第二章4
中途半端に崩壊した建物や積み上げられた瓦礫が目立つサカタグラードの街中には砲塔が失われて黒焦げになったT‐34/85中戦車の車体や墜落したIL‐2シュトルモビク攻撃機の残骸が至る所に転がり、それらはソ連の代理勢力であるヴォルクグラード人民学園が校舎を構えるアルカ北西部の学園都市が昨年行われた二度に渡る内戦で深く傷付いたことを静かに表していた。
「我々は同志マリア・パステルナーク大佐を支持する有志である!」
「良識ある我々は国際法に則り、君達を人道的に扱うと約束する!」
閑散とした街中では自らを礼儀正しい人々と呼称する武装したロシア系プロトタイプ達が拡声器片手に闊歩し、その傍らで両手を頭の後ろに乗せたヴォルクグラード人民学園の生徒達の列が蛇のように連なってどこかへと続いている。
「寛容とは即ち弱さの印である」
死んだ魚のような目をして限りなく地獄かそれに準ずる場所への行進を強いられる生徒達の真上では、スイスチーズ宜しく銃弾で穴だらけになったビルに掛けられた巨大なスクリーン内で演説するマリア・パステルナークの姿がある。
「国家の外敵に憐れみや同情を抱く輩は我が校には必要ない」
普段はグレン&グレンダ社の毒にも薬にもならない宣伝放送が流れるスクリーンから、今日はヴォルクグラード人民学園の政権を再び奪取したヴァルキリーの声がサカタグラードの傷付いた街並みに響き渡る。
「修道院でもどこにでも行くがいい」
ヴォルクグラード人民学園内のホールでスポットライトを浴び、数十台のカメラを向けられたマリアは力強い様子で続ける。
「一九四四年七月十四日。我々ヴォルクグラード防衛評議会は当学園の全権を掌握した。本日以降、永遠に、我々の決定こそが唯一無二にして神聖不可侵なものとなるだろう!」
檀上で身振り手振りを交えながら話すヴァルキリーは肩章の付いた特別仕様の学生服を身につけ、その美しくも凛々しい姿はまさに『英雄』という呼び名に相応しかった。
「おい」
マリア・パステルナークを病的に信奉するヴォルクグラード防衛評議会のメンバー達がホールに並んだ一般生徒達の背中を銃口で小突く。
「マリア万歳!」
「マリアに栄光あれ!」
「マリアよ永遠に!」
続いて買収された放送委員はスピーカーを調整し、それらのまばらな歓声があたかも全校生徒によるものであるかのように擬装した。だから「またか」と呆れ顔で中継映像を視聴しているアルカ各校の生徒達には万雷の拍手がマリアに送られているように見えていた。ただ誰一人としてそれが真実だと思っている者はいなかったが。
「私のことについては本当に誰も知らないのだろうな」
演説を終えたマリアは舞台裏で拍手していた黒い長髪の少女に話しかける。その声には先程とは打って変わって強い不安感が滲んでいた。
「ご心配なく。万全の情報管理を行っておりますので」
オブザーバーとして南アフリカ共和国の代理勢力であるドラケンスバーグ学園から非公式にヴォルクグラード防衛評議会へと派遣されてきたヴァルキリー、サブラ・グリンゴールドはヘブライ語訛りのあるロシア語でそう答えたあと、静かに「それでは」と不安に起因する汗を額に滲ませたマリアに言い放ってその場を立ち去る。
七分十二秒後、サブラはヴォルクグラード人民学園から程近いソ連の弁務官オフィスへ足を運んでいた。
「もしも今回のクーデターで我が国が国際社会での影響力を失うことになれば、私は死ぬまでシベリアで木を数えなければならなくなる!」
形だけとはいえソ連本国からアルカにおける施政責任者を任じられている弁務官は執務室にヴォルクグラード防衛評議会の一員であるサブラがさも当然のように入ってくるなり、机を叩いて彼女に怒声を浴びせた。
「それは大変ですね」
「一体誰のせいだと思っているんだ! もしもソ連がハブナッツになってしまえば……」
「今年一年だけで全世界の食肉工場では合計六十億羽のブロイラーが殺されました」
サブラは度が入っているのか入っていないのか本人もよく知らない眼鏡のレンズ越しに弁務官を見やる。紫の双眸から伸びる視線は生気のない寒々としたものだった。
「ブロイラーは人間に食べられるため生み出されます……が、一旦この話は置いておきましょう。差し当たり弁務官殿の懸念についてですが、結論から先に言ってしまうとソ連はクーデターの成否に関係なく今まで通りハブズの状態を維持するでしょう」
グレン&グレンダ社による事実上の統治が行われているこの世界にはハブズとハブナッツという言葉がある。前者はアルカに学園を持つ国を意味し、後者はそうでない国を指す。現在の国際社会においてアルカに学園を持たない国家は地球上に存在していないのと同じであり、代表的なハブナッツであるアフリカ大陸や東南アジア地域の多くはハブズの国々から暴虐と搾取の限りを尽くされている。
「何故なら私達の目的はヴォルクグラード人民学園を一時的な機能不全に追い込むことだからです」
勝手に執務室のソファーに腰を埋めたサブラは落ち着いた口調で拳を強く握り締める部屋の主に話す。
「どういうことだ?」
弁務官の表情に怪訝なものが浮かぶ。
「あの組織は我々ユダヤ人にとっては単なる大道具のようなものです」
「ユダヤ人……だと?」
「左様です。ソ連は先日、自国の食料政策の失敗に端を発する国民の不安をガス抜きするため、国内のユダヤ人やそのコミュニティに対するポグロムを事実上容認しました。今回のクーデターは、それに対するユダヤ人社会からの報復措置だとお考え下さい」
淡々とした口調でサブラは続けた。
「しかしソ連にも多くのユダヤ人が居住しています。もしもヴォルクグラード人民学園をアルカから排斥してしまえば、それはソ連の国際社会における存在意義や発言権が失われることを意味し、同国に暮らすユダヤ人にもその影響が及ぶでしょう。だからこそソ連にはハブズのままでいてもらわなければなりません」
「ポグロムなど今までに何度も行われていたではないか! 何を今更!」
「確かに今まではそうでした。ですがこれからは違います。我々ユダヤ人は、道徳的にも国際的にも正当化された自己の権利と生命を守るために行動します」
「では私にどうしろと言うんだ?」
「弁務官殿の口から、ソ連政府に国内のユダヤ人に対する干渉を今後一切行わないよう要請して頂きたいのです」
「私にそんな権限があると思っているのか! 私は単なる連絡係に過ぎん!」
「弁務官殿はそうお思いになって頂いて構いませんが、もしも今回のクーデターでソ連がアルカから排斥されるような事態に陥った場合、先程ご自身が仰ったようにその責任を負うことになる一人に貴方もまた名を連ねている事実をお忘れなきようお願い致します」
弁務官は自分の娘ほどの少女に反論できず歯軋りする。
「ご心配なく。全ては我々ユダヤ人が作ったシナリオの内です。弁務官殿はただ我々の作った脚本に合わせ、しっかりとご自身に与えられた役を演じて頂ければ問題ありません」
それを耳にした弁務官は椅子に腰を下ろし、腕を組んで机上に置かれた自分の家族の写真を見る。妻、そして三人の息子。
「私は大学など出ていない。こんな時代でなければ今の役職にも就けなかっただろうし、悪くない額の月給ももらえなかったはずだ……」
弁務官は少し考えてから悪魔との握手を選択した。
「わかった。協力しよう」




