第三章1
テロ発生から一週間が経過したアルカ北西部の港町サカタグラードは文字通りの無法地帯と化していた。かつてのグリャーズヌイ特別区が学園都市全体に広がったかのような汚い町並みには絶えず銃声や悲鳴が鳴り響き、時折爆発音が木霊している。
「いやー実によく燃えてるね」
ロープで吊るしたソ連製ZiS‐3野砲や米国製M3ハーフトラックを揺らして編隊飛行する第三十二大隊のヘリの下、ノエル・フォルテンマイヤーは高地の頂上から双眼鏡で幾筋もの黒煙を立ち昇らせるマリア・パステルナークの王国を覗き込んでいた。
「おっほぉ。街路樹にヴァルキリーが吊るされてる。んー? あれは何かな?」
何かを見つける度にノエルは心底楽しそうな声を上げた。
「ねー?」
そして双眼鏡を降ろしたノエルは微笑しながら横目で顔の下半分を覆うガスマスク越しに歯軋りするヴィールカ・シュレメンコに同意を求める。
「ヴィールカ、よく見ておくといいよ。人の本質っていうのはとっても醜いものなんだ」
「気安く触れるな!」
肩にノエルの手が置かれた瞬間、ヴィールカは怒声を上げてそれを振り払った。
「そう怒らない怒らない。それに怒りをぶつけるのなら君自身だよ、ヴィールカ」
眼鏡の奥にあるテウルギストの瞳に邪悪な光が宿った。
「君はヴォルクグラードの生徒達に助かりたかったら自らが最も危険だと思う者を殺せというメッセージを送ったよね?」
「ああ!」
ヴィールカは自分の胸に手をあてる。
「だが、生徒達に味方のヴァルキリーを殺せとは一言も言っていない!」
「それが不味かったんだよねー。ヴォルクグラードの生徒達はマリアが行動を起こすまでの長い間、人民生徒会という味方に抑圧され続けた。彼らにとって恐怖の対象とは他校の兵士やタスクフォースではなく、自分達の生徒会とそれを守る軍隊だったんだ。そして軍隊の象徴はヴァルキリーだと誰もが無意識のうちにそう刷り込まれていた」
「嘘だ! そんなことはない! 決してない! 私は信じている。ヴォルクグラードの生徒達は正しい心を持っていると……」
「怒りたくなる気持ちはわかるよ。だけどヴィールカ、生徒達が一致団結してテロに立ち向かわず、手近な仲間を殺す道を選んだ現実はどうするのかな?」
満面の笑みを浮かべてノエルは続けた。
「良心を持っていれば自分可愛さに生徒達がヴァルキリーを殺すことはない。必ずやテロの背後にある私の姿を見つけ出し打倒する――もしかしてそう思ってた?」
ヴィールカは心臓を鷲掴みにされたかのような感覚を覚えた。
「計算済みだったのか……」
全てノエルにはわかっていたのだ。ヴィールカがテロによってマリア・パステルナークやヴォルクグラード人民学園の生徒達に良心による決起を促し、自分の背後にある第三十二大隊の企みを粉砕しテウルギスト達を打倒させようとしていたことを。
「ああでも勘違いしてほしくないんだけど――」
ノエルは眼鏡の奥にある爬虫類じみた瞳を細める。
「私は君が裏切ろうとしたことを責める気も、裏切ったからといって君を殺す気もないよ」
ただ「だけどこれだけは知っておいてほしい」と彼女は付け加えた。
「ここには瞳の色が美しいからという理由で同情してくれるようなロマンチストはいない」
寒々とした鈍い光がノエルの瞳には湛えられていた。
「アルカは人の悪意が波打つ黒い海なんだよ」
「それでも、だとしても」
ヴィールカは自分に言い聞かせるようにして言葉を発した。
「私は人の心は美しいものだと信じている!」
「だったらそう思えばいいんじゃないかな。少なくとも君の中ではそうなんだろうし、私は否定しない。むしろそういう価値観もアリなんじゃないかって思うよ」
遥か頂上から見下ろすような口調で吐き出されるノエルの言葉を背中に浴びながら、ヴィールカは憮然とした表情でその場から立ち去っていく。
入れ違いになってエーリヒが高地の頂上へとやってきた。
「ノエル、ソ連本国はヴォルクグラードの現政権に問題の解決能力がないと判断したよ」
何故か手に鈴蘭の植木鉢を抱えたエーリヒは淡々と伝える。
「ロイヤリストへの連絡も済んでいる」
エーリヒが口にしたロイヤリストとは人民生徒会以前の政治体制を支持する元ヴォルクグラード人民学園の生徒達だ。
第三十二大隊は有事に備え、シュネーヴァルト学園に亡命してきた元軍属のロイヤリスト達に最先端の高度な軍事訓練を受けさせていた。母校の奪還を夢見る彼らの士気は高く、今や第三十二大隊と同等かそれ以上の実力を有している。規模に至っては二倍近い。
「あとは君の命令一つで作戦を始めることが可能だ」
ノエルは頷き、後悔の吐息を漏らした。
「はぁ。やっぱり最初からエリーに任せるべきだったなぁ」
「一体どの口で言ってるんだい……?」
ノエルは眉間に皺を寄せるエーリヒにいつも通り「にしし」と無邪気な笑みを送り、無線機のスイッチをオンにした。
「身にしみてー! ひたぶるにー! うら悲しー!」
ノエルの合図と共に、ロイヤリスト兵達がチャビン・デ・ワンタル――ペルーの地下遺跡の名前から取られた地下トンネル――を進み始めた。ヴォルクグラード人民学園空軍の内通者が実施した超低空での飛行訓練による爆音を隠れ蓑にして掘られた地下通路の中を進む彼らは手榴弾と弾薬を棘のように纏い、半自動小銃や短機関銃の木製の部分を強く握り締め、チェストリグを装着した防弾チョッキの下で胸を高鳴らせている。
「第一斑はサカタグラード北部の物資集積所、第二班は放送局の制圧だ」
「第三班と第四班は本校校舎へ向かえ」
ロイヤリスト兵達が足早に移動する照明や換気装置がしっかりと備わった地下トンネルの高さは二メートルもあった。その上下左右は頑丈な木枠で固められ、床はカーペットが敷き詰められている。壁にはご丁寧に進行方向を示す矢印まで描かれていた。
「Урааааааааааааааааааааааааааааааааааа!」
やがてサカタグラードの至る所からマンホールを開けてレッドフレクターと呼ばれる赤黒パターンの迷彩服を着用、マスカと呼ばれるソ連製の特殊部隊用ヘルメットを被り、顔を黒いバラクラバとゴーグルで覆い隠したロイヤリスト兵が現れた。
「なんだこいつら!?」
自分達が生き残るために味方のヴァルキリーを殺そうと追いかけていたヴォルクグラード人民学園の生徒達が驚愕して足を止めるが、ロイヤリスト兵達は手にした米国製のM1カービンや同国製トンプソンM1928短機関銃及びドイツ製MP40短機関銃で何の躊躇いもなく彼らを撃ち殺していく。
「生徒諸君! 武器を置くのだ! これは君達の戦争ではない!」
事前に潜入していたロイヤリスト兵は戦闘が始まると同時にサカタグラード市街のあちこちにあるスピーカーで呼び掛けを始めた。
「我々は君達を傷つけることを望んではいない! 我々は諸君らを苦痛から解放する為に来たのだ! 武器を捨て、投降したまえ!」
呼び掛けの中にあえて『解放』という言葉を入れたのはロイヤリスト兵なりの痛烈な皮肉だった。一体どれほど多くの悪行が『解放』の名目で正当化されてきたことか。
「生徒諸君! もしも君達が無駄な抵抗を続けるのなら、君達は一人残らずこのサカタグラードで死ぬことになるだろう!」
激しさを増し、形を変えてなおも続くサカタグラードでのヴォルクグラード人民学園生徒同士の殺し合いは高地から双眼鏡で眺めるノエルを満足させた。
「ロイヤリストのみんなはなかなかに良い動きだね」
「当たり前だよ。僕達が訓練したんだから」
エーリヒは黒いガンケースの中からノエルが使うMKb42自動小銃を取り出して木箱の上に置く。続いてマガジンに七・九二ミリ弾を一発一発装填していく。
「エリー、マガジンに三十発入れないの?」
こくりとエーリヒは頷く。
スプレーで黄色と黒の虎縞が描かれ、ハンドガード部にフォアグリップが付いたMKb42自動小銃のマガジンは緩いバナナ型で三十発の七・九二ミリ弾を装填できるが、マガジンのバネがちゃんと弾丸を押し上げないと弾薬が銃の薬室に送られず発砲できないことがある。そのため、正規軍のタスクフォースでは三十発の限界までマガジンに詰めるのに対し、第三十二大隊ではバネがよく効くように三十発中二十九発しか装填しない。
「弾詰まりを起こしたらマガジンを取って詰まった中の弾丸を抜くこと」
「そのあとはまたマガジンを交換して、次にチャージングハンドルを引いて発砲だね」
女性的な柔らかさがたっぷりと含まれた声をノエルは発する。
「そう」
「あのさーエリー」
ノエルはジト目でエーリヒを見た。
「君みたいな年頃の男の子が私みたいな可愛い女の子じゃなくて、こんな自動小銃にばかり詳しくなってどうするの? もしかして君は銃と結婚するつもりなのかい?」
「そのつもりはないけど――」
エーリヒは手元のMKb42自動小銃と眼前の少女を見比べる。
「少なくとも銃はお風呂に入っていない体で男の子に抱きついてくることはないよ」