第一章3
「ヴィールカさんがそんなこと言ったの?」
ヴォルクグラード人民学園の校舎屋上に置かれた椅子に腰掛け、マリアの弟であるユーリ・パステルナークは水筒に入れたロシアン・ティーをカップに注いで姉に差し出した。
昼休みになると姉弟は必ずここで昼食をとっていた。ここが二人の専用カフェテリアであることはヴォルクグラード人民学園の全生徒にとって暗黙の了解となっている。
「ああ。いきなり何を言い出すのかと思ったらな。それにしても、またこの何だかよくわからない怪しい食い物か……」
マリアは上手く話を逸らしてゴムのような黄色い円盤と脂ぎったパティーがパンズで挟まれているエッグマフィン風の何かを齧りリス宜しく頬を膨らませた。
「あっそうだ、寮に届いてたよ」
食事が一段落すると、先日姉が旧人民生徒会派に襲われたことすら知らないユーリは鞄から封筒を抜き取ってマリアに渡す。送り主はグレン&グレンダ社のソ連支社だった。
「ふむ」
封筒の封を切って中から取り出した書類に目を通し、マリアはヴォルガ・ドイツ人の追放に端を発したソ連本国とドイツ連邦共和国間の問題を解決するため指定の日時までに学園に所属するタスクフォースを即応体勢にしておくようにとの指示を確認する。
タスクフォースとはその名の通り特定の任務のため学園軍から一時的に編成される部隊の総称であり、ヴォルクグラード人民学園だけでも一千人が在籍し一個大隊の規模を誇るタスクフォース501からタスクフォース563に代表されるスぺツナズのように全員合わせても十名に満たないものまで大小様々な部隊が存在する。
「次のBFは……ん? 未定か」
「姉さん、BFって何?」
「BFはバトルフィールドの略称だ。アルカの代理戦争が行われる場所で毎回異なった勝利条件が設定される。例えばどちらかが全滅するまでとか、高地を三日間守った方が勝ちとかな。しかしユーリ、お前はそんなことも知らないのか」
「だって戦争なんて僕には関係ないもの。姉さんが色々してくれてるじゃない」
「そうか……ああ、そうだったな」
マリアは軍内部のコネを利用して一般生徒のユーリが徴兵と揶揄されるタスクフォースへの配属を徹底的に回避させ続けてきた。ユーリもそれを半ば当然だと考えている。
「それとシュテファニア先生から電話があったよ。ちゃんと授業に出なさいって」
ハンガリー系のトランシルヴァニア学園からヴォルクグラード人民学園に出向している女性教員、シュテファニア・グローフの名前を聞いたマリアの顔が渋くなる。
「あの人はあんまり好きじゃないんだ。アレコレ干渉してくるからな。会うたびに『体に良いものを食べてる?』とか……試験管ベビーの私にはよくわからないが母親のいる本国の子供は大変だと思う。早くルスラン先生に戻ってきてほしいよ」
今までマリアの担任だった男性教諭のルスラン・アミルスキーは子供が生まれたという理由で長期休暇の中にあった。最も結婚したという話を聞いたことはなかったが。
「どれ、ごちそうさまだ」
爽やかな夏のそよ風によって紺色の髪がわずかに揺れるだけで甘い香りが漂ってきそうなマリアは胃袋にエッグマフィン風の何かを二つ入れた時点で満腹を訴えた。
「姉さん、もう食べないの?」
エッグマフィン風の何かは弟が膝上に置いたバスケットの中をまだ半分も埋めていた。
「腹が一杯になった。それに最近デスクワークばかりで増えてしまってな」
「増えたって何が?」
マリアは舌を出す。
「女の子の魅力だ」
「うわぁ……」
冷めた視線を向けてくるユーリの前でマリアは制服を捲り、弛んだ腹の肉を抓む。
「冗談はさておき最近は階段を上るだけで息が上がるようになったぞ」
「姉さんそれ病気だよ」
「うるさい!」
「大体、この間の健康診断で姉さん何個引っ掛かったの?」
「え、えーっと……内臓脂肪に血糖値、あとなんだっけ」
マリアは額に脂汗を浮かべながら自分の体の問題個所を指で数えていく。
「どうでもいいけど姉さんって変わった数え方するよね」
「そうか?」
ユーリが指摘したようにマリアは小指側から指を折っていた。だから二つを数えた今は小指と薬指が折れて中指と人差し指、親指が立っている。
「普通、指で何かを数えるときって親指から折らない?」
「そうなのか? 私はこう数えろって教えられたぞ」
「僕はそんなこと教えてもらった記憶ないよ……いや、別にいいけどさ」
そんなやりとりをしているうちに、胴体にヴォルクグラード学園軍の所属を表わす赤い狼のマークを描いたドイツ製のヘリ――Fa223ドラッヘが屋上に着陸した。爆音が響き渡り、二つもあるメインローターの風圧でバケットやシートが吹き飛びそうになる。
「ちょっと仕事をしてくる。今日は先に夕飯を食べて寝ていろ」
「あの……姉さん!」
歩き出したマリアの背中にユーリは声をかける。
「必ず帰ってきてね。僕、姉さんを待ってるから」
「信用しろ」
不安の表情を浮かべる弟に肩越しのウィンクを送ったマリアはすぐに機上の人となった。
「何が信用しろだ。馬鹿馬鹿しい」
マリアは侮蔑めいた笑みを口元に浮かべながらヘリの座席に腰を埋め五点式のシートベルトを締める。そして鋭い棘を持ち猛毒に満ちた口調で呟く彼女は親指を舐めるや否や学生服のポケットから取り出した札束を数え始める。
「人は裏切り機械は壊れる。この世で裏切らず、壊れないのは金――こいつだけだ」