第三章3
「死者は我が方だけで三百人以上。一般生徒の犠牲はその三倍に及ぶ模様です」
「今まで指揮系統の喪失から遊兵と化していた正規軍の各部隊がこの暴動に呼応して我々に対する攻撃を開始しました」
「タスクフォース508、542、547がサカタグラードに向けて進撃中」
ヴォルクグラード人民学園の生徒会室に暗澹たる報告が矢継ぎ早に入ってくる。それを耳にしたマリア・パステルナーク……の顔をしているだけのヴァルキリーは強い不安感と締め付けられるような胃の痛みを覚えた。
「パステルナーク大佐、アゴネシアにある旧マリア派の拠点が壊滅しました」
「サブラ! 貴様今まで何をしていた!?」
本名をマーシャ・パプキーナというどこの馬の骨とも知れないヴァルキリーは顔の半分を血の滲んだ包帯で覆い、折れた右手を白い三角巾で首に吊るしている黒髪の少女が部屋に入ってくるなり割れんばかりの怒声を彼女に浴びせ掛けた。
「加えてシュネーヴァルト学園のタスクフォース609が貴方を抹殺すべくこちらへ向かっています」
「そんな……私は……私はどうしたら……」
パプキーナはドラケンスバーグ学園の学生服に身を包んだ傷だらけのサブラが冷静に告げた言葉で数秒のうちに胸中の怒りを再び恐怖と不安に戻す。
「貴方は命を奪われるだけではなく、再び何者でもない存在に戻ってしまうでしょう」
顔に幾つも青痣を作ったサブラはいつも通りの冷静な口調でそう告げた。
「何者……でもない……」
その直後パプキーナの身体が目に見えるほど激しく震え始めた。本来は自分のものではない琥珀色の瞳から涙が溢れ出し、彼女は覚束ない足取りで生徒会室の椅子に崩れ落ちる。そして両手で顔を押さえながら足をばたつかせた。
「何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない」
病的な調子で言い放つパプキーナの脳裏に自分がマリア・パステルナークとなる前の忌まわしい記憶が蘇る。
大した任務をこなせていないのにも関わらず、単に人事担当の上官とよく食事をするという理由だけで重要な作戦に選ばれたクラスメイト。
「何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない」
自分はそんなことはしない、純粋な自分の実力だけで上へ進んでいくと決意した一方でその実力が伴わず、心のどこかで誰かが助けてくれるという甘い考えを抱いたままどんどん後輩達に追い越され、気付いたら後方勤務へと回されていた惨めな現実。
「何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない何者でもない」
周囲から明らかなお荷物扱いを受ける毎日の中でパプキーナはこのまま『何者にもなれない』状態で年齢だけを重ねていったら、自分を待っているのは死よりも暗い未来なのではないかという恐怖に駆られ、同時に精神を蝕まれていった。
「ご心配なく」
椅子の背もたれに左手をかけたサブラは人為的に作られた顔を覆う指の間から脂汗を床に滴らせるパプキーナの耳元で囁く。
「確かに今の貴方は極めて不利な立場に立たされています。しかし私の指示通りに動いて頂ければ、貴方はこれから先もずっとマーシャ・パプキーナではなくマリア・パステルナークとして賛辞と羨望に満ちた毎日を生きていけます」
「教えてくれ!」
パプキーナは跪いてサブラのスカートを掴んだ。
「どうすればいい!? 教えてくれ!」
「簡単です」
腰を降ろしてパプキーナと目線を同じくしたサブラは震える彼女の手を自らの左手で握り締め、お互いの胸の位置まで持ち上げる。
「ヴォルクグラード防衛評議会の全部隊をサカタグラードから脱出させ、その戦力を用いてショナイ平原に展開するヴォルクグラード人民学園の正規軍とシュネーヴァルト学園のタスクフォース609を打ち破るのです。そうすれば、ソ連本国は貴方にまだ学園の運営能力があると判断するでしょう」
「そうか……BFで勝ちさえすれば……勝ちさえすれば……!」
視線の定まらない目をしたパプキーナは「ありがとう! ありがとう!」と感謝の言葉を連呼してサブラの手を強く握る。
パプキーナはマリア・パステルナークの姿をした自分が、人の姿をした悪魔と握手したことに気付かなかった。




