第一章1
一九四三年八月十一日の午前十二時。
生徒達が午前中の退屈な授業を終えて席を立っている頃、エーリヒ・シュヴァンクマイエルはシュネーヴァルト学園地下の薄暗く湿った空間を進んでいた。
口を噤んで歩く少年の意識はいつしか今いる場所から過去の記憶へと旅立つ。
あの日……地平線の果てまで広がる青空には雲一つなかった。
横一列に並んだ、風力発電の白いプロペラがゆっくりと回転しているその下には緑が生い茂っている。
緑の上で白が踊る。
白い帽子。そして同じように白いワンピース姿の少女がエーリヒに振り向き、微笑んだ。
「もしもここ以外に私が生きても良い場所があるのなら、それはとても嬉しいことなんだって……そう思うんだ」
ただ、紺色の髪を風に靡かせる彼女が見せたその笑みはとても悲しげだった。
「生徒手帳を」
幼さを残すボーイッシュな少女然とした顔立ちと青みがかった黒髪の持ち主はゲートの前で立ち止まるなり看守から声をかけられたことで現実世界に戻ってきた。
「どうぞ」
エーリヒは言われた通り胸ポケットから取り出した生徒手帳を看守に渡す。
「先月末より始まったソビエト連邦政府によるヴォルガ・ドイツ人の国外追放について、カール・ゲルデラー首相は問題の解決をアルカにて行うことを先程発表致しました」
どこからともなく聞こえてきた事務的な声がエーリヒの鼓膜を打つ。
「一方、二日前にヴォルクグラード人民学園の最高指導者であるマリア・パステルナーク大佐が旧人民生徒会派に襲撃された事件ですが、アルカ各校の生徒会は犠牲となったヴォルクグラードの生徒会役員に哀悼の意を表すると共に、パステルナーク大佐が掲げる旧人民生徒会派の根絶を全面的に支持するとの声明を……」
小奇麗な看守室に置かれたテレビのブラウン管の中ではシュネーヴァルト学園放送委員会の年若いアナウンサーが原稿を見ながら話していた。
「ありがとうございました。お返しします」
看守がエーリヒに検め終えた生徒手帳を渡すのと同時にゲートが開く。
「僕だ」
書類を片手に無表情で歩いたエーリヒは『4602』と書かれた牢の前で足を止めた。
「昔々のお話」
彼の声に返答する形で鉄格子奥の暗闇から無邪気さを孕んだ少女の声が聞こえてきた。
「とある村に奴隷の兄弟がいた。ある日、二人はもうこんな場所にいたくないと思い脱走することにした。二人はすぐに村と外界を分かつ川に辿り着いた」
エーリヒは黙って少女の話に耳を傾ける。
「川の向こうには草原が広がっていた」
次に「そう! 自由の世界さ!」と少女の声が突然大きくなる。
「兄の方は難なく川を跳び越えて向こう岸に渡った。だけど気の弱い弟は川に落ちてしまうのが怖くて跳べなかった……」
淡々とした説明の口調は、すぐ「兄がひらめいたのはその時だ!」という大袈裟な舞台のナレーションめいたものに変わる。
「兄は大声で弟にこう言った。『よく聞けよ! 俺がホースで水の橋を作るから、お前はその上を歩いて渡って来い!』」
少女の声に嬉しそうな響きが混じった。楽しくて仕方がない様子だ。
「弟は怒鳴り散らした。『兄さん! 途中でホースが詰まったらどうするの!?』とね」
そして牢の暗闇の中に猫じみた少女の縦スリットの瞳が浮かび上がった。
「この世界についてわかりやすく解説してみたよ」
少女は僅かな明かりの中で小さな音を立てつつ眼鏡を直し楽しそうに微笑んだ。
「それは違う」
少女の言葉を否定し首を横に振ったエーリヒは溜め息混じりに話し始める。
「前世紀の終わり……巨大隕石の落下と、それをきっかけにして始まった十五年間にも及ぶ世界規模の戦争が人類に歴史上類を見ない未曾有の被害をもたらした。これがアポカリプス・ナウと記録されている出来事だ。やがて世界の混乱はグレン&グレンダ社によって収められ、同社は今後一切人々が争わずに済む世界を作ろうと考えた。それがプロトタイプを教育し、世界各国の代理勢力である学園に所属させ、ここアルカという永久戦争地帯でそれぞれの母国の代わりに戦わせるシステムだ」
「なるほど、続けて」
「アルカはかつて日本の山形県と言われていた。各勢力の学園都市は旧山形県にあった市や町に配置されている。そしてここ、ドイツ連邦共和国の代理勢力であるシュネーヴァルト学園はアルカ南東部の学園都市タカハタベルクに校舎を構えているんだ」
少女の言葉を待たずにエーリヒは説明を続けた。
「今や民族対立、資源の利権争いといった国家間の問題は全てアルカにおける代理戦争で処理されている。アルカにいるプロトタイプなら皆知っていることだよ」
「へぇ。プロトタイプね」
エーリヒが最後に口にした言葉を受けた少女の目が緩む。
「まあいいんじゃないのかな。楽しくなさそうな説明をしてくれてありがとう」
感心したように言い、
「それで、今君が話した要素で構成される世界にはどういう『意味』があるのかな?」
少女――ノエル・フォルテンマイヤーは牢獄の奥で意地悪く笑った。
「私はそれを聞きたいね、エーリヒ・シュヴァンクマイエル……いや、エリー!」