にぶつかっておいて、詫びもなしか。この、路地裏のガキが!」
「ご、ごめんなさい…」
震えるような、か細い声で謝罪する。だが、男はさらに息巻いて言った。
「謝っただけで済むか!」
「あ、あの、本当にごめんなさい」
「だから、それぐらいじゃ済まさねぇって言ってんだ!」
「それじゃ、どうしたら…?」
「あ? そんなもん、お前だってわかってんじゃねぇのかよ?」
男は下卑た笑みを浮かべながら、少年を上から下まで舐め回すように見やる。おそらく、その服装から、少年を少女と勘違いしているのだろう。
「フードなんかで顔を隠しやがって。いいオンナでも気取っているつもりかよ!」
男が少年の頬を力任せに叩いた。少年の体は飛ばされ、石造りの地面に体を強かに打ちつける。その拍子にフードが脱げ、少年の顔が明るみに出た。
「な、なんだ? お前、その姿は…」
男は大げさなまでに驚いていたが、周囲を行く者もみな少年の姿に釘づけとなっていた。
「白い髪…」
昔からあらゆる国々との国交が盛んだったエルターナ国の民は、多種多様の髪色と瞳の色を持つ。しかし、白髪は非常に珍しかった。だが、男を驚かせたのはそればかりではない。
「お前、なに笑ってやがんだ!」
起き上がりかけた少年の頬に、さらに男の拳が飛んだ。少年は、再び地面に倒れ伏す。そして、起き上がった少年は、打たれた頬をさすりながら口元を緩ませた。それが、男をさらに激昂させる。
殴られては倒され、起き上がっては殴られる。それを三度繰り返した時、怒りに赤らんでいた男の顔がしだいに青ざめていく。
「なんなんだよ、お前…!」
男の声に、先ほどまでの力はなかった。
「ごめんなさい」
少年がまたも謝罪の言葉を紡ぐ。
「気持ち悪いガキめっ」
そう吐き捨てながら少年を蹴り倒すと、逃げるように去って行った。
男の怒鳴り声がやみ、それまでこちらに目を向けていた人々も、みなそれぞれの仕事へと戻っていく。関心をなくされた少年は、再び風景の一部と化した。そして、痛む体を支えるように立ち上がると、よたよたとした足取りで路地裏へと戻った。
根城に戻った少年は、ポケットを探ると小さな巾着袋をつかんだ。
「落とさなくてよかった」
つぶやきながら巾着袋の口を開ける。それを逆さにすると、幾つかのコインが手のひらに零れ落ちた。
「わ、銀貨が入ってる…」
珍しい収穫物に、少年はまじまじとそれを見つめた。
「あの人、結構持ってたんだ」
先ほど、少年を殴り倒した男のことを思う。少年が男と接触したのは意図してのことだった。余所見をしてぶつかったふうを装い、男のズボンのポケットから抜き取ったのである。
外套を脱ぎ、少女から拝借した服を脱いだ時、小石を蹴る音が聞こえた。咄嗟にそちらを見る。パン屋のオヤジが追ってきたのか、または金を盗られたことに気づいた先ほどの男かと身構えた少年だったが、すぐに肩の力を抜いた。
「…なに?」
少年が尋ねる。声をかけた先には、少年よりもずっと幼い男の子がいた。何をするでもなく、何を言うでもなく、ただ少年を見つめたままそこに立っているのだ。
「ここには来ない方がいいよ」
少年はそう言いながら、別な死体から服を剝ぎ取っては身に着けた。
「ほら、酷い臭いだろう?」
だが、男の子は何も言わない。もしかしたら、立ったまま死んでいるのではないだろうか。しかし、そうであれば何とも好都合なことだろう。重い死体を運ぶ手間が省けるのだから。死期を悟った人間が、みな自らこの地までやって来て死んでくれれば、こんなに楽なことはない。そこまで考えを巡らせた少年は、
「…そう、うまくはいかないよね」
自嘲気味につぶやいて頭を振った。
「君は、ひとりなのかい?」
男の子は答えない。相変わらず、焦点の定まらない目をこちらに向けている。少年は少しばかり思案し、巾着袋の中から銀貨を取り出すと男の子に差し出した。
「あげるよ」
男の子はわずかに銀貨に目を落としたが、それだけだった。
「いらないの?」
男の子は答えなかった。だが、次の瞬間、何かを見つけたらしい男の子の目がかっと見開かれた。男の子は少年の脇をすり抜け、たどたどしい足取りで駆け寄る。その先には、少年が脱ぎ捨てた外套があった。そこで、少年は男の子の狙いに気づく。
「そうか。お腹が空いていたんだね」
外套のポケットからは、先ほど盗んできたパンが零れ落ちていた。男の子は地べたに座り込むと、少年の許しを得ることもなくがつがつとパンにかぶりつく。少年はその様子を、特に怒ることもなく、慈しむわけでもなく、ただ何ともなしに見つめていた。
すべてのパンを食べ終えるのを待って、少年が男の子に再び銀貨を差し出す。
「これをあげるから、ここから出て行っておくれ。ここは僕の場所なんだ」
男の子は口元にパン屑をつけたままで、少年と差し出された銀貨とを交互に見つめた。
「ほら、受け取りなよ」
しかし、男の子は一向に銀貨を受け取ろうとはしなかった。
「もしかして、これの使い方がわからないの?」
男の子はうなずいた。そこで、少年は銀貨を巾着袋の中へと戻す。
「君は、今までどうやって生きてきたの?」
「…お兄ちゃんと一緒だったの」
少年は少しばかり驚いた。もしかしたら、目の前の男の子は口が利けないのではないかと思っていたからだ。
「お兄ちゃんとは、はぐれたのかい?」
「うん」
「そう」
「……」
「…一緒に探してあげようか?」
「ううん」
断られ、怪訝な目を男の子に向ける。
「その服…」
男の子は少年の着ている服を指さした。
「それ、お兄ちゃんの」
少年ははっとし、傍に横たわる死体を見やる。
「みんながお兄ちゃんをここに運ぶのを見たの。お兄ちゃん、死んじゃったの?」
「…この人は、君の本当のお兄ちゃんかい?」
「ううん」
「今までは、そのお兄ちゃんが食べさせてくれていたの?」
「うん」
「そう」
何やら思案を巡らせたあと、少年は天を仰ぎ見る。石造りの高い建物に囲まれた空は狭く、遠く、どんよりと薄暗かった。
「僕と兄弟になるかい?」
空から男の子へと視線を戻す。すると、男の子の目に輝きが宿った。
「君のお兄ちゃんから服をもらってしまったしね。それに、僕もずっとひとりだったから、弟というのには憧れたりもしていたんだよ」
「お兄ちゃん…?」
「うん。今日から僕たちは兄弟だよ。君、名前は?」
「ドニ」
「そう。よろしくね、ドニ」
そう言ってドニの手を取った少年は、生糸のように細く真っ白な髪を風に靡かせながら美しく微笑むのだった。




