第一章1
一九四四年七月十一日。
「朝だよ! 起きて!」
透き通るような少女の声が部屋に響き渡った直後、華奢な手によって薄いベージュ色のカーテンが開かれた。
「全くもう……こんなに散らかして……」
明らかに人間のそれとは思えないピンクの髪のせいで漫画の登場人物にさえ見える女子生徒は鳥の囀りを耳にしつつ、窓外から差し込む日光に照らし出された図鑑にさえ載っていないような虫がいてもおかしくないほど汚い部屋に転がる空瓶や宅配ピザの箱を適当なスペースに片付けていく。
「もうちょっとだけ寝かせて……」
薄いタオルケットの下で青みがかった黒髪が布との擦過音を鳴らして寝返りを打つ。
「あと三分でいいから……」
「昨日もそう言ってたじゃない! さあ起き……」
直後、強引にタオルケットを剥ぎ取った少女の後頭部にエーリヒ・シュヴァンクマイエルが振り上げたレンチの先端が鈍い音と共にめり込んだ。壁に赤黒い血飛沫が飛び散る。
ひぎぃと悲鳴を上げて床に倒れ込んだ女子生徒の鼻骨が砕け、間髪入れずに固い革靴で包まれた部屋の主の爪先が彼女の柔らかい脇腹に突き刺さった。
「僕は人から好かれない男だ。自分の内側に引きこもって愚にもつかない思いを巡らせている」
そして恐らくは密命を帯びているであろう女子生徒が自分を起こしに来るのを虎視眈々と待ち構え、タオルケットが剥ぎ取られるや否や彼女の背後に回り込んだ学生服姿のエーリヒはフョードル・ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の一節を口走りながら闖入者に対して徹底的な暴力を行使し始める。
「自意識過剰という病気だ。相手の目をまっすぐに見られない」
激しく咳き込みながら立ち上がろうとする少女にエーリヒは背後から飛び掛かり、白いセーラー服から覗くその無防備な下腹部にナイフを突き入れる。
「無根拠に自尊心が高くて、その上疑り深く嫉妬深い」
体重をかけて相手の上体を倒し、垂直に近い角度でピンクの後頭部を赤く染めた少女の体を滅多刺しにしていく。
「心の底には憎悪と復讐の念が渦巻いている」
そのままエーリヒはナイフを横に進めて女子生徒の柔らかな肌を裂き、鮮やかな色の内臓を引き摺り出さんと試みるが失敗する。埃っぽい部屋の空気を劈く悲鳴を上げて暴れる彼女によって前に振り下ろされてしまったからだ。
「前世紀の終わり……」
その衝撃で部屋に転がっていたラジオのスイッチが入り、世界をどうしようもない形に変えた張本人であるグレン&グレンダ社の宣伝放送が流れ始める。
「巨大隕石の落下と、それがきっかけになって始まった十五年間にも及ぶ世界規模の戦争が人類に歴史上類を見ない未曾有の被害をもたらしました」
ナイフを置いたエーリヒは床に広がった生暖かい血液で滑らないよう注意しながらベッド脇のケースに入ったHBの鉛筆を抜く。その先端は勿論鋭く削られていた。
「死にたくない……死にたくないよ……」
エーリヒは芋虫のように這って逃げようとする女子生徒の背中を自分の右膝で固定し動けなくすると、右手で髪の毛を掴み、左手で鉛筆の先端を彼女の左目に突っ込んだ。金切り声にも似た悲鳴が部屋に木霊し、エーリヒが湿った音を立ててそれを左右に動かす度にぐっしょりと血と涙で濡れた白い塊が眼窩から零れ落ちた。
「混乱はグレン&グレンダ社によって収められました」
エーリヒは次にゴミ袋を――中に入っていた、栗の花臭い丸めたティッシュは自然な動作で取り出して物陰に隠した上で――手に取り、痛みと恐怖に肩を震わせて血の海で啜り泣く女子生徒の頭に被せ、彼女を無理矢理立たせてその袋越しに激しく殴打し始める。
「そして同社は今後一切、人々が争わずに済む世界を作ろうと考えます」
左手で頭に被せた袋の結び目を押さえつつ、右手で鳩尾を狙ったボディーブローを二発見舞う。女子生徒の吐き出した血が喉元を伝って床に落ちた。
「それが戦闘用の人造人間『プロトタイプ』を教育し」
今度は膝蹴りが一発。肋骨の砕ける感覚がエーリヒの膝小僧に走る。
「世界各国の代理勢力である『学園』に所属させ、アルカという永久戦争地帯でそれぞれの母国の代わりに戦わせるシステムなのです」
続いて足払い。エーリヒは再び床に突っ伏した女子生徒の頭からゴミ袋を剥ぎ取るなり後頭部を何度も踏み付けた。鈍い音が鳴り響く度に激しい衝撃で細い少女の両手と両足が弾かれたように上下運動する。
「そして今や民族対立、資源の利権争いといった国家間の問題は全てアルカにおける代理戦争で処理され、人類にとって永遠に過去のものとなりました」
エーリヒは脳震盪を起こしながらも「助けて……」と声を漏らす女子生徒の手を取る。彼女の顔からは殆ど千切れかけている鼻や唇だったものがぶら下がっていた。
「顔は滅茶苦茶になったのに手はとても綺麗だね。僕にはわかる。君は今まで、一度たりともこの手を他人のために使ったことがない」
「助けて……助けて……助けて……」
「だから女という生き物は自己の利益のために男を失望させる存在なんだ。そう……マリア・パステルナークのように……!」
過分な憎悪と怨嗟を込めて吐き捨てたエーリヒはHBの鉛筆で抉られた左眼窩から血を噴き出して痙攣する女子生徒に馬乗りになると、赤く染まった襟首を掴み、彼女が絶命するまでひたすらその無残な有様に成り果てた顔面を殴り続けた。