第二章7
「なるほど旧マリア派の残党ねぇ」
「楽しそうに言わないでよ」
今度は自分でキューベルワーゲンのハンドルを握るエーリヒはノエルと話ながらボーダーランドへと向かっていた。特に確証があって、意図せずアルカに誕生した事実上の非武装地帯に向かっているわけではない。ただノエルが淫靡と享楽溢れるあの場所でなら何らかの情報が得られるのではないかと提案したからだ。
「エリーはあんまり気乗りしないみたいだね」
「当たり前だよ。あんな場所に……だけど、『それは気の遠くなるような作業だった。何千人、何万人という候補者の中から、ある一人の人物と同じものを探し出す作業』――ドクター・ハビロフが言ってたことだって何を指すのかまだわかっていないんだ。仕方ない」
「むー」
ノエルはたすき掛けになったシートベルトの帯で豊満な胸を押し出しつつ、「今回現れたあのマリアと戦って私の感じた違和感がどこにあるのかなって今考えてみたんだよ」と車中で長い足を組む。
「そしたらね、声が昔のマリアと違う気がしたんだ」
「声……か」
心に引っ掛かるものを覚えつつもエーリヒは即答を控えた。
やがてキューベルワーゲンはマリア・パステルナークの一派に襲撃されて去年壊滅したグリャーズヌイ特別区と同じように薄汚い布を何重にもかけた小屋や、有り合わせの材料で作った急ごしらえの集落でびっしりと埋め尽くされたこの世の果てへと到着する。
「あれっ」
適当な場所に停車したキューベルワーゲンから二人が降りるよりも早く、エーリヒはすぐ傍の売春宿から煙草を咥えた部下のヴァルキリーが現れたことに気付いた。
「誰かと思えばシュヴァンクマイエル少佐ではありませんか。コルダイト火薬の悪臭に満ちた人生に疲れて童貞を捨てに来たのですか?」
袖と裾を短く切り詰めたタイガーストライプパターンの迷彩服に身を包み、首筋に幾つもキスマークを付けたソノカは紫煙を燻らせながらキューベルワーゲンに歩み寄ってくる。
「もしくは才色兼備で品行方正かつ社会的正義に溢れた小官をわざわざこんな地の果てまで迎えに来て下さったのですか?」
「全くもう……こういうところに来てはいけないよ。人間性が失われてしまう」
エーリヒは溜め息を吐きながらキューベルワーゲンを降り、吸い殻を投げ捨てるソノカに身勝手極まりない善意に基づいた説教を始める。
「体に刺青を入れたり、煙草を吸うことにも感心しない。大体君は未成年じゃないか」
「はぁ」
ソノカは気のない返事を返しながら、眠そうな目でエーリヒを見つめつつポケットからチューインガムを取り出し、やたらと歯並びが綺麗な口に放り込んだ。
「まぁ私から言わせれば……」
意図的にクチャクチャと口から音を立てるソノカはピンク色のガムを膨らませる。
「万年発情期のテウルギストを放置して毒にも薬にもならない代理戦争にのめり込んでいる若造の方がよほど非人間的だと思いますがね」
「えぇ……」
エーリヒが困惑で眉間に皺を寄せたのを見計らってノエルは後ろから彼に抱き付いた。
「えっちなことを好きな人とすることで世界は平和になるんだよ! アレスとアプロディスの結婚からハルモニアが生まれたようにね」
ノエルは弛む豊満な胸をエーリヒの背中に押し付けながら長い右足をエーリヒの右足に絡め、真っ赤になった少年の耳元で囁く。
「つまり性と死は生き物にとって必須かつ自然な生の一部なのさ。性や殺生のない社会なんて一世代で消え失せてしまう」
「せ、殺生はともかく」
エーリヒは油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動作でノエルの拘束から逃れ、両手で彼女との距離を取った。
「せ、せ、性の方は本当に好きな人と……それこそ大切な人と結婚してからするものであって……その……遊び感覚でそういうことをするのは……良くないと……思うんだ」
「じゃあエリーにとって私は本当に好きで大切な人じゃないのかにゃー」
「いやそりゃ……きですよ。でもほら、もし間違って赤ちゃんとか……」
「えっ」
急に真顔になったノエルはエーリヒとソノカを交互に見ながら疑問の声を上げる。
「赤ちゃんっていうのはキャベツ畑からコウノトリが運んでくるんじゃないのかい?」
「いやノエル、それはね」
「その疑問はデイリー・テレグラフ(注1)を読めば数秒で解決できるでしょう」
吐き出したガムを包み紙で覆い、それをエーリヒのズボンの後ろポケットに知らない素振りをして入れたソノカは本題を切り出す。
「そんなことより空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の教えによりますと」
どこからか怪しげな経典を取り出したソノカはその二十九ページ目を開いた。
「この近くに少佐がお探しになっているろくでもない場所があるそうです」
七分十二秒後、エーリヒはボーダーランドの山腹にある重いハッチを抉じ開け、すぐに鼻腔の奥を突いた濃厚な死臭でその口を押さえていた。
ソノカを入口に残したエーリヒとノエルは右手に懐中電灯を、左手に拳銃を持って薄暗い通路の奥へと進んでいく。山を刳り抜いて作られた通路の両脇には電線や配電盤のようなものが幾つか見受けられ、この施設が俄作りのものではないことを如実に表していた。
「こんなところに施設を作ってる学園がいるなんて聞いてないよ」
「私が知っている限りこの施設はグレン&グレンダ社のものですらないね」
「じゃあ一体誰が……」
エーリヒとノエルは更に先へと進んだ。
「なんだこれは……」
通路の先にあった空間を見てエーリヒは絶句する。
広い部屋を血まみれの手術台で挟んだ右の壁には歪な切り取り線の入った顔の医学図が何枚も貼り出され、左の壁はマリア・パステルナークの写真で完全に埋め尽くされていた。棚には鼻や耳が入ったホルマリン漬けが大量に並んでいる。
「エリー、これを」
火花を散らす剥き出しの電極を背中に近付けられたかのように身震いするエーリヒにノエルは声をかけ、皮膚の移植試験の経過が書かれた書類を手渡す。ベレー帽を被った少年はそれを一字一句読む勇気を持ち合わせていなかった。
更に奥へと進むと、二人は遺体安置所のような部屋に山積みになった、顔の一部だけが切り取られている死体を発見する。それも部屋を埋め尽くすほど大量の……。
「それは気の遠くなるような作業だった。何千人、何万人という候補者の中から、ある一人の人物と同じものを探し出す作業」
完全に青ざめたエーリヒはドクター・ハビロフが口にしていた『同じもの』が一体何なのかを察する。
「ノエル……ドクター・ハビロフはアルカに来る前に何をしていたか……わかる?」
「本国で整形外科医をやってたそうだよ」
「そういうことか……!」
遂にエーリヒは答えを得た。ここに死体となって転がるプロトタイプ達が下校途中に拉致されてきたのか、それとも製造工場から非公式なルートで運び込まれたのかはわからない。だが大量のプロトタイプから顔の一部を剥ぎ取り、それを使ってどこかのヴァルキリーの顔をマリア・パステルナークそっくりに作り変えるというアルカ始まって以来の恐るべき所業がこの場所で行われたのは事実だった。少なくともエーリヒはそう判断した。
「通りで『声が違う』とノエルが思うわけだよ。何せあのマリアは、単にマリアの顔をしているだけのヴァルキリーなんだから……」
エーリヒが額に大粒の脂汗を浮かべて呟いたとき、地響きと共に天井から剥げ落ちた塗料が吹雪のように舞い、土や埃と混ざり合って部屋に立ち込めた。
注1 一八五五年に創刊された英国の新聞。




