第一章1
一九四七年十月三日。
「クリス!」
爽やかな朝の通学路を俯いて進んでいたクリスティーナ・ラスコワは前方から聞こえた声に鼓膜を打たれて愛嬌のある顔を上げた。
「おはよー!」
棘々しさの一切ない雰囲気を持つ彼女は白リボンでツインテールに纏められた薄灰色の長髪を揺らしながら自分と同じプロトタイプの女子生徒達へと走り寄る。
「この間の選抜試験、結果はどうだった?」
追い付くなり自分と同じように左胸及び右腕上腕部にハンガリー国旗の小さなパッチが縫い付けられた制服を纏うクラスメイトから問いを投げ掛けられたクリスは悲しげに目を伏せて小さく細い首を左右に振った。それは否定を意味していた。
「そう……」
「私も駄目だったよ」
普段は最前線ではなく事務補助員として日々本校での軍務に就いている少女らは口々に自分が先週末行われた学園軍のヴァルキリー選抜試験の高いハードルを越えられなかったあまりにも辛い事実を短い言葉に変換して発する。
「これで落ちたの五回目」
「もう諦めようかな……」
スレッジハンマーブックスの日本人記者曰くヴァルキリーが月に三十万円の給料を得る正社員なら後方要員のプロトタイプは月に十万円も稼げないアルバイトに等しいという。
「私達、また馬鹿にされるんだろうね」
一人がここに立つ全員の共通体験である過去――昼休みにたまたま食堂で一緒になった同じ学園のヴァルキリー達から露骨に聞こえる大きな声で理不尽極まりない嘲笑と罵声を浴びせられた――に起因する響きを唇の間から漏らす。
校内ヒエラルキーの上位に立つヴァルキリーの中にはプロトタイプを見下すのが当然の権利であると考えている輩が少なからずおり、自分が学園にとって大切な戦力であるため多少の悪事にはお咎めなしの不文律を知っている彼女達はしばしば確信犯で共通認識故に反論できない下位の級友に幼稚な誹謗中傷を繰り返していた。
「確かに味方同士で人を見下すのは幼稚かもしれない」
クリス達が何とかしてヴァルキリーになろうとしているのはハンガリー本国のためでもトランシルヴァニア学園のためでも級友達のためでもなく、単純に上位者からの仕打ちに耐えられないからだった。被害者ぶって声を上げてもヒエラルキーの下位層にいる以上は戯言扱いで終わる。だからこそ彼女達は自分らを侮辱した者と同じヴァルキリーになり、あわよくば彼女達よりも上位に立って自分達がされたことをそっくりそのままやり返して溜飲を下げてやろうとさえ日々妄想していた。
「でも、だからって何も言い返さないのが正しい訳がないんだよ」
重苦しい沈黙を纏って歩き始めたクリス達は七分十二秒後に赤信号で歩を止めた。
「あの人達は私達とは違うんだよね」
目の前の良く整備されたコンクリート面上をパンター中戦車を載せたキャリアーが三台、排気ガスの煙を残しながら縦隊を作って進んでいく。
「世の中にはなりたいものになれる人となれない人がいて、私達はきっと後者なんだよ」
日常と非日常の線引きが極めて曖昧になっている狭い世界の住人達は後ろ向きな会話を交えはするものの、眼前の物々しい車列については一切触れようとしなかった。
「私達……これからも……」
信号が青に変わった直後、クリスはふと足を止めて胸中の如く曇り始めた空を見上げた。
「ずっとこうなのかな……?」