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Blanche -ブランシュ-  作者: 高山 由宇
【第1部】 路地裏の子供たち
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第1章 エルターナ国

 今、世界は混沌の中にあった。

 ほんの50年ほど前のこと。小さな国々が集まってできた東洋の大陸に、小さな闇が生まれた。だが、それを気に留める者はいなかった。その大陸には、そんな小さな闇が至るところに存在していたからである。

 しかし、その小さな闇は瞬く間に膨れ上がった。周りの闇を吸収し、大きく、そして濃い、ひとつの闇へと姿を変えた。そこに至るまで、わずか3年とかからなかった。ことの重大さに気がついた時には、その闇は、もう誰にも手がつけられないほどに巨大化していたのである。

 闇の生まれた中心に、エルターナ国があった。大陸の西海岸に面した小さな国で、昔から海の幸が多く採れた。また、東の国境付近には山脈があり、山の幸にも恵まれた豊かな国だ。

 エルターナ国は、小さいながらも300年あまりの歴史を持つ王国である。

 現国王は6代目を数え、アリアノール・エルターナ・ロシュフォードという。エルターナ国においては、ファーストネームのあとに父母の姓を名乗るのが習わしであった。それは、王族にとっても同じである。前エルターナ国王である父の姓と、名門ロシュフォード家の公女であった母の姓を、自らの名のあとにつけてそう呼ぶのだ。

 その小さな国が、今では世界一の軍事国家となっていた。

 いまや、エルターナ国にかつての豊かさは見られない。闇に支配されて以降、貧しき者はさらに貧しく、一部の富める者はさらにその懐を肥やしていた。そして、庶民は、軍事費用を得るためだけの肥料としてのみ生かされている状況であった。


 薄暗い路地の隅に、ひとりしゃがみ込む幼い少女がいた。

 癖の強い栗色の髪はぼさぼさで、顔も手も裸足の足も真っ黒に汚れて、いかにもみすぼらしい姿をしていた。そんな少女に声をかける者などいない。ただ、ひとりだけ、

「エマ」

 そう言いながら、少女の方へと駆け寄ってくる少年がいた。その少年も、少女と同じように、ボロ布を体に引っかけたようなみすぼらしい恰好だった。

「お兄ちゃん!」

 エマと呼ばれた少女は立ち上がると、少年の腰に手を回して抱きつく。

「お兄ちゃん…」

「エマ、どうしたんだ? ちょっとの間、そこまで出ていただけだろう?」

「うん、でも…」

「そんなに心配するなよ」

「だって、すぐ戻るからって言って出て行ったのに、ずっと戻ってこないんだって。もう2週間になるの」

「誰の話だよ」

「いつもこの辺で見かける兄弟がいるでしょ? そのお兄ちゃん」

「…オレは大丈夫だよ。何があったって、必ず戻ってくるさ」

「ほんとう?」

「うん。エマを残していなくなったりなんかするもんか」

 そこで、エマはやっと安心したのか、少年の腰に回していた手を離した。その時、見計らったかのようにエマのお腹が音を立てた。それを聞いた少年は、くすりと笑いながらエマに手のひらほどの大きさのパンを差し出した。エマは、それを小さな両手で受け取る。

「ありがとう」

「早く食べな」

 少年は、エマを路地の隅に座らせた。そして、それを隠すように立ち、周りを警戒している。

「お兄ちゃんは?」

 エマが食べながら尋ねた。

「ああ…オレは、今日はいいんだ」

 エマは、手の中にあったパンを半分にすると、それを少年へと差し出す。

「はい、お兄ちゃん。一緒に食べよう」

 そう言って笑うエマに少年も微笑むと、差し出されたパンを受け取った。

「…かたいね」

 エマが言う。この日のパンは、幼いエマには硬すぎたようだ。

「よく噛んで食べるんだよ」

 少年が言った。

「よく噛めば、それだけお腹がいっぱいになるからな」

「それ、ほんとう?」

「うん」

「へえ!」

 そこでエマは、少年に言われたように、ひと口ひと口を噛みしめながら食べた。

 30分ほどが経ち、ようやく小さなパンを食べ終えたエマは、手のひらを頬骨の辺りに当てている。

「どうした?」

 とっくに食べ終えていた少年が、エマのおかしな行動に疑問を投げかけた。すると、エマは渋い顔をして、

「顎が痛いの」

と言うのだった。

 その言葉に、少年は笑いながらエマの頬を軽く突いた。

「でも、腹の虫は治まっただろう?」

 言われて、エマは頬から腹に手を移す。そして、こくりとうなずいて見せた。

「ねえ、お兄ちゃん」

 エマが尋ねる。

「毎日、どこからパンを持ってきてくれるの?」

「パンはパン屋からに決まってるさ」

「パン屋さんに行けば、パンをもらえるの?」

「…うん」

「それじゃあ、パン屋さんは誰からパンをもらえるの?」

「パン屋はパンをもらったりしない。パンを作るんだ」

「パンを作るの?」

 エマは目を輝かせる。

「それじゃ、毎日お腹いっぱいに食べられるのね。いいなあ」

「……」

「だから、みんなにも分けてくれるのね。パン屋さんっていい人たちなのね。今度見かけたらお礼を言わなくちゃ」

 そう言ってにこりと笑うエマを前に、少年はうつむきつつ顔を背ける。

「お礼ならオレが言っておいたから、エマはいいよ」

「そう?」

「うん」

 しばらくの沈黙が流れた。

「ねえ、お兄ちゃん」

 それを破ったのはエマだった。

「王様は、どこに行っちゃったの?」

「……」

「この国には昔から王様がいたんでしょ? 王様がこの国を守ってきたんだって聞いたの。エマはまだ会ったことがないから、会ってみたいなって思ったの」

「エマ、この国はもう…王様のものじゃないんだ」

「どういうこと?」

「王様は、たぶん、もう戻らない」

「どうして?」

「…もう、死んでいるんだ」

「え…どうして?」

「そんなこと、オレだって知らないよ。でも、みんながそう言ってるんだ」

 その時だった。

「わあぁっ!」

 叫び声が路地に響く。その後を追うように、

「このガキっ、待ちやがれ!」

と、野太い声も聞こえてきた。

 手足をばたつかせながら逃げ惑う10歳にも満たない幼い少年を、その少年の背丈ぐらいもある木製の棒を振り上げた男が追う。

 男の大きな手が、少年の襟首を捕らえた。幼い少年の体が俄に宙に浮く。そして、力任せに投げ飛ばされたその少年は、石造りの壁に背を強かに打ちつけられてうずくまった。なかなか起き上がらない様子を見ると、肋骨でも折れてしまったのだろうか。

 その姿にも構うことなく、男は幼い少年に歩み寄ると、棒を振り上げた。

「エマ!」

 少年はエマを抱き寄せ、その顔を懐に抱え込む。次の瞬間、ばきっと何かを激しく殴打する音とともに、

「ぎゃあぁぁぁっ」

という断末魔の叫びが、エマの耳に届いた。

 その声はしばらくの間、断続的に聞こえていたが、何十回か殴打されたのちから一切聞こえなくなった。

「お兄ちゃん…?」

 状況が把握できていないエマが少年を呼ぶ。エマを抱き締める少年の腕は、小刻みに震えていた。

「エマ」

 震える声で少年が言う。

「ここを離れよう」

「どうして?」

 少年はエマの問いかけに答えることなく、エマを抱えるように立ち上がらせた。エマの顔を胸に(うず)めさせたままで…。

 その翌日のこと。

 いつものように出て行った少年は、陽が落ちかけてもエマのもとに戻らなかった。

 エマは、寒さと飢えに自らの体を抱き締める。

「お兄ちゃん、遅いなあ」

 いつもなら、昼過ぎには戻ってくるのだ。こんなに長い間、少年がエマをひとりにするのは初めてのことであった。

 ふと、顔を上げる。

「あ、あの子…」

 エマがいる場所よりもさらに細く暗い路地の奥に、小さな人影が見えた。眠っているのか、うずくまったまま微動だにしない。おそらく、あの辺りでいつも見かける兄弟のうちの弟の方だろう。

「あの子のお兄ちゃんは戻ってきたのかな…?」

 少年が戻らないことに不安と寂しさを感じていたエマは、眠っている幼い少年のもとへと歩み寄った。

 近づくにつれ、少年の姿がはっきりとしてきた。それに伴い、エマの胸に得体の知れない不安が押し寄せる。

 この少年は、本当に眠っているだけなのだろうか。

「ねえ」

 エマが声をかけた。少年は、まるで動く気配がない。

「眠ってるの?」

 尋ねながら、さらに少年に向かって一歩を踏み出した。その時、

「やめな」

 背後からの鋭い声に、弾かれたように振り向く。そこには、エマの兄と同じ年頃の少女が立っていた。

「それ以上、近づかない方がいい」

 少女の言葉の意味がわからず、エマが首を傾げる。そこで、少女はエマの腕をつかんで下がらせると、うずくまったままの幼い少年に目を向けた。

「あの子は、もう起きられないよ」

「え? どうして?」

「もう、死んでるんだ」

「…死んで…?」

「ほら、よく見てごらん」

 少女は、少年の方を指差した。そこで、エマは少女と同じように少年に目を向ける。

「ただ、眠ってるだけでしょ?」

「わからないの? ほら、あの子の周りを飛び回っているものを見なよ」

 そこで、エマは目を凝らして少年を見やる。

「あ…っ」

 エマは息を飲んだ。

 うずくまる少年の周りを、無数の蝿が飛び回っていた。

「臭いにつられてきたんだよ」

「臭い…?」

「死臭だよ。生きているものが死ぬと、腐り始める。その臭いに蝿がたかるんだ。そして、ヤツらは腐って柔らかくなったところに卵を産みつけるのさ」

「それじゃ、ほんとうに…?」

「ああ。もう死んでるんだよ」

 エマは言葉を失い、二度と動くことのない少年をただ見つめていた。だが、次の少女の言葉にエマは、少年から少女へと視線を戻す。

「あんたも、これからはひとりで生きることを考えないとね」

 エマに食い入るように見つめられ、少女はエマから逃げるように視線をそらせた。

「あんたといつも一緒だった子さ…」

「お兄ちゃん?」

 少女の言葉に、エマの顔には明るさが戻る。だが、それも一瞬のことだった。

「あの子、もう戻らないよ」

「どうして?」

 少女の言葉の意味が理解できず、エマが尋ねる。少女は、うつむきがちに答えた。

「あの子の兄さんと同じさ」

 そう言って指差した先には、無数の蝿にたかられている幼い少年の姿があった。

「殺されちゃったんだ」

「え…?」

「だから、もう帰れない」

 その言葉は、エマにはまるで理解ができなかった。少年が傍にいない生活を、エマは想像すらしたことがなかったのだ。

「帰ってくるよ。今日はちょっと遅くなってるけど、お兄ちゃんは絶対にエマのところに帰ってくるもの」

「言っただろ? あんたの兄さんは死んだんだよ。殺されちゃったんだ。あたしは、それを見たんだよ」

「そんなのウソよ。お兄ちゃんが死ぬわけないもの。それに、誰がお兄ちゃんを殺したっていうの?」

「パン屋だよ」

 エマは驚いたあと、声を上げて笑った。

「そんなわけないよ。パン屋さんはいい人たちなのよ」

「パン屋がいい人?」

「そうよ。いつもみんなにパンを分けてくれるの。お兄ちゃんもエマも、パン屋さんのおかげで生きていけるのよ」

 少女は、哀れむようにエマを見たあと、厳しい表情で言った。

「あんたの兄さんは、現実をしっかりと教えてやるべきだったね」

「…え?」

「昨日、すぐそこの路地で殺された子を見たかい?」

「見てないわ」

「男の子が追いかけられていたのは? 見なかったかい?」

「それは見たわ」

「追いかけていたのはパン屋のオヤジだよ。捕まって、あんまり激しく打たれ過ぎてね…死んじゃったんだよ」

「そんな、うそ…」

「本当だよ。この世界にタダで物をくれる奴なんかいるわけがないんだ。特にこの国は、みんなが貧しさに苦しんでる。パン屋のオヤジだって、そうなんだよ」

「それじゃ、お兄ちゃんが持ってきてくれるパンは…」

「盗んできてるんだよ」

 エマが目を見開く。

「そうでもしない限り、生きていけないんだ。あたしもやってるし、この辺の子たちはみんな同じだよ」

「そんな…」

「うつむいている暇はないよ。今まで兄さんがしてくれていたことを、今度はあんたがやらないといけないんだから。生きるためにね」

「……」

「聞いてるのかい?」

「…エマは、お兄ちゃんを待つの」

 エマはそう言うと、その場に座り込んだ。

「言ったじゃないか。あんたの兄さんはもう死んだんだ。もう、帰って来ないんだよ。二度と!」

 エマは両手で耳を覆うと、立てた膝の間に顔を(うず)めた。少女はため息をつく。

「あんた…あの子と同じ道を辿ることになるよ」

 そう言うと、少女はちらりと死んでいる少年に目を向けた。それから、エマに視線を戻す。聞こえているのかいないのか、まるで動く気配を見せないエマに、少女はわずかに首を振り目を伏せた。そして、諦めたようにその場を立ち去ったのだった。


 それから幾日か経った頃、10歳を過ぎたくらいの少年が浮浪児たちの集う路地にやって来た。

 ふと、薄暗い路地の向こうに、2人の子供が横たわっている姿が見える。奥にいるひとりはすでに骨になりかけていた。手前の栗色の髪をした少女は、その体の周りに無数の蝿をたからせて死んでいた。

 少年は、それを見てもさして何も感じないようで、彼らの横を平然と通り抜けると、さらに路地の奥へと消えて行ったのだった。

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