エピローグ
「ボス、どうされたのですか?」
物思いに耽っていると、澄んだ声に現実へと引き戻された。
「昔のことを思い出していたのです」
「オプスキュリテの時代ですか」
「ええ」
「あれは、酷い時代でしたね。でも、今はもう違う。組織の名もオプスキュリテからクラルテへと変わり、みな光を求めて歩き出しています。過去のことを振り返るばかりではなく、これからどうすべきかを考えなくてはなりません。立ち止まっている暇などありませんよ」
そうきっぱりと言われ、ボスと呼ばれた青年は苦笑いを浮かべた。
「相変わらず手厳しいですね。クラリス先生は」
「あなたにはまだまだ知って欲しいこと、教えなければならないことが山積みですからね。でも、今の苦笑いは上出来ですよ」
「まさか、苦笑いを褒められる日がくるとは思いませんでしたね」
「少し前まで、あなたは朗らかな笑顔しか作れなかったのですから、苦笑いができたというだけでも大きな進歩です。できなかったことができるようになったら褒めてあげる、これが教育の基本です」
そう言われ、今度は心から笑った。
13年前、クラリスはブランシュに、「私を殺しなさい」と言った。それには理由があった。
当時、オプスキュリテのボスは、組織内にスパイがいることを疑っていたが、それは間違いではなかった。そのスパイこそ、クラリスであったのだ。クラリスはレジスタンスのメンバーで、諜報を担当していた。その諜報活動中に、ブランシュはクラリスと出会ったのである。
ボスは、連れてきた子供たちに、自分のために命を捨てることができるよう洗脳しようとしていた。そして、その過程で使い物にならなくなった子供たちを、容赦なく処分した。だが、クラリスは、ブランシュの洗脳がまだ完璧でないことを知った。今ならまだブランシュを救える、そして、もしかしたら闇を崩壊させることもできるかもしれないと思ったのだ。
そのためには、クラリスは死ぬ必要があった。ボスにとって、教育係など必要なかった。教育など名目なのだ。知恵をつけられるのは困る。ただ、人を殺すことに慣れさせようとしたに過ぎない。つまり、教育係は、ブランシュに殺させるためだけに集められたのだった。
それを知ったクラリスは、ブランシュと示し合わせて演じた。ボスを騙しきるために、ヨハンにもその計画に参加してもらった。そうした上で、クラリスは陰から、無垢で無知なブランシュにあらゆる知恵を授けていった。
「あ、そうそう。ボス、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「婚約されてから随分経ちますが、ついに決心されたのですね」
「ええ。恐れ多くて…本当に私でいいのかと、なかなか踏み出せなかったのです」
「もう。男がそんなことでどうしますか。エリザベート様があなたを選ばれたのですよ」
ブランシュももう26歳だ。そして、結婚式を明日に控えていた。相手は、ネオ・エルターナ国の第3王女エリザベートである。闇が崩壊して間もなく、歳の近い2人は婚約したのだ。
「王様と王妃様、それからセレスティーヌ様とレティシア様も、この日をどれほど待ち望んだことか」
「でも、私が王族と結婚だなんて…」
「まだ、そのようなことを言っているのですか」
「けれど、私は10年前に酷いことをしました。王様に対しても、王女様方に対しても…本来ならば厳罰に値します」
「いいえ。あなたが勇気を持って演じきったからこそ、今のエルターナ国があるのです。それに、それを言うなら私の方が厳罰ものですよ。そう行動するように、あなたに指示を出していたのですから」
「ふふ。そうでしたね」
「あなたの行動が、私の仲間をたくさん救って下さいました。そして、結果的に世界を救うこととなったのです。だから、もう少し自信を持ちなさい。ブラン」
「…はい。クラリス先生」
その時、突然に扉が開かれた。
「アル! 結婚おめでとう!」
顔を出したのはジルだ。その脇からは、ソフィ、ダミアン、ルイーズといった路地裏時代の仲間たちがそろって顔をのぞかせている。ダミアンはいまだ小さいが、闇が崩壊してから何かが吹っ切れたのか、徐々に成長を取り戻している。
「ジル、ノックをしなさい。まったく、いくつになってもやんちゃなんだから。これで、本当にブランより年上なのかしら」
「それは間違いない。俺は今年28だからな。でもさ、アルが結婚するって聞いたらいても立ってもいられなかったんだよ。しかも、相手は王女様だろ? 逆玉じゃねえか!」
ぎろりと睨まれ、ジルはとっさに口を噤んだ。あのガキ大将のようなジルも、クラリスにかかっては形無しである。
「まったく…。ここには大きくてやんちゃな子供がたくさんいて、教えがいがあるわ」
そうつぶやくクラリスと、叱られた犬のようにしゅんと肩を落とすジルとを見比べて、ブランシュは思わず声を上げて笑ってしまった。
「ジル、またクラリス殿に叱られていたのか」
そこへ、杖をつきながら現れたのは、マスターと呼ばれている白い民の族長であった。
「クラリス殿、確かにジルはまだまだ子供ではありますが、物覚えは悪くないと思っております。どうぞ、これからも厳しくしつけてやって下さい」
「はい。白い民の族長様、しかと承りました」
そんなふたりのやりとりを見て、ジルはげんなりとした表情でため息をついた。
「ブランシュ様」
この日はいつになく人の出入りが激しい。次に訪れたのは、ヨハンとナターシャであった。
「ブランシュ様、どうぞエリザベート様をお幸せにして下さい!」
すでに泣き腫らした顔で、ナターシャはブランシュの手を力強く握りしめる。ナターシャは、エリザベートの専属のメイドであった。泣きながら手を握られて困っているブランシュを見かねたヨハンが、
「ナターシャ、いい加減にしなさい。ブランシュ様がお困りですよ」
とナターシャを制する。そこで、我に返ったらしいナターシャが、慌ててブランシュから手を離した。
「も、申し訳ございません!」
「いえ、構いません。ナターシャさん、私はエリザベートさんを必ず幸せにします。エリザベートさんには明日誓いますが、あなたにも、今ここで誓いますね」
そう言うと、ナターシャはまたも顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。エリザベートとは、王女とメイドという身分の違いはあったろうが、よほど強い絆で結ばれているのだろう。
「みなさん」
改まった口調に、その場にいた人々は一斉にブランシュに向き直った。
「私は、エルターナ国の外れにある小さな村に生まれました。その頃の私には、本当に何もなかった。愛してくれる親も友人も、名前すら持っていなかったのです。それが、村を出て、ナハドに流れ着いて、そこから本当にいろんなものを得ました。ここにいるみなさんには、本当にたくさんのものを頂きました」
ブランシュは、ひとりびとりの顔を目に焼きつけるように、しっかりと見ていく。
「まずは、ジル。君には、名前をもらった。また、勇気を教えてもらった。そして、私の人生初めての友人も君だよ。それから、ソフィ、ダミアン、ルイーズ。君たちも私のかけがえのない友人だ。けれども、ジルに出会えなければ、君たちと仲良くなることはできなかったかもしれない。あの頃の私は暗かったからね。社交的なジルには、とても助けてもらった」
そのまま視線をヨハンに移す。
「ヨハンさんは、私のような子供にも丁寧に接してくれました。まっすぐに目を見て話して下さるのが、私は嬉しかった。そして、いつも冷静で、正しい道を示してくれる、理想の大人像でした。少なくともあの頃の私は、ヨハンさんの言葉や行いが間違っていると思ったことは一度もありません」
その隣で、泣き腫らした顔を両手で覆っているナターシャに目を向ける。
「ナターシャさんは、いつも優しかった。優しさを教えてくれたのはナターシャさんです。本当の優しさは強い…ナターシャさんのそんな行動に、私は本当に助けられていました」
白い民の族長を目でとらえると、マスターはふるふると首を振った。
「私には何もないでしょう。あなたとはそれほど長い時間をともにしたわけではありませんから」
「ええ。けれども、あなたは会ったばかりの私のことを信じてくれました。そして、一時的とはいえ、仲間を欺いてまで私の計画に乗ることを決断してくれた。確かに、私はあなたとそれほど多くの時間を共有してきたわけではありません。ですが、あなたがどんな人間か…少なくとも良い人なのか悪い人なのかは、あなたと長い時間をともにしてきたジルを見ればわかりますよ」
そして、最後にクラリスに向き直った。
「クラリス先生」
「なにかしら?」
「あなたへの感謝は、とてもひとことでは語り尽くせません」
「あら? まさか、ひとことで終わらせるつもりだったのかしら?」
その場に笑いが起きた。
「クラリス先生。私は、先生といると自然に笑えるんです。心から笑えているんですよ。この感情も、その感情に合った表情も、クラリス先生から教わりました。私は、先生と出会って、まっとうな人間になれたような気がします」
「まだまだよ。まだ、完成した気になられては困るわ」
「そうですね」
ブランシュは、大きく息を吸うとみなに向かって言った。
「これからだ。これから、この世界は、このネオ・エルターナ国を中心として変わっていく。みなさん、どうぞ、これからも私に力を貸して下さい。人々が、ささやかでも幸福を感じながら生きていける世の中を作るために」
「あったりまえだろう」
最初に答えたのは、やはりジルだった。その後、みなは賛同の言葉を口々に言い合う。
—そうだ、これからだ。この国は、この世界は、これからもっともっと良くなっていくのだ。僕はもう、ひとりじゃないんだ。みんなと一緒なら、必ずやり遂げられる…!
確信に似た強い想いを胸にひとりびとりの顔を見渡す。そうして、ブランシュは、形ばかりではない心からの笑顔をみなに向けたのだった。




