第一章2
今でこそアルカと呼称されているが、山形県は日本という極東の島国の中にあって、夏の暑さと冬の寒さが揃って厳しいことで知られていた。もう九月の末に差し掛かるというのにセミは延々と鳴き続け、熱せられた土と草は香しい臭気を空気に混ぜ込んでいる。
そんな噎せ返るような暑さの中、民間軍事企業ダークホーム社の車列がトランシルヴァニア学園のあるアルカ南東部のフェルニゲシュ・コシュティから西部のツルオカスタン・カモ自治区に向けてハイウェイ112を進んでいた。
「死の影の谷を行く時も私は災いを恐れない」
先頭を行くジープの車上でM2重機関銃のレバーを掴みながら周囲に目を凝らすダークホーム社のPMC隊員が旧約聖書の一篇を引用すると、
「貴方が私と共にいて下さる」
後方を行く別のジープのハンドルを握る同僚が紡いだ。彼だけでなくジープの助手席や後部座席に腰掛けているPMC隊員達は揃ってサングラスで目元を隠し、夏用学生服の上にチェストリグ(注1)を羽織っていた。膝の上にはルーマニア製のAK47自動小銃が安全装置を外し、いつでも撃てる状態になって置いてある。
前後を一台ずつのジープに守られて中央を走るのは防弾仕様の白いワンボックスカーだった。この車両の中にいる人物をあらゆる危険から守り抜くことが、ダークホーム社のPMC隊員達が高給で雇われて今ここにいる理由である。
「昨日未明、ガーランド・ハイスクールの第五学生寮におきまして、女子生徒が別室の男子生徒に顔面を食い千切られる事件が発生しました」
ワンボックスカーの助手席に腰掛けたクリスはガレイ・ツァハルと呼ばれるシャローム学園のラジオ放送が流すニュースを耳にする。
「男子生徒は駆け付けた公安委員の制止を無視し、その場で射殺されたとのことです。また他校の情報筋によりますと、男子生徒は死亡するまでに十五発もの弾丸を撃ち込まれ、被害に遭った女子生徒は鼻と左目を完全に失ったとのことです」
クリスの隣で赤髪の少女が口笛を吹く。
「地獄が満員になったのかしら?」
ワンボックスカーのハンドルを握るキャロライン・ダークホーム――その名の通り、民間軍事企業ダークホーム社の最高責任者である――は楽しげに呟く。
「あんまり気にしちゃだめよ」
冗談に反応がなかったので、髪をポニーテールで纏め、レディーススーツに身を包んだキャロラインは助手席に座る少女が今最も気にしているであろう話題に切り替える。
「本を読んだ連中がそう思っているだけ。アンタは気にすることないわ」
今年……一九四九年の八月にスレッジハンマーブックスから出版されたクリスのノンフィクション小説『ウサギの穴に落ちて』は見世物に近いエンターテイメントとしては本国の人間達に高く評価されたものの、専門家の間からは事実と称して真実を歪曲し戦争を面白おかしく描いた悪辣なドキュメンタリーもどきと酷評され、クリスはそのことについて強い後ろめたさと負い目を感じていた。
「わかっています。お金を払って買ってもらっている以上、作者は読者の受け取り方に文句を言えないんです」
心の底から何とか捻り出すようにしてクリスは声を発し、今度は自分の懸念を口にした。
「でも、本当に『中佐』と揉めるようなことをして良いんですか?」
「どうせあの『中佐』とはビジネスだけの付き合いよ。本当の友達じゃない。ぶっちゃけて言えば仕事の時以外は死んでも顔を合わせたくない」
「じゃあ……私は?」
キャロラインが「本当の友達よ」とウィンクを返した時、
「おい! モサドのワンボックスカーだ!」
「半袖にされちまうぞ!」
「長袖かもしれないぜ?」
半笑いの若い声が窓外から聞こえた。
舌打ちしながらキャロラインがワンボックスカーの車外を覗くと、別の民間軍事企業のPMC隊員に守られながらアルカを観光する本国の若者達がいた。タイやフィリピンで作られたレプリカの迷彩服に包まれた彼らの情けない体は極端な細身か肥満体のどちらかで、地面に転がった頭蓋骨を手に取ってご満悦の表情を浮かべたり、錆びた空薬莢を持ってきたビニール袋に土ごと押し込んだりしている。挙句の果てにはPMC隊員に軽々しく声をかけ、「俺のこの迷彩服、実物なんだぜ?」としたり顔で言い放っていた。
「ボス、あいつらを撃っても良いですか?」
部下からの無線連絡を受けたキャロラインは一瞬言葉に詰まる。正直なところ『高い金を払って戦場でファッションショーをやるカマ共』を撃ってやりたかったからだ。
「あの人達をここに招き入れたのは私にも責任がある。だけど私はあの人達のために本を書いたんじゃない」
キャロラインが部下に撃たないよう命令した直後、助手席から心底苦しげな声が漏れ聞こえてきた。
「何がモサドのワンボックスカーだよ……何が半袖だよ……長袖だよ……何も……何も知らない癖に……人を誘拐したり、手足を切ることの何が面白いんだよ……」
「アンタはホントに人間よね」
ハンドルを操作しつつ、キャロラインは横目でクリスを一瞥する。
「だってさ、キッパリと『こういうものだ』って割り切れないんだもん。でもね、アンタがどれだけ自分を責めたって、歩兵連隊の構成内訳を暗記して空で言えることを社会的常識だと勘違いしてる本国の馬鹿で間抜けで救いようのないミリタリーオタク共は自分で調べも考えもしない。ただ与えられたものを読んで、何の疑問も抱かず、その上っ面だけを全てと判断して笑うだけ。残念だけどそれが現実よ。変わらないわ。とはいえ――」
そこまで言ってキャロラインは急ハンドルを切った。
「クリス!」
運転席のすぐ目の前をロケット弾の白煙が横切っていく。
「アンタはうじうじと悩む前に自分がヤバい立場にいるってことを自覚しなさい!」
危うく横転しかけながらもワンボックスカーが土煙を上げて停車すると、道路から数十メートル離れている少し盛り上がった土手の陰から、シュマグ(注2)で顔を隠したヴォルクグラード超国家主義派の生徒達がぞろぞろと姿を現した。
「真実を歪め、同志達の死を利用して私腹を肥やす者を許すな!」
プロトタイプと呼称され、戦争を行うためだけに作られた少年達は怒りの声を上げる。
「クリスティーナ・ラスコワを殺せ!」
同じプロトタイプであるクリスの著書の中で否定的に描かれたソ連の代理勢力ヴォルクグラード人民学園の生徒達は錆び付いたAK47自動小銃をワンボックスカーに向け、フルオートでの激しい集中射撃を浴びせる。瞬く間に土と草の香りはソ連製コルダイト火薬の耐え難い悪臭で覆い潰されてしまった。
「車から引きずり出し、奴の誇りを暴力と男の力で汚してやれ!」
銃弾に抉られて火花を散らす度、ワンボックスカーの車体は強い衝撃で揺れ、剥離した白い破片を周囲に飛び散らせた。防弾板で跳ね返った銃弾が勢い良く地面に突き刺さり、小さな石や土の破片を巻き上げる。
「ん?」
何の前触れもなくヴォルクグラード超国家主義派の兵士達は轟音を耳にした。
「この音は何だ?」
低く重厚なそれは、ジェット戦闘機のエンジンから発せられるものに酷似していた。
「別にクリスを殺しても構わないわよ」
そしてダークホーム社のPMC隊員と同じく学生服にチェストリグという出で立ちの若人らは、自分の視界の隅に青い粒子の輝きが走ったことに気付く。
「その前にアンタが死ぬけどね」
直後、一人の喉に刃が突き立てられた。病的なまでに磨き上げられた切っ先が一瞬にして皮膚を突き破ると、AK47自動小銃が力の抜けた手から落ちる。
一秒にも満たない時間で刃が相手の動脈に達した感触を掴んだキャロライン・ダークホームは上半身を大きく捻り、右フックを繰り出すようにして兵士の喉を切り裂く。気持ち良いぐらいにぱっくりと裂けた傷口から鮮血が勢い良く噴き出した。
「まさかヴァルキリーがいるとは思ってなかったでしょう?」
身に纏った濃緑色のマナ・ローブを返り血で汚しながらキャロラインは言う。彼女は多大な犠牲と共に世界の枠組みを一変させた隕石内に含まれていた未知のエネルギーとの親和性を持つ、少数の女性プロトタイプだった。
「華麗にアルカの空を舞い、戦闘機と戦車を人型サイズで両立させた異次元の存在として多くの死と破壊を戦場にもたらしてきたアタシがここにいるだなんて」
青ざめたヴォルクグラード超国家主義派の兵士達は大慌てで射撃対象をワンボックスカーから左右に翼が伸びる飛行ユニットを背負ったキャロラインへと変更した。
腰だめで銃をぶっ放す兵士の右後方で別の兵士が米国製のM1バズーカを構えた瞬間、ブラックボックス化されたオーバーテクノロジー兵器であるマナ・ダガーの刃を振り上げて上空から降り立ったキャロラインにより砲身ごと右腕を斬り落とされた。一拍遅れてその切断面から夥しい量の鮮血が噴き出す。
「クソッ!」
前に立っていた兵士は振り向いて手にしたAK47自動小銃の銃口を返り血塗れのキャロラインに向けるが、トリガーを引く前に銃身を切断された。飛び散った火花が消えるよりも早くキャロラインは衝撃で後方に後ずさる兵士の背後へと回り込み、後ろ髪を掴んで生贄の羊宜しく頭をぐいと後ろへ引き、刃を喉に突き入れた。
「……ッ……ッ」
大きく気管を裂かれたせいで呼吸ができなくなり、叫べない敵兵の身体から、やがて完全に力が抜けた。絶命したのだ。
「畜生!」
最後の兵士が連射していたAK47自動小銃が突如弾詰まりを起こす。彼は毒づいて弧を描くマガジンを外し、銃本体右側の赤錆びたチャージングンドルを何度も引いて詰まった弾丸を抜こうとした。
「アタシを殺したかったらイズマッシュ(注3)の純正品を定価で買いなさい」
キャロラインは地面を蹴って肉薄、
「どうせダッラ村(注4)あたりのデッドコピーでしょ!」
最後の兵士が叫びながら繰り出した木製ストックによる一撃を頭頂部の数センチ上で切り抜け、一回転して相手の心臓に右手で握ったマナ・ダガーを突き立てる。何度か痙攣し、目尻から泡だった涙を流して兵士は死亡した。
「ちょっとヤバいかもね……これ」
白い頬を死者の血液で赤黒く染めたキャロラインはゆっくりと開くワンボックスカーのスライドドアに青い瞳から伸びる視線を送った。
「戦闘は……」
剥げた塗装跡だらけの扉からクリスが車外に出ると、埃と煙が大気を満たしていた。
「――ッ」
キャロラインが「横を見るな!」と大声を上げる前にクリスは言葉を失う。
自分の靴の下にある湿りから横に視線を進めていくと、そこにはダークホーム社のPMC隊員とヴォルクグラード超国家主義派の死体が何体も血の池の中に揃って転がっている地獄絵図が広がっていた。死体の手足は明らかに不自然な角度で曲がり、傍らにはお互いの得物であるAK47自動小銃やその金属製部品が乱雑に散らばっている。
「そんな……」
クリスは立ち尽くし、言葉を失う。
死体を見るのは初めてではない。取材の中で何度も目にしてきた。しかし、自分のせいで作られた死体を見るのは初めてだった。
「私のせいだ……私が……本なんて書くから……」
自分が『人を殺す』という越えてはいけない一線を越えてしまったことを悟り、呆然と口を半開きにしたクリスはどうにかしてその事実を受け入れようとした。
一線を越えるつもりはなかったという言い訳は通用しない。
殺された側からすればそんなものは生きている側の自己陶酔に過ぎないのだから。
ただ不思議と涙は出なかった。悲しいという感情もなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
棒立ちになったクリスはうわ言のように何度も謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「別に生き返るわけでもない。謝らなくたっていいわよ」
背後から赤髪の少女に声をかけられてクリスは振り向く。
「アンタはただ、死んだ側のために生き残った側の自分が何をしたらいいかを考えなさい」
キャロラインからそう言われた瞬間、クリスの瞳の中をどす黒いものが走った。
注1 前掛け式の予備マガジン入れ。
注2 中東におけるスカーフ。
注3 AK47自動小銃を生産しているソ連の銃器メーカー。
注4 アフガニスタンとパキスタンの国境近くにある村。世界有数の武器密造地。