第3章 成果
ブランシュは、成果について考えた。
ロドルフからは、教育とは名ばかりの執拗なまでのしごきを毎日受けていた。また、食事の量は相変わらず少なく、日に日に質素なものへと変わっていった。
父は、7日ほど前にナターシャを通して言った。「成果をあげられない者に、まともな食事を摂る権利はない」と…。その言葉が意味するものを、ブランシュははかりかねていた。だが、いまだに食事を制限されているということは、父の言う「成果」をブランシュがまだあげていないということなのだろう。
唐突に部屋の扉が開かれた。ノックもなく入ってきたのはこの屋敷の主である。
「お父様…」
痛む体をおしてベッドから起き上がると、ブランシュは父のもとへと歩み寄った。
「少し痩せたか」
父は何ともなしにそう尋ねたが、ブランシュは答えられなかった。
「それとも、やつれたか」
父が再度尋ねた。ブランシュはそれに答える代わりに、父に尋ね返した。
「お父様、成果とは何ですか? ナターシャさんから聞きました。成果をあげられない者にまともな食事を摂る権利はない、と。お父様の言う成果とは何のことですか?」
「ブランシュよ。たかがメイドの名を口にするものではない。メイドに名は必要ない。その上、敬称をつけるなど、二度とするな」
「お父様…」
「ときにブランシュよ。お前はなぜそんなに手傷を負っているのだ」
「ロドルフ先生の教育が、とても厳しいものだからです」
「お前は何かやり返したか」
「やり返す…?」
「お前は、この7日ばかり、ただやられているだけであったのか」
「……」
「やられたならばやり返せば良いではないか」
父がブランシュの目をまっすぐに見つめた。ブランシュは、まるで囚われてしまったかのようにその目をそらすことができなかった。
「私は言ったはずだ。お前が私の子供であり続ける限り、お前の望むものを何でも与えよう、と。己の身ひとつ満足に守れぬような弱い子供は、私には必要ないのだ」
「それじゃ、自分の身を守ることが成果、と…そういうことですか?」
「お前に贈り物だ。受け取りなさい」
父が差し出した黒く光るものを、ブランシュはただ受け取った。それは、ずしりと重く、ひんやりと冷たい感触のものだった。それをまじまじと見つめていると、
「使い方はわかるか?」
と父が尋ねた。ブランシュは、
「いえ」
と首をふる。
「こう持つのだ」
父がグリップを握り、引き金に指をかけて見せる。
「引き金を引けば弾が出る。引く前にこの安全装置を外す。…それだけだ」
「弾が出たら、どうなるんですか?」
「壁に当たれば穴があき、貯水タンクに当たれば水が迸る。人や動物に当たれば、血を流してのたうち回るだろう」
「それって…もしかしたら、死んでしまうかもしれないんじゃ…」
「何を言う。これは、そのための道具だ」
「……」
「逃げているだけでは身を守ることはできない。どんなに逃げても、奴はお前を追ってくるだろう。ならば、息の根を止めてしまえば良いのだ。そうすれば、奴からお前の身を永久に守ることができるのだから」
それだけ言うと、父は贈り物をブランシュに託して部屋を出て行った。残されたブランシュは、今の言葉が本当に父のものなのかどうかを考えていた。父の真意が、ブランシュにはどうしてもわからなかったのだ。浮浪児として生きていたブランシュを、父は自分の子供として屋敷に招いてくれた。この時点で、父は良い人なのだと勝手に思い込んでいた。それが、今は、成果をあげられないという理由でもって食事規制を敷かれている。だが、ブランシュは、これは父の教育方針なのだと思った。子供を厳しくしつけようとしているのだと思っていたからこそ、父の求める「成果」について懸命に考えたのだ。しかし、父は贈り物と称し、ブランシュに人を殺せる道具を渡した。これでロドルフにやり返せと言う。それどころか、殺しても構わないと言ったのである。
「お父様は、いい人なの? それとも、悪い人なの…?」
そのつぶやきにこたえる者はいない。困惑の中、手の中に残された鉄の塊をただ見つめることしかできなかった。
ブランシュは、父からの贈り物を使うつもりはなかった。だが、贈り物を貰ったその次の日のこと、ロドルフが言ったのだ。
「ボスから聞いたぞ。お前は俺を殺そうとしているそうだな」
ロドルフは、いつもにも増してブランシュを痛めつけた。それは、しごきというには生易しい。半殺しといってもよいほどのものであった。
「銃を渡されたんだろう? それで俺を撃ち殺すそうじゃねぇか。やれるものならやってみろ。このゴミが!」
父から聞いたらしいが、銃を貰ったことが随分とねじ曲がってロドルフの耳に伝わっているらしい。しかし、頭にすっかり血をのぼらせたロドルフは、ブランシュの弁解を聞こうとはしなかった。あまりの衝撃に耐え切れず、ついに意識を途絶えさせたブランシュは、気がついた時にはベッドの上に横たわっていた。
見れば、傷はすべて手当てがなされていた。おそらくはナターシャの手によるものだろう。ブランシュは起き上がった。激しく体中が痛む。死にそうな生活を長年続けてきたブランシュだったが、今日ほど死を身近に感じたことはなかった。
「僕は、殺されてしまうかもしれない…」
父がロドルフに何と言ったかはわからない。だが、ブランシュに言ったように、ブランシュを殺しても構わないというようなことを言っていたとしたなら、ロドルフは嬉々として殺しにくるだろうと思われた。
サイドラックに置いていた、父からの贈り物を手に取る。冷たく光るそれを見つめながら、構えてみた。銃口の先にロドルフの姿を思い浮かべる。引き金を引く。ロドルフが血を流して倒れる。一連の流れを想像してみた。そこで、ブランシュは驚いた。銃を持つ手を見つめる。銃は、すっかりブランシュの手に馴染んでしまったかのようにその身を落ち着けていたのだ。ブランシュは銃を持ったまま立ち上がると、おぼつかない足取りで部屋をあとにした。
回廊を歩いていると、ロドルフの声が耳に届いた。激しい口調で何やらまくし立てている。その合間に女の声が混ざっている。ナターシャのものであると思われた。
「あのガキの手当てをしたのはお前だな。誰の断りを得て、そんな勝手なことをした。奴の教育のすべては俺に一任されているんだ。メイド風情が余計な真似をするな!」
「も、申し訳ございません…! ですが、これ以上は、ブランシュ様が本当に死んでしまいます」
「貴様…俺に意見しようというのか!」
殴打する音が聞こえた。その直後、
「ああっ…ヨハン様!」
と、ナターシャの声が上がった。ブランシュの位置からは見えないが、執事のヨハンも近くにおり、ナターシャに代わってロドルフの拳を受けたのだろう。
「ロドルフ様、誠に申し訳ございません。メイドの失態は私の責任にございます。私ども使用人風情が、旦那様の直属の部下であらせられるあなた様に逆らうことなどできようはずもございません。この者にはきつい罰を与え二度とこのようなことがないよう致しますので、今回ばかりはどうぞお許し下さいますようお願い申し上げます」
「ふん。爺さんの方は物分かりがいいな。だてに年は食ってないらしい。おい、女。ガキが死ぬことを心配していたようだが、それは無用だ。俺は、ボスより殺しの許可を得ている。たっぷりと弄んでから殺してやるさ」
「そんな…!」
ナターシャの言葉を遮るように、ロドルフは下卑た笑い声を上げた。そして、角を曲がり、ブランシュの方へと向かってきた。ロドルフはブランシュの姿を見止めると、わずかな驚きとともに笑いを止める。
「お前、こんなところで何をしている? まだやられ足りないのか?」
凄んで言うが、ブランシュは不思議と恐怖は感じなかった。今なら、「成果」を示せるような、そんな気がしていた。
「お前、それは…」
ロドルフがブランシュの手にしたものに目を止めた。
「そうか。ついに俺を殺りにきたというわけか」
ロドルフが血走った目を向けている。
「ゴミ風情が! 俺を殺すだと!? やれるものならやってみろ!」
そう言いながら、ロドルフは嘲笑を込めて笑った。それを見つめていたブランシュもまた、静かに微笑んだ。すると、ロドルフの笑い声がぴたりとやんだ。
「それだ、その顔…お前のその顔が気に入らない! いつもにたにた笑いやがって! このゴミが!」
ロドルフが拳を振り上げた。だが、それは振り下ろされることはなかった。
「え…?」
その声を最後に、ロドルフは床に崩れ落ちた。
「ブランシュ様?」
騒ぎの様子を見に顔を出したヨハンは、その光景に息をのんだ。そして、背後にいるナターシャを手で制している。
「ヨハンさん、大丈夫ですか? 口元から血が出ているみたいですけど」
「ブランシュ様…」
ブランシュは普段と何も変わらなかった。世間話でもするかのように、真っ赤な血に染まった床を、水音を立てながら平然と歩いてヨハンの方へと向かってくる。
「ヨハンさん、床を汚してしまってごめんなさい」
「いえ、それは…どうぞ、お気になさらないで下さいませ」
「ヨハンさん、もしかして、僕のことが怖い…?」
そう尋ねたのは、有能な執事であり、どんな状況にも顔色ひとつ変えないヨハンの動揺を感じ取ったからだった。
「いえ、滅相もございません。ただ、今の状況に、少しばかり似つかわしくないと思ったのでございます」
「……」
「ブランシュ様はいつも朗らかに笑っておられて、私ども使用人の間でも、なんと麗しいお顔をされるのかと大変に評判が良いのでございます。ですが、このような状況においてまで見られるとは思わなかったのです」
「僕…また、笑ってる…?」
「……」
「僕は、ロドルフ先生を殺してもいいとお父様から言われて、この贈り物を貰ったんです。でも、使うつもりなんてなかった。けれど、ロドルフ先生は僕を殺すつもりだと言った。僕の手当てをしてくれたナターシャさんを責め、ヨハンさんを殴った。お父様の言ったとおり、殺さなかったらいつまでも追いかけてくる…そう思ったから、だから、殺すしかないと思ったんです」
「ブランシュ様、いち使用人である私への弁明など無用にございます。旦那様が許可し、あなた様が実行に移した。私の役目は、何ごともなかったかのように後始末することのみでございます」
「これで、僕は成果をあげることができたのかな…?」
「おそれながら、私にはわかりかねます」
「……」
「さあ、ブランシュ様。そろそろお部屋に戻られた方が良いでしょう。傷もまだ癒えていないご様子でございますので、のちほどご昼食とともにメイドを行かせましょう」
ヨハンの言葉に従い、ブランシュは部屋へと戻った。それから間もなく、ナターシャが昼食を乗せた台車を押しながらブランシュの部屋を訪れた。その日の昼食は、この8日あまり続いた食事とは比べようもなく盛大であった。豪華で、種類も豊富であり、かつ食べきれないほどの量である。
「すごい…」
屋敷にきて初めてその料理を目にした時のように、いや、それ以上の感動がこの時にはあった。
「これは…僕は、成果をあげられたということなのかな」
ナターシャを見る。彼女はブランシュから目を背け、わずかに顔を引きつらせた。
「ナターシャさんは、あの場所にいたんだよね。僕を酷い奴だと思った?」
「いえ、そんなことは…」
ナターシャは首を振った。
「ロドルフ様は、ブランシュ様を殺すつもりだとはっきりと仰いました。ですから、これは、仕方のないことだったのだと思います。そして、この食事…ブランシュ様は、旦那様のご意向に沿った成果をあげられたのでしょう。ですが、あれが成果とは…」
ふと、ナターシャがはっとしたように口元を両手で覆った。
「いえ、今のはどうか忘れて下さいまし。私ごとき使用人が、旦那様の胸の内を推し量ろうなどと…出過ぎた真似を致しました。どうぞお許し下さいませ」
その後は黙々と昼食の支度にとりかかり、食器をすべて並べ終えると、
「さあ、お召し上がり下さいませ。昼食が済みましたら、傷の手当てをさせて頂きます」
と言って壁際まで下がる。そして、まるで置物のように動かなくなった。こういう食事風景にもだいぶ慣れた。ブランシュは、濁りけのない澄んだスープを胃の中へと流し込む。その温かさが全身に染み渡り、傷の痛みも幾分か和らいだように思えた。スープで喉を潤すと、ブランシュは久方ぶりの豪奢な食事を心ゆくまで堪能した。