マリアをやっつけろ 5
一九四三年二月十三日。
曇天の下に広がるサカタグラードの街並みを覆っている白には積雪だけではなく完敗を喫し政権を奪われた人民生徒会が処分し損ねた書類の色も含まれていた。
「終わったんだね……」
ユーリ・パステルナークは内戦を終えた学園都市に転がる木机や椅子、人民生徒会派の生徒達が脱ぎ捨てた軍服とブーツを避けつつ進む高級車から外の世界を見る。
「終わったんだ」
赤い狼が描かれた軍旗を掲げる四号戦車G型や米国製のトラックが大通りを行き来し、車体上や荷台に満載されたクーデター軍の兵士達が各学園から集まった報道委員に笑顔で手を振る光景は恐怖政治の終わりと自由の始まりを意味していた。
弟に汚物を見せるなという命令により道路に面した場所全てから人民生徒会派の死体が運び出され、後日グリャーズヌイ特別区と呼ばれることになる学園都市の一角に生者共々押し込まれていることなど知る由もないユーリはヴォルクグラード学園軍同士の地上戦が始まって以来ほぼ二十日ぶりに校舎へ足を踏み入れた。
「私はヴォルクグラード人民学園の新たなリーダーとして我が校を導くことを誓う」
近付いてくる上官の実弟を見たエレナ・ヴィレンスカヤが一礼して生徒会長室のドアを開けると、そこには一九四二年のグレン&グレンダ社にクーデター黙認への見返りとしてマザーシップの残骸やその中から回収され、今回の内戦でディミトリ・カローニン自身が搭乗しマリアに撃破されたことになっている機動兵器スヴァログ及びチェルノボーグなるヴァルキリー用強化ユニット、加えて二十一世紀の小火器や光学機器等と同様に無償譲渡されたM11型マナ・ローブではなく、赤い縁取りを持つ純白のマナ・ローブに身を包む姉が防弾ガラス越しに広がる学園都市全域に自分の声を響かせる姿があった。
「神も照覧あれ」
どこか吐き捨てるかのように言い終えたマリアはマイクの電源を切り、マナ・ローブの展開も解除して何の予告もなしに呼び出したユーリに向き直る。
「遂にディミトリ・カローニンを倒したぞ。私は勝ったんだ!」
学生服姿の姉は右手首のマナ・クリスタルを外して机に置くと弟に駆け寄って抱き付く。
「おめでとう、姉さん」
「私はお前を守れたんだ。失敗作と罵られ、何者にもなれないと言われてきた私が……」
「姉さん……」
柔らかな背中に手を回すユーリは震え声を発する姉の目に光るものがあることに気付く。
「何度も何度も折れそうになった。何度も何度も諦めようと思った。でも私は、その度にやるんだ、絶対やり抜くんだと歯を食い縛って努力した」
「凄いと思うよ」
ユーリは体を離して強く頷く。そして今ならば……と思い、喉から言葉をひり出す。
「姉さん、僕はもう大丈夫だよ。だからもう、危ないことはやめ……」
「何を言っているんだ?」
ユーリの声は厳しい表情に戻った姉の言葉に遮られる。
「私はまだヴォルクグラード人民学園という小さい世界を手に入れただけだぞ」
やっぱり駄目だ――なけなしの勇気が急速に衰えていく。
「私はこれからお前を守るために全ての学園を叩き潰してアルカを手に入れる」
お前は失敗作だと否定され続けてきた少女は、そうではない自分は絶対に正しいのだと自らに何百回何千回何万回と言い聞かせてここまで来た。
「私はこれからお前を守るためにグレン&グレンダ社を崩壊させて世界を手に入れる」
想像を絶する、あまりにも強烈な自我と行動力。そうすると決めたら腹を括って全力であらゆる障害を乗り越えようとする恐るべき純粋さ。
「私はこれからお前を守るためにあらゆる国家を支配して地球を手に入れる」
マリア・パステルナークというヴァルキリーは一度そうすると決めたら自分でもそれを変えることができないのだ。最早自分が何を言っても、何とかして説得しようとしても、姉は弟を守るための破壊と殺戮を繰り返すだろう。それをユーリは改めて痛感した。
「大丈夫だ。何も怖くないぞ」
優しい口調でユーリの頭を撫でるマリアは狂ってはいない。むしろ狂っている方が余程救いがあったし、ユーリにも諦めが付いた。だが彼女はあまりにも正常過ぎるのだ。
「大丈夫」
また姉に抱き締められたユーリは強い安心感と胸に広がる温かさを感じたが、彼の足はその一方で恐怖に微震していた。額には汗の滴が浮かび、瞳は天井を泳ぐ。
「私は何も変わらない。私はただお前だけを愛する」
一方的かつ過大で到底理解不可能な愛情によって弟に底知れぬ恐怖をこれからもずっと与え続けるであろう姉は生徒会長室内に穏やかな音色を響かせた。
「お姉ちゃんは、絶対お前に怖い思いをさせないぞ」
終劇