第二章3
「僕は殺したんだ」
エーリヒ・シュヴァンクマイエルはタカハタベルクにあるシュネーヴァルト学園学生寮のカーテンを閉め切った自室で、もう何度口にしたかわからない言葉を弱々しく漏らす。
「確かに殺したんだ」
すっかり使い慣れた黒い眼帯を外し、エーリヒはかつて自分の左目があった場所に触れる。指先に走る火傷のデコボコした感覚が、彼に『彼女』が死んだのは紛れもない事実であることを伝える。ショナイ平原から帰還後、体調不良を理由に寮の自室に引きこもったエーリヒは何度も何度もその行為と確認を繰り返していた。
「私に困らせられて呆れもさせられているというのに、お前も物好きな奴だな」
今から三年前の一九四一年、当時はまだ将来有望なヴァルキリーの一人でしかなかった『彼女』から朝の通学路で言われた言葉をエーリヒは思い出す。『彼女』ことマリア・パステルナークと交換留学生としてヴォルクグラード人民学園で学業に励んでいたエーリヒはその頃恋仲という訳ではなかったものの、かといって単なる友人同士という間柄でもない関係にあった。だがエーリヒにとっては紛れもなく、憧れに限りなく近いものではあったが、それは生まれて初めて体験した恋だった。
「殺した」
それから二年後……一九四三年に起きた出来事をエーリヒは瞼の裏に思い浮かべる。
ヘリの機内で炸裂した手榴弾の閃光。濃緑色に塗られた機体が爆発するなり飛び散った金属片が自分の左目を抉り、左半分の視界が消滅すると同時に傷口へと入り込んだ火薬ガスが凄まじい激痛をもたらした。
「殺した」
そして唾を吐いてその場から逃走するマリアの背中を目の当たりにしたエーリヒの中からどす黒い感情が溢れ出した。すぐにエーリヒは左手で血の塊となった顔の左半分を覆いつつ、右手でホルスターからM1917リボルバーを抜き、離れていくマリアに向けて発砲した。銃声が鳴り響くと同時にマリアの右足首が吹き飛び、彼女は地面に崩れ落ちた。
「殺した」
マリアは拳銃を手にしたエーリヒが重い足取りで自分に近寄るなり、激痛に顔を歪め、顔を脂汗でびっしょりと濡らしながら「こ、殺さないでくれ! 悪かった……私が悪かった! 何もかも悪かった!」と命乞いした。しかしそれはエーリヒの怒りの炎に高オクタンのガソリンを撒き散らす結果となった。
「殺した」
再びM1917リボルバーから放たれた銃弾がマリアの左目を貫いた。眼窩から血と砕け散った目玉の破片が周囲に飛び散り、後頭部が弾けて彼女の脳が露出した。
「殺した」
四十五口径の拳銃弾が今度はマリアの顔面を撃ち抜き、鼻の付け根に大穴を開けられた彼女の左目から更なる血が、右目からは眼球がオタマジャクシのように飛び出した。
「殺したんだ……殺した……」
ベッド脇の床に座り込んだエーリヒは次にショナイ平原の戦闘で再び現れたマリア・パステルナークの姿を思い出し、身震いしながら頭を抱える。確かにあのヴァルキリーは自分が殺したはずの少女だった。確信を持ってそう言える。
「でもどうして……なんで……」
「なんでだろうねー」
少女の声を聞いたエーリヒが頭を上げると、そこには自分と同じようにシュネーヴァルト学園の学生服に身を包むノエル・フォルテンマイヤーの姿があった。
「ノエル……いつからそこに?」
「二十分ぐらい前から」
「……そう」
エーリヒは定まらない視線を部屋に散らばる洗濯されていない自分の衣服を手に取り、それをふっくらとした唇に押し当てて思い切りその汗臭さを吸引し満面の笑みを浮かべる金髪の少女から再び床へと戻す。
「僕は負けたんだよ。僕が負けたせいで本国はダンチヒ回廊を取り返せなかった」
「エリーは自分のことだけを考えなよ。自分がどうしたいか――考えるのはそれだけでいい。直接会ったこともない人達の事情まで考えていたら心が壊れてしまう」
「じゃあノエルは……」
「私は単にそうしたいからエリーに対してそうしているだけさ」
血を啜った紅玉のような瞳を持つ金髪の少女は白い歯を見せて微笑み、上着を捲ってほんの僅かに腹筋が盛り上がりつつも実に柔らかそうな腹部を露にした。
「ほらエリー、いつもみたいに私のお腹にキスして元気出そう。お腹へのキスは『回帰』を意味しているんだ。エリー、こういうときはママのお腹に戻るのが一番だよ。ぎゅって抱き締めてあげるからかもんかもん。それよりおへそくぱぁの方がいい?」
エーリヒは何も反応しない。次にノエルは右の太腿を前に出してならば『支配』のキスはどうかと提案したが、酷く落ち込んでいる少年は何も反応しなかった。
「まぁ汚名挽回……じゃなかった、君が汚名を返上する機会はもう与えられているよ。グレン&グレンダ社とシュネーヴァルト学園生徒会は君をマリア・パステルナーク討伐の責任者に任命した。今のアルカで不正規戦をやれるのは君ぐらいだからね。それに、君はかつてマリアを倒した唯一の人間でもある」
一九四三年にヴォルガ・ドイツ人(注1)の国外追放を黙認させるため、ソ連本国はアルカのBFで連戦連勝だったマリア・パステルナークを排除する許可を非公式な形でドイツ連邦共和国に与えた。そしてエーリヒやノエルが当時所属していたタスクフォース609の前身でもあるシュネーヴァルト学園の第三十二大隊――汚れ仕事や表沙汰にできない任務を専門に遂行し、この部隊は存在しないとの公式声明を学園側が発表していた――はロイヤリストと呼ばれるヴォルクグラード人民学園の旧体制派と協力してマリア率いる一党を壊滅に至らしめた。
「マリアがまた現れたからって今回もまた不正規戦になるとは限らないじゃないか」
「彼女がサカタグラードの一帯を制圧、ヴォルクグラードの政権を再奪取したと言ってもまだ乗り気になれない?」
エーリヒはそれでも反応しない。澱んだ右目を床の染みに向けているだけだ。
「むー……相当参っちゃってるね。いつものエリーだったら『僕以外には絶対任せられないよ!』って意気込むのに。エリーはアルカを維持するために戦うんじゃないの?」
そこまで言っても極めて面倒臭い性格の少年が無反応だったのでノエルは横髪を弄りながらより刺激的な方向に話題を変える。
「実はマリアの件で少し気になることがあるんだ」
百八十センチを超える長身の少女はもぞもぞと自分の胸の谷間から這い出してきたトカゲを手に乗せ、その口にキスをする。そして自分の首に飛び移った爬虫類の柔肌を撫でるざらついた鱗の感覚を楽しんだ。
「あのマリアは偽物じゃないかってね」
「えっ?」
ついにエーリヒが顔を上げた。
「マリア・パステルナークは第一世代ヴァルキリーだ。私の成り損ないとはいえ、ある意味で彼女は『私』でもある」
トカゲを可愛がるノエルはアルカに多額の出資を行った資産家の娘として人為的に産み出され、期せずして世界最初のヴァルキリーとなった少女だ。完全にコストを度外視して最高レベルの調整が施された彼女が始めから有していたのは外見の美しさと内面の残虐さだけではなく、プロトタイプの中では初となるマナ・エネルギーとの親和性だった。そして前線に投入されるなりテウルギスト――降霊術師――と呼ばれ、瞬く間にアルカ学園大戦における食物連鎖の頂点に立ったヴァルキリーという存在を手に入れるべく世界各国は湯水の如く資金を投入して自分達のノエル・フォルテンマイヤーを作り出そうとしたが、誰一人として彼女と同等の能力を有する個体が現れることはなかった。
この時に生まれた『規格落ち』こそマリア・パステルナークを始めとした第一世代ヴァルキリーであり、エーリヒはノエルから彼女達は自分にとって出来が悪くも可愛く愛おしい愚妹のようなものだと聞かされている。
「でもね、実際に肌を合わせてみて、彼女は『私』じゃないと思ったんだ。まぁとりあえずここでウジウジしててもいいことないし、気分転換も兼ねてラブリーエンジェルなノエルちゃんと一緒に色々調べてみないかと提案しにきたわけさ」
「本物じゃない……そうか……そういうことも……」
エーリヒは少し考えてから頷く。
「よし! じゃあとりあえず、サカタグラードから脱出してきた人に会いに行こう!」
そして、ようやくエーリヒの隻眼に生気を戻らせることに成功したノエルは大好きな少年に愛情たっぷりのウィンクを送った。
注1 帝政時代にロシアへと移民したドイツ人の子孫達。




