第三章7
一九四九年九月二十日。
「先程は突然失礼なことを言ってしまい、本当にすみませんでした……」
シャローム学園の図書館の一角でクリスは小さく頭を下げた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。こちらこそオーイシアまで連れ出してしまって申し訳ない」
謝られたS中佐は足を組んだままインタビュアーに慈愛に満ちた微笑を返す。
「今朝カモ自治区に来る途中のことは聞いています。本当に大変でしたね」
「ありがとうございます」
クリスは最後にS中佐にグリンゴールド中佐への伝言を頼めないかと口にした。
「なんでしょう?」
快諾されたクリスは表情を綻ばせ、唇の間から白い歯を覗かせて微笑む。
「こう伝えてください。『私はグリンゴールド中佐のことを裏表の一切ないとてもとても素晴らしい人だと思っています』と」
「ありがとうございます」
椅子を立ったS中佐は、まるでそう伝えられたサブラ・グリンゴールド中佐本人であるかのように嬉しそうな様子だった。
「必ずご本人にお伝えします」
「宜しくお願いします。それでは」
インタビューを終えたクリスは一礼してS中佐に背を向け、図書館の中を歩き始める。
「今なら倉木マツリの気持ちがわかる気がする……」
巨大な本棚の前を横切りながら、誰にも聞こえないような小声でクリスは呟く。
マツリが心底憎んだ人々は世界と戦う苦痛を嫌がり、例え世界が歪み、狂っているものとわかっていても自分を曲げて世界を受け入れた。だが彼女は揺るがぬ正気を持って、理不尽でどうしようもないこの世界と真正面から戦ったのだ。
やがてマツリは戦ううちに歪んでしまった自分と、自分の行動に恐怖を覚えてしまった。だから彼女は魂の極限に行きつき、そこで出したギリギリの妥協案として正気でも狂気でもない、公平な立ち位置のサブラに自分を『除去』させたのだ。
マツリは紛れもなく正気だったし、ある意味では他の誰よりも現実を見ていた。
何故なら歪んだこの世界には絶対に勝てないことを潔く認め、サブラに殺されることで負けないという結末を選択できたのだから……。
「クリス!」
自分なりに倉木マツリの目的と心中を考察したクリスが図書室から廊下に出ると、そこには間借りしたシャワーで血と硝煙を洗い流したキャロラインが待っていた。
「お疲れ様」
相変わらずレディーススーツを見事に着こなす民間軍事企業ダークホーム社の最高責任者はクリスに労いの言葉をかける。
「別に疲れてなんていませんよ」
素っ気ない態度でツインテールを解き、憑き物を払うかのように髪を振るうノンフィクション作家を見てキャロラインは怪訝な表情になった。
「アンタ、『なんで嘘をつくんだ?』ってサブラを問い詰めるんじゃなかったの?」
「そんなこと言いましたっけ?」
冷めた様子でクリスは首を傾げる。
「取材を通して友情を結んだキャロラインさんに『私は、ほんの少しだけでも外の世界の人達が地球の裏側で起きていることに関心を持ってくれたらいいなと思って本を書いた。でも変わったのはアルカを見世物小屋か何かと勘違いしたお金持ちのミリタリーオタクがわざわざやってくるようになっただけで、こんなことしない方がまだマシだった……それでも自分にできることがしたい』と相談なんてしてませんよ?」
「アンタ……」
「S中佐を問い詰めもしてないし糾弾もしてませんが、それが何か?」
絶句するキャロラインに対してクリスはくすくすと笑う。
「キャロラインさんは『死んだ側のために生き残った側の自分が何をしたらをいいか考えなさい』って私に言いましたよね。だから私なりに考えてみたんです」
横目でキャロラインに突き刺すような視線を送りながら、クリスは楽しげにリノリウムの床を闊歩する。
「その結果、こう考えました――『アルカ学園大戦を外の人々に伝える唯一の担い手になろう。その上で真実を封印し、バカバカしい嘘を真実として彼らに与える。そして私は彼らの見えないところで、彼らが嘘を真実と勘違いしている様子を見て笑おう』と」
クリスは前髪の間から覗く目でキャロラインを睨み付けた。
「アルカで戦った人達はみんな苦しんで、絶望して、死んで……私は、その人達の苦しみや絶望をそのままで終わらせたくはなかった。それは自分勝手な偽善かもしれない。でも自分にできる何かがしたかった。だから本を書いた。さっき言った通り、私の書いた本を通して外の世界の人達がほんの少しでもアルカで起きていることを知って、考えてくれるようになったらいいなと思った。だけどそうはならなかった」
血が床に滴り落ちる程強く唇を噛み締めてクリスは続ける。
「私は許さない……どんな理由があろうが絶対に許さない……みんなが味わった悲しみや絶望を笑いのタネにして、見世物みたいに扱った奴らを絶対に許さない」
「だからアンタはサブラが嘘をつくとわかってて今まで話をしてたの……?」
「キャロラインさんは三つ間違っています」
一つ――さっきまで私が一緒にいたのはサブラ氏ではなくS中佐です。
二つ――私はS中佐とお話するのではありません。S中佐のお話を聞くだけです。
三つ――どう考えても、どう見ても同一人物としか思えませんが、S中佐とサブラ・グリンゴールド中佐は決して同一人物ではありません。
そう説明し、嘲笑で顔を歪めたクリスの頬にキャロラインの拳がめり込む。
「甘ったれのバカ弱虫!」
口いっぱいに銅貨のような味を広げて倒れたクリスを見下ろすキャロラインの息は荒く、肩は上下していた。目尻には涙さえ溜まっている。
「随分と嫌われてしまったみたいですね……でも、あまり悪い気持ちはしません。むしろ心地良ささえ感じています。何故だと思いますか?」
クリスはよろよろと立ち上がり、自分で言葉を紡ぐ。
「それはきっと、貴方から向けられる剥き出しの悲しみが私の罪を思い出させるから。そして良心の呵責に苛まれる度、私は私のアルカに対する愛を実感できるから」
口元を歪めたクリスは下からキャロラインの顔を突き上げるようにして覗き込む。
「とうとう一線を越えたわね」
キャロラインの目元が引き攣る。
「アンタは生きるに値しない正真正銘の酸素泥棒に成り果てた……!」
一線を越えて向こう側へ渡った少女は「嬉しい……褒めて頂けるなんて……」と愉悦に口元を緩めて自らの胸に手を置く。
心底嬉しそうに頬を染める彼女の名はクリスティーナ・ラスコワという。
アルカにおいては取るに足らない存在である人間の屑ではなく、悪意によって悲惨な戦争の真実を馬鹿馬鹿しい嘘へと作り変えることにオーガズムさえ覚える、浅ましくも人間の生皮を被った、過去に例のない、ぐうの音も出ない程の畜生であった。
「ねぇ、キャロラインさん?」
絶句して立ち尽くすキャロラインの顎に白く細いクリスの指が這う。
「貴方は知らないかもしれないけど、実際に起きた『現実』こそが如何なる作り話よりも恐ろしい『物語』なんですよ?」
嘲笑うかのような目つきで、
「だってイスラエルは」
不敵な笑みを浮かべ、
「アゴネシアの子供達を非合法かつ非人道的な手段で殺人マシンに仕立て上げて」
クリスはすっかり青ざめた元PSOB‐SAS隊員の耳元で囁く。
「アルカ学園大戦に手軽に使い潰せる消耗品として投入したんですからね」
「アンタがもう引き返せない場所にいるのはわかった……」
振り払うかのようにクリスを突き飛ばしたキャロラインは心の底から凄まじい勢いで噴き出してくる絶望を何とかして押し込める。
「でもこれだけは、これだけは教えて。どうしてなの!?」
そして震える声でクリスに訊いた。
「今まで自分が大事にしてきた『自分』が本当の自分でないことに気付いたんです」
そう答えたクリスはキャロラインの眼前で跪き、恍惚の表情で彼女を見上げる。
「それに悪魔から逃れようとする人間程、醜く忌まわしいものはこの世界に存在しないのですから」
もはやクリスの双眸には理不尽な世界に対して湧き上がる怒りも、無力感に苛まれてなお前に進もうとする情熱も存在してはいなかった。
そこにはただ、底知れぬ深い闇が広がっていた。