第三章9
サカタグラードからショー&ナイ・エアベースに続くハイウェイ112をマリア・パステルナークは車で疾走していた。
イタリア製のスポーツカー、ランチア・ストラトスのドアミラーに映るヴォルクグラード人民学園の校舎は炎の中に浮かび上がる巨大なロシア人の墓標のようにも見えた。
顔の下半分を骸骨の描かれたスカルバラクラバで覆い、額に汗を滲ませたマリアの黒目は泳ぎ、過度のストレスと不安によってその下の皮膚は激しく痙攣していた。
「ん?」
何かが車の上を通過した。
「気のせいか……」
マリアがそう思った矢先、車の天井が押し潰され窓ガラスが砕け散った。コントロールを失ったストラトスは横転し停止する。
「ああっ!」
額から血を流したマリアは四つん這いになって車から這い出るなり、
「金が! 私の金が!」
地面に大きく散らばった紙幣を必死で掻き集めた。
「私の金! 金! 金! 金! 金! 金! 金! 金がーーーーーーーーーーーッ!」
突然、マリアの腹部にヴァルキリーの爪先がめり込む。
「ヴォルクグラードの養分を吸い取って肥える寄生虫め……」
激痛に激しく咳き込むマリアの前で突如現れたヴァルキリーは顔の下半分を覆うソ連製ガスマスクを外しその顔を露にした。
「お前はやがて怪物に変わる。だからここで止める」
マナ・ローブに身を包んだヴィールカ・シュレメンコはマリアの襟首を掴むと、彼女のスカルバラクラバを引き剥がす。
「そして生きてお前に罪を償わせる」
「なんだお前か……」
マリアは露骨な失望と嫌悪感を顔に浮かべたが、今まで散々自分の足を引っ張ってきた正義のクライムファイターの正体を知っても彼女は怒りを表わさなかった。
「罪なんて償わせずにさっさと殺せばいいだろう。それともなんだ?」
マリア口が大きく歪んで鋭い犬歯が剥き出しになる。
「私が人の不幸で私腹を肥やしていることを責める気か?」
「私は人を殺さない。人を信じているからだ。お前でさえも」
ヴィールカがそう言った直後、マリアは噴き出し、腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい!?」
「何が人を信じている、だ」
口角泡を飛ばして激昂するヴィールカを容赦なくマリアは嘲笑する。
「人を信じている? 自分だけが特別のつもりか? じゃあそのガスマスクはなんだ?」
大笑いし、目尻に涙を溜めながらマリアは続ける。
「自分だけが正常だと思っていて、私のような異常者と同じ空気を吸いたくないのか?」
そこまで言ってからマリアの顔は急に厳しいものへと変わり、彼女は「どうなんだ!」と夜の空気を切り裂く大声を張り上げた。
「いや……私は……」
図星を突かれたヴィールカが言葉に詰まったのを知ったマリアは大きく息を吸い込んで呼吸を整えてから話し始める。
「今や私は大金持ちだ。ここにある金なんて――」
マリアは札束を空に放り上げた。
「はした金に過ぎない。みんなに感謝しなくちゃなぁ……私を信じ、煽動され、私のために死んだ。そして私は大金を手に入れた」
「貴様……どこまでクズなんだ……!」
「今頃スイス銀行にある私の口座は両手両足でも到底数え切れないゼロで埋め尽くされているだろう。残高照会がもう今から楽しみで楽しみでしょうがない」
それ以上喋るなと言わんばかりに下卑た笑い声を発するマリアの顔面にヴィールカの拳がめり込んだ。
「マリア! 貴様はそれでもヴォルクグラードの、いやアルカの軍人か!?」
自分の胸に手を当ててヴィールカは叫ぶ。
「大切なものを守る! それを生き甲斐にするのが軍人だろう!」
「笑わせるのも大概にしろ。じゃあ質問してやる。大切なものに裏切られたとき、私達のようなろくでもないアルカの軍人は一体どうすればいい? それでも大切なものを守り続けろというのか? お前は一万人の中から選ばれた特殊部隊員が国に帰れば週給百五十ドルの清掃係しか仕事がないという未来が訪れてもなおそう言うのか?」
「大切なものを守って裏切られない社会を作ればいい! それをやるのが政治の役目だ!」
「そして社会を作れるのは血を流した兵士ではなく、寝る直前までウォール・ストリートのダウ平均株価を気にする連中だってことを知り絶望する」
「御託を抜かすな。舌先三寸でここまで来たんだろうが、もうそうはいかない。これからは裁判所と自分の独房を行き来する生活が百年続く」
ヴィールカは最後に「だが」と付け加えた。
「私はお前を終わらせたくない。何がマリア・パステルナークという英雄をそこまで歪めてしまったのかはわからない。だからお前が変わるための力になりたい」
「人は変わることができると……ヴィールカ、お前はそう言うのか?」
「ああ」
突然激しい銃撃が二人を襲った。ヴィールカのマナ・クリスタルが撃ち抜かれ、青い破片が飛び散りローブが消滅していく。
「隠れろ!」
黒で統一された兵士達を視認したマリアは車の陰にヴィールカを引き摺る。
「ブリタニカのPSOB‐SASか!」
「ヴィールカ、私を恨んでいるのはお前だけじゃないんだ。ドイツ人、ロシア人、そして今のようにイギリス人、みんなマリア・パステルナークを恨んでいる」
マリアは深呼吸し、両手でヴィールカの両肩を掴む。
「さっき私に生きて罪を償わせると言ったな。その言葉を信じる。だから、だから、どうか私を助けてくれ。私には生きなければいけない理由があるんだ」
マリアは続ける。
「弟のユーリに伝えなければならないことがある。誰にも話していないことだが、ユーリの『母親』を殺したのはこの私なんだ」
「なんだと……」
「私はいつも怯えていた。真実を知ったユーリに問い質されるのを。怖くて怖くて……逃げ続けた。だけど、もしこの一件が終わっても生きていいと言われたら――ユーリにそのことを伝えようと思うんだ。許してくれるかどうかはわからないが……」
懇願するような目でマリアはヴィールカに訴えた。
「私の『良心』を信じているのなら、私を助けてくれ。私は変わる。変わってみせる」
「マリア……マナ・クリスタルはあるか?」
「ああ。ここにある」
「わかった。お前が私を信じてくれたように、私もお前を信じるよ」
マナ・クリスタルを受け取ったヴィールカは右手にそれを装着し、固着の掛け声と共に赤い縁取りを持つ白のマナ・ローブを纏った。
「必ず生きて罪を償い、弟さんに真実を伝えろ」
「そんなわけあるか」
本来自分のものであるマナ・ローブを身を包んだヴィールカの膝にマリアは拳銃を向ける。すぐに乾いた銃声が鳴り響き、彼女の足の中間点が白からどす黒い赤へと変わった。
「マリア……貴様ァ……!」
「実に便利だよなぁ」
ストラトスの車体で銃弾を防ぐマリアは倒れたヴァルキリーに唾を吐き掛ける。
「極悪人が少しでも良いことを言うと、あたかも最初から善人だったように見える」
更に銃弾が放たれ、今度はヴィールカの両肘が血に染まった。
「ちなみにユーリの母親を殺したのが私というのは本当だ。喉を噛み千切ってやったよ」
失望と絶望、そして失血で顔面蒼白になるヴィールカに対し、人差し指で先端から煙を立ち昇らせるTT‐33拳銃を回転させながら得意顔のマリアは言う。
「まりあ・ぱすてるなーくのおかげで、わたしたちのがっこうはへいわになりました。これからさき、わたしたちのがっこうにはりくぐんもくうぐんもないのです! これをせんりょくのほうきといいます! ほうきとはすててしまうことです!」
幼い子供に言い聞かせるような口調でマリアが喋り始めたので、みるみるうちに更なる怒りでヴィールカの顔は歪んでいった。
「しかしあなたは、けっしてこころぼそくおもうことはありません! わたしたちはただしいことをほかのがっこうよりさきにおこなったのです! よのなかに、ただしいことぐらいつよいものはありません! みなさん、あのおそろしいせんそうがにどとおこらないように、またにどとおこさないようにいたしましょう!」
言い終えた瞬間にマリアは腹を抱えて大笑いする。あまりに盛大に笑うものだから目尻には涙が溜まり、最後はとうとう咳き込んだ。
「そういうわけで、悪いんだが私の身代わりになって死んでくれ」
マリアは「死んでやるものか! 絶対に死んでやるものか!」と激昂するヴィールカの右胸に照準を合わせ、下衆な微笑みを浮かべたままトリガーを引いた。
「クズが」
右胸に大穴を開けて倒れ、動かなくなった少女に侮蔑の言葉を浴びせたマリアの上空を一機のヘリが通過していく。ヘリは機体両脇のミニガンを掃射し、小うるさいPSOB‐SASの隊員達を一度の通過で全滅させてしまった。
「シュテファニア先生が気を利かせてくれたようだな」
まだピックアップの時間には早かったが、マリアは気にもせず着陸したヘリに走り寄り満面の笑顔でドアを開けた。
「お前は――」
「僕です。エーリヒ・シュヴァンクマイエルです」
「生きていたのか……」
キャビンから地面に降り立ったエーリヒは露骨に嫌な顔をしているマリアを抱き締めた。
「大佐、僕と来て下さい。一緒に逃げましょう」
「そんなことはできない」
「できます。僕がずっと傍にいます」
耳元で囁くエーリヒに対しそう返しながら、ヴィールカ以上に面倒くさい奴が出てきたなとマリアは不快感を抱く。どうやら迎えのヘリではなかったようだ。
「エーリヒ」
「なんです?」
「悪いんだがお前も死んでくれ」
マリアはそっとエーリヒの腰に手を伸ばすと、手榴弾を抜き取って片手でピンを外した。
「えっ?」
気の抜けた声を発する少年はマリアに突き飛ばされた。直後に彼女の手から放れた手榴弾がヘリのキャビンに転がり込む。
眼前の光景を理解できないでいるエーリヒに構わず手榴弾が炸裂した。爆発したヘリから飛び散った金属片が彼の左目を切り裂き、左半分の視界が消滅する。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
すぐに傷口に火薬ガスが入り込み、彼は増倍された激痛で絶叫した。
「エーリヒ! お前は気持ち悪いんだよ!」
唾を吐いて逃走するマリアの背中が離れていくにつれ、エーリヒの中にある感情が善意からどす黒いものへと変わっていく。
「なんで……なんでこんな酷いことを……するんだ……」
左手で顔の左半分を覆いながら、エーリヒは震える右手でホルスターからM1917リボルバーを抜いてマリアの後ろ姿に向けた。
「僕はただ、君を助けてあげたくて……手を差し伸べて……あげただけなのに……」
エーリヒは大切なものを守ろうとして結局左目と一緒に失ってしまった。拒絶された。
「なんで……僕に……こんなことをするんだ! 僕は悪くない……悪いのは……悪いのはマリア……君だ……! 僕は君に優しくした! 優しくしてあげた!」
銃声が鳴り響くと同時に、走り去っていくマリアが右足首を失って地面に崩れ落ちた。
「こ、殺さないでくれ!」
エーリヒが重い足取りで近寄るなり、激痛に顔を歪め、顔を脂汗でびっしょりと濡らしたマリアは尻で這いずりながら命乞いをする。
「悪かった……私が悪かった! 何もかも悪かった!」
エーリヒは体中の血が一気に逆上する感覚を味わった。
「じゃあどうして僕を裏切った!? 君に手を差し伸べた僕をどうして裏切ったんだ!」
燃えるヘリの残骸を背後に、荒い呼吸で肩を上下させるエーリヒは怒鳴り声を上げる。
「僕は今日の屈辱を一生忘れない。マリア……なんだい、君のそのザマは? 人民生徒会を打倒し、『アルカの春』を実現させた英雄の誇りはどこに行ったんだ!?」
エーリヒの声は震えていた。
「僕はこんなにも臆病で、愚劣で、自尊心のかけらすらないような女に裏切られて左目まで失った。もしも君が骨の髄まで歪み切った極悪人なら慰めを感じられただろうに……」
右目から幾筋にもなって零れたエーリヒの涙が地面に滴り落ちる。
「情けないよ。だってここにいるのは恥知らずで卑怯者の小娘じゃないか……」
「な、なぁ。落ち着け、な? 復讐は何も生まないと言うし――」
肺に残された僅かな空気をマリアは弁明に消費していた。
「いや」
エーリヒは一歩前に出て、アルカ最後の英雄に銃口を向けた。
「少なくとも僕の気は晴れる」
左手で隠されていないエーリヒの顔の右半分には怒りで顔中の血液が集まっていた。
「おい! やめろ! やめろ!」
放たれた銃弾がマリアの左目を貫いた。眼窩から血と砕け散った眼球の破片が飛び散り、後頭部が弾けて脳が露出した。
「……やめ……け……」
脳と骨の混じった塊が転がる地面に倒れたマリアはなおも命乞いをしようとする。
「……リー……めて……」
脳を損傷させられたせいか、マリアの言語は著しく不明瞭になっていた。それがエーリヒの怒りの炎に更なるガソリンを注ぐ。
「誰がやめるか! やめてやるものか!」
拳銃弾が、今度はマリアの顔面を撃ち抜く。鼻の付け根に大穴が開くと同時にマリアの左目から更なる血が、右目からは眼球がオタマジャクシのように飛び出した。
「おい、あれだ」
燃え盛るヘリの残骸を確認した新たな第三十二大隊のヘリが降下して兵士を展開させる。
「大尉! ご無事ですか!?」
エーリヒはリボルバーに残っている弾丸全てをマリアに叩き込み、彼女を完全に絶命させた上で「うん」と頷き左目のなくなった顔で兵士達に向き直った。
「それよりもパステルナーク大佐が苦しんでいらっしゃる。焼却して差し上げろ」
「りょ、了解……」
若干の困惑を露にしつつ、言われた通りに第三十二大隊の兵士達は息絶えたマリアの上でジェリカンを振るい、灯油を浴びせていく。
エーリヒ、君に謝らなければならない
私は君と恋仲になれるような女ではない
君が何回も何十回もプロポーズをしてくれたとき、私は嬉しかった
だが、それは叶わないことがわかった
私は戦わなくてはならない
勝てるかどうかはわからないが、それでも戦わなくてはならない
私は、私を失ったことでエーリヒに悲しんでほしくない
それは本心だ
いつか全ての問題が片付いたとき、私はエーリヒに会いに行く
でもそれは、一人の友人としてだ
許してもらえないとは思うが、すまなかったと謝らせてほしい
最愛の友へ
マリア・パステルナーク
エーリヒは留学を終え母校に帰る際マリアから渡された手紙を開封していた。
だが、その中身と現実は彼が抱く期待と大きく異なっていた。
「ずっと昔から裏切っていたんじゃないか……僕のことを」
憎悪の光を目に湛え、血で汚れた頬の上に涙の跡を残しながら、エーリヒは汚物を払うようにして手紙をその差出人が燃える炎の中に投げ捨てた。
「一度殺されたぐらいで許されると思うなよ……マリア・パステルナーク……!」
これで終わりじゃない――炎の中で燃えていくマリアの姿を見ながら、エーリヒは確信めいた感情を胸に抱いていた。
今ここにいるマリアが最後のマリアとは思えなかった。何故だかはわからない。だが漠然とした、それでいて揺るがぬ確信がエーリヒの心にあった。