第三章1
それはマリア・パステルナークが再びアルカに現れる一か月前の出来事だった。
燦々と輝く太陽に照らされるアゴネシア某所の川に面した村に一隻のサンパン(注1)が近付いてくる。
「船が来るなんて聞いてないぞ」
カタツムリのようにゆっくりと進む半円形の低い屋根を備えた小型船を川沿いの監視塔で見つけた青年――昨年、アルカを脱出してここへとやってきた旧ヴォルクグラード人民学園マリア派の生徒――はレンズ汚れの酷い双眼鏡を降ろし、下の桟橋を警護する自分よりも若い現地民の村人達にサンパンが近付いたらお前達の手で検めろと命令した。
「どうせどこかの馬鹿だろう」
かつてマリア・パステルナークが秘密裏に行っていたビジネスに協力することで巨万の富を得、彼女の死亡後もヴォルクグラード人民学園を通じて同地にアヘンを送り続けているこの村にはしばしば招かれざる客が訪れるのだ。
「よぉ。ご苦労さん」
桟橋でゆっくりとサンパンが停船するなり、浅黒い肌の船長がその中から現れる。彼は村民達からPPSh‐41短機関銃の銃口を向けられたが、臆する様子もなく油染みた書類を彼らに手渡した。
「中を見せろ」
「女達だ。村長が一ダースほど連れて来いと」
独特な訛りを言葉の端々に滲ませる船長は正式に村長のサインが書かれているにも関わらず書類の内容に納得できない様子の村人達の要望通り、薄汚いビニールシートを持ち上げて船内を見せた。
「女だ」
「ああ女だ」
「おいおい、大事な『商品』なんだぞ。手荒に扱うんじゃない」
「何人か融通しろ」
煙草のヤニで黄ばんだ前歯を覗かせつつ、村人の一人が船長に頑強なことで知られるソ連製短機関銃の四角い先端を向ける。しかしその安全装置は掛けられたままだった。
「しょうがないな。わかったよ」
「話のわかる奴は大好きだ」
予定調和的に銃口を下げた村人は声を上げて笑い、嬉しそうに船長の肩を叩く。
次に別の一人が「それにしてもあんた酷い訛りだな。どこの生まれだ?」と悪気のない様子で聞いた。それが始まりだった。
「エルサレム」
途端に無表情になった船長が両手を後ろに回し、ズボンの後ろから引き抜いた二十二口径の拳銃で三名の村人と監視塔上のプロトタイプ一名を射殺した時間は合計で僅か二秒にも満たなかった。
「行くぞ」
易々と八メートル前方の壁に打ち込まれた釘の頭を拳銃で撃って埋め込ませることができるユダヤ人の一団はサンパンから出るなり女物のカツラを投げ捨て、船長と同じ二十二口径の拳銃だけを手にして村へと侵入していく。そして殺戮の限りを尽くした。
プスン、プスン。
プスン、プスン。
プスン、プスン。
マリア・パステルナークの銅像が置かれた村のどこかで気の抜けた銃声が響くたび、直後にアゴネシア人の絶叫や悲鳴が木霊する。ユダヤ人達の手にした拳銃に使われている弾丸は通常よりも火薬量が減らされ、射程が短くなってしまった一方で消音装置を付ける必要がないほどに発射音が小さくなっていた。
「なんでお前らが殺されるかわかるか?」
女物の服を身に纏い、顔を返り血で汚したとあるユダヤ人はたった今目の前で家族を殺された子供の額に銃口を押し付けて問う。
「わからないよ……」
ユダヤ人は躊躇なく眼前の光景に恐怖して体を震わせる子供の頭を撃ち抜いた。
「それは俺達がユダヤ人だからだ」
注1 東南アジア等の沿岸や河川で用いられている小船。




