HOMECOMING 2
七時間十二分前。
シャローム学園のキブツ――学生寮や図書館等が立ち並ぶ同校生徒達の生活共同体地区はアルカ西部ツルオカスタン・カモ自治区の一角にある。
「ただいま」
緑の芝生や花畑が広がる空間を歩いてキブツ内の学生寮に到着したレア・アンシェルは自室のドアを開けて中に入る。
「アイス買ってきたわよ。出てきなさい」
オリーブドラブ一色の軍服に身を包み、アルカにおけるイスラエルの代理勢力に通う女子生徒は左肩にスリングで掛けていたガリル自動小銃を部屋のラックに戻すと、右手に抱えていた食料入りの紙袋をキッチンのカウンターに置いた。
「おーかーえーりーなーさーいー」
「あのねぇ……」
そして『決断的伝説』と筆で書かれた掛け軸が強烈なインパクトを放っている以外にはこれといった印象を受けない簡素な空間に足を踏み入れたレアは部屋の中央で胡坐をかき扇風機に向かっているルームメイトを見て呆れの溜め息を吐いた。
「あーづーいー」
レアの眼前で黒いスポーツブラとパンツだけを纏い汗だくになりながら生暖かい風を浴び続ける女子生徒の名はタスクフォース・ハヘブレを指揮するシャローム学園最強のヴァルキリー、サブラ・グリンゴールド……と姉妹同然の付き合いがあるS中佐という。勿論S中佐とは艶のある長い黒髪を後ろで纏めている彼女の本当の名前ではない。機密保持の観点から本名を名乗ることを許されていないのだ。
「あづい……」
しかしヌカ・コーラの空瓶を周囲に散らばらせて扇風機から決して離れようとしない彼女の姿は良くてダメ人間、悪く言えば人間の屑である。
「全く。サブラが見たら頭を抱えるわね」
百七十センチはある長身のルームメイトの女性的なフォルムを維持しつつも六つに割れた腹筋や逞しい上腕二頭筋をすっかり見慣れているレアは頭痛が痛いとでも言いたげな様子で眉間に皺を寄せつつ両腰に手を当てる。
「私の親友であるSちゅ……グリンゴールド中佐はそんなことを言う人でありません」
明朝体で『あたりめ』と書かれた団扇で扇ぎつつS中佐はそう返す。
「私は道徳的にも社会的にも正当化されたイスラエルというユダヤ人国家のために今も働いています」
「家でゴロゴロしながら扇風機に当たってるだけじゃない」
「道徳的にも社会的にも正当化されたイスラエルというユダヤ人国家のために働いていると扇風機に当たりながらゴロゴロしたくもなります。社会の常識です」
「そんな常識初めて聞いたわよ。ていうか今作ったでしょ」
「一九四八年の五月十四日からは常識です」
「はいはい」
部屋に電話がかかってきたのはその時だ。
「もしもし?」
受話器からの声を聞くなり、レアの顔はすぐに真剣なものへと変わる。
そして肩口まで伸びたショートカットを揺らす彼女から受話器を受け取るなり通話相手に「了解しました」と即答したS中佐の姿はつい数十秒前まで扇風機に当たっていた人物のそれとはまるで違っていた。まるで自らをイスラエルの歯車と規定したアルカ始まって以来の恐るべきヴァルキリー、サブラ・グリンゴールド中佐のようだった。
受話器を置いたS中佐は機械的な素早い動作で部屋のハンガーに掛けられた軍服に手をかける。上着の右胸と左胸にはそれぞれ空挺徽章とシャローム学園海軍特殊部隊シャイエテット13の徽章が付き、左肩部には赤いベレー帽が嵌められている。
「今日の食事当番はサブ……いえ、貴方よ」
背後から声をかけられて振り向くS中佐の瞳に不安げな顔をしたレアの姿が映った。
「私の料理は生ゴミ以下の汚物だと仰っていたではありませんか」
「それでも……今日の食事当番はS中佐なの。不味くたって構わないから今日の食事を作って、そして私と一緒に食べて。後片付けは私がする」
「すみません。急ぎますので」
「行かないで!」
レアは上着を着て部屋を出て行こうとするS中佐の袖を掴む。
「確かに貴方は優秀なヴァルキリーよ。でも、だからといって無事に帰って来られる保証はどこにもない。みんなそうだった」
二人がルームシェアを行っている学生寮の部屋の片隅にはヴァルキリー時代のレアが仲間達と一緒に写っている写真がある。それが何を意味しているのかレアは話さなかったし、S中佐も自分から聞こうとしたことはなかった。
「必ず戻ります」
向き直ったS中佐は目尻に涙を溜めたレアの手を握り、
「私は歯車が失われた時に何が起きるのかをよく理解しています」
お互いの胸の高さまで持ち上げて優しげな笑みを彼女に送った。
「大丈夫です。Sちゅ……いえ、サブラ・グリンゴールドは果たせない約束はしません」