第三章8
夕方になる頃、タスクフォース・ハヘブレはグリャーズヌイ特別区のおよそ九割を制圧下に置いていた。タスクフォース599の抵抗が微弱になっていくにつれ、市街地から聞こえる遠雷のような砲声も共に弱まっていく。特別区の一塊一塊はシャローム兵の赤く貴重な血で購われたのだ。
「グリンゴールド中佐、潜入中のモサド工作員から緊急連絡が」
背部飛行ユニットから青いマナ・エネルギーの粒子を放出してグリャーズヌイ特別区の上空に滞空しつつ、軍服の胸ポケットに忍ばせていたガラスの小瓶から浄水用錠剤を取り出し、水筒の口に放り込むサブラに部下のヴァルキリーが焦燥した様子で声をかけた。
「なんです?」
「バタフライ・キャットの姿を確認できないとのことです」
「わかりました。では私が行って探し、彼女を除去します。皆さんは……」
部下を連れてタスクフォース599の司令部に向かおうとした時、サブラは西のブラッド・シー方面から自分達に数発の誘導弾が白煙を引いて迫っていることに気付いた。
「全ヴァルキリー、攻撃を回避してください」
「え?」
反応が遅れたヴァルキリーのすぐ横と下で誘導弾が爆発し、彼女は一瞬で爆風と破片により湿った肉塊となって海へと落下した。
「ブラッド・シーのヴォルクグラード艦からですね」
冷静に察するサブラ目掛けて海上から音速を超えた速度で誘導弾が飛来する。ワルツを踊るようにそれらを回避した彼女のガリル自動小銃から閃光が迸るたび、爆発で飛び散った誘導弾の破片が白煙の尾を引きながら空を舞う。
「ブレイク! ブレイク!」
サブラが冷静に対処する一方、口内の唾液を干上がらせ、濃緑色のマナ・ローブに包まれた全身の毛穴という毛穴から脂汗を噴き出す他のシャローム軍ヴァルキリーは腰部レイルからフレア(注1)を放出、回避機動を繰り返して誘導弾の直撃を避ける。
「イワンの腐れ電柱も大したことないわ!」
「何も知らずにわかったようなことを言う」
吐き捨てるように言ったヴァルキリーの飛行ユニットが踏み台にされ、飛び上がった褐色の少女が空中で反転、逆さまになった状態で発砲する。
「出ましたね」
その姿を視認したサブラは新しいマガジンをガリル自動小銃に差し込み、
「出た! 全裸将軍だ!」
シャローム軍のヴァルキリー達は一斉にバタフライ・キャット目掛けて突っ込んでいく。
「全裸はすっこんでなさいよ!」
「私だって好きで全裸をやっているわけではない!」
突進した一人のシャローム軍ヴァルキリーがバタフライ・キャットとお互い正対しながら渦を作るように高速で旋回する。
「本当はセミヌードの癖して!」
シャローム軍のヴァルキリーは右肩のレイルに装着したソ連製B‐10無反動砲でバタフライ・キャットのマナ・フィールドを激しく揺らす。だが、耳をつんざく轟音と共に炸裂し、死の破片を四方八方にまき散らす砲弾で撃たれた側は爆炎の中から飛び出すなり右のハイキックを浴びせてきた。
大腿筋が発達した張りのある足で側頭部を薙ぎ払うかのような一撃を受けたヴァルキリーは大きく左に一回転するが、また正対すると同時に再装填を済ませた無反動砲をぶっ放す。しかし撃ち出された砲弾はバタフライ・キャットの褐色の頬を煙で撫でただけで、彼女は先程とは逆に左のハイキックを相手の顔面に浴びせ、その勢いのままに回転、無防備になったヴァルキリーの腹部に鉈の一撃を浴びせて絶命させる。
「頼むから私にこれ以上、同じ学校の生徒を殺させるな!」
コルダイト火薬の悪臭で鼻腔を、硝煙で目と鼻の粘膜を突かれたバタフライ・キャットは苦々しい表情で周囲を見回す。
「サブラは――サブラ・グリンゴールドはどこにいる!?」
返答はなく、今度は彼女の後ろ斜め上方から二人のシャローム軍ヴァルキリーが攻撃を仕掛けてきた。
一人はバタフライ・キャットと同じ高度になるなりレイルの鞘から鉈を抜き、飛行ユニットのノズルから青い粒子を噴射して襲い掛かった。バタフライ・キャットは左上からの一撃を右手に持ち替えた鉈で受け止めると、剥き出しの腹部へ左手に持ち替えたAK47自動小銃の連射を浴びせた。
「サブラ・グリンゴールドはここにいますよ」
ヴァルキリーの死体を投げ捨てた時、背後に回り込んでいたもう一人――サブラ・グリンゴールドが体を横に向け、足元にマナ・フィールドを展開、それを疑似的な地面として踏み込み、バタフライ・キャットに下からのマナ・ランスによる斬撃を浴びせてきた。褐色の少女が向き直って銃口を向けようとしたAK47自動小銃の機関部が両断される。赤熱化した残骸が持ち主の手を離れるよりも早く、サブラは逆手に持ったマナ・ランスの切っ先で彼女を串刺しにせんとした。
バタフライ・キャットは蝶のそれに似た両翼を持つ背部飛行ユニットのノズルを噴射させ、背面跳びのような形で距離を取る。サブラの突き出したマナ・ランスの鋭い刃は空気を切り裂いただけだった。
サブラは武器をガリル自動小銃に持ち替え、海上へと降下していくバタフライ・キャットから伸びるマナ・エネルギーの青い光に向けて発砲した。サブラの隣には最後の一人になったシャローム軍ヴァルキリーが滞空し、両肩のレイルに取り付けられたランチャーから誘導弾を矢継ぎ早に発射する。
予備のAK47自動小銃を手にしたバタフライ・キャットが青い障壁で曳光弾混じりの七・六二ミリ弾を弾いた直後、大量の誘導弾が着弾した。
「うわっ!」
炸裂の瞬間、無意識にバタフライ・キャットは目を閉じてしまう。目蓋の裏が真っ赤になり、爆発がマナ・エネルギーによる防御結界を激しく揺さぶる。衝撃で霧散した粒子の輝きと剥離飛散したAK47自動小銃の錆止め塗装の細片が混ざり合って黒煙に流された。
「いける!」
確信の声を上げたシャローム軍ヴァルキリーはレイルから火花を散らして空になったランチャーを切り離す。そして煙の中から出てきたバタフライ・キャットに鉈を振り上げて接近し――頭部を熟れた果物のように弾け散らされた。
「もううんざりだ……道化を演じて仲間を殺すのは……!」
「仰る意味が理解できません」
血の霧の中でバタフライ・キャットが振り向くや否や激しい衝撃が彼女を襲い、組み付いたサブラは背部飛行ユニットのスラスターを猛噴射させる。
激しく撃ち上げられる高射砲や対空砲の炸裂と発射の閃光で照らし出された二人は錐揉み回転しながら、全長百八十九m、全幅三十四mの艦体前部に艦砲や各種ミサイル発射機を、中央に艦橋構造物を配したヴォルクグラード学園海軍保有のモスクワ級航空巡洋艦の後部ヘリ甲板へと転がり込んだ。
艦上にいた作業員達が慌てて逃走し、マナ・フィールドに包まれた二人の少女がその余波でヘリを吹き飛ばしながら艦体を抉る。
「サブラ・グリンゴールド! 私の話を聞け!」
サブラを引き剥がしたバタフライ・キャットは潮風で頬を嬲られつつ、数機のヘリが燃え盛る飛行甲板を滑走して距離を取る。
「私はお前の敵ではない! そしてお前の敵は私ではない!」
バタフライ・キャットは自分の胸に手を当て、内臓を吐き出さんばかりの勢いで叫んだ。
「私の正体はモサドの工作員だ! 我々は同じイスラエルの人間なのだ!」
「はい?」
あまりにも唐突な発言を受けてサブラは一瞬狐に摘まれたかのような顔になるも、すぐにいつもの乏しい表情に戻った。
「いえ、貴方はタスクフォース599の全裸将軍ことバタフライ・キャットです」
「何が全裸将軍だ! 狂人を演じた方が狂人に溶け込める。ただそれだけのこと!」
まだ生暖かい絶命した作業員の返り血をべったりと整った顔に付着させ、目も鼻も口も赤黒く汚したバタフライ・キャットは語る。
フリーズ・ドライ・ボックス――モサドが得意とする、敵の組織内に工作員を事前待機させておき、必要な時に解凍する手法――によってタスクフォース599のリーダーとなった自分にX生徒会から与えられた任務は意図的に破滅的な指示を出し、イスラエルにとってプラスになる形で同部隊を壊滅に追い込むことだと。
「この船だってシャローム学園に金で買収されているんだ」
バタフライ・キャットの横でまたヘリが爆発する。艦載ヘリ――フランス製アルエットの鋭い破片が金切り声にも似た響きを発して飛散し、小破した別のヘリや航空巡洋艦の飛行甲板に突き刺さった。
「私はX生徒会から、グリャーズヌイ特別区の陥落が不可避となった時点でこの船に脱出するよう命令を受けていた」
「なるほど」
それでも唐突にしていい加減極まりない真実を聞かされたサブラは紫の目を細める。
「それがX生徒会のシナリオなのですね。なるほどホテル・ブラボーの一件はそういうことだったのですか。計画された敗北でアンゴラにおけるダイヤモンド鉱山の採掘権をイスラエルが独占するように仕向ける……しかし、それは私のような歯車が気にすることではありません。そしてニーチェはこう言いました」
一瞬の沈黙の後、
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ!」
サブラは大きく目を見開き、背部飛行ユニットのノズルから爆発的な青いマナ・エネルギーの粒子を解放した。
「貴方に与えられた任務はまだ終わっていない!」
「何だと!?」
バタフライ・キャットはAK47自動小銃を向けようとするが間に合わず、サブラの肉薄を許してしまう。
「貴方はここで私に殺されて、初めてその任務を完遂する!」
二人はお互い腕四つで組み合う。マナ・フィールドの接触部から激しい火花が散った。
「狂ったか! 冗談ではない!」
「私は正常ですし論理的なことを話しているつもりです。モサド工作員になった時点で貴方の命は貴方の物ではなくイスラエルという国家の共有物となった」
サブラは続ける。
「貴方に脱出するようX生徒会が命令したように、私もまた貴方の抹殺をX生徒会から命令されています。それは――」
マナ・フィールドが共鳴し、お互いの骨がミシミシと軋んだ音を立て始める。
「お前が私を殺すことでシナリオが完成すると! そう言いたいのか!?」
飛行甲板を乗り越えた青い光が海水を吹き上げ、叫びを上げるバタフライ・キャットの額を滴が伝い、褐色の首筋に流れ込んだ。
「私はこんなところで死ぬつもりはない!」
「なぜ貴方のようなソツィオマットがモサド工作員になれたのかが不思議でなりません」
バタフライ・キャットを利己主義者と評したサブラは淡々と話す。
「貴方は死にます。何故ならイスラエルの国益のために私が殺すからです」
バタフライ・キャットの鳩尾に膝蹴りを叩き込んで悶絶させたサブラは彼女を押し倒すと自らの右腕を曲げ、強引に銃身分のスペースを作ってガリル自動小銃の銃口をパワーに圧倒されて腰砕けになった褐色の少女の顔面へと向ける。
「即死させますので抵抗を控えてください。任務とはいえ貴方は貴重なイスラエルの国有財産を破壊し、殺害した。これらは純然たる犯罪行為であり、万死に値する行いです」
「殺したのは私ではない! バタフライ・キャットだ!」
サブラの顎に下からの頭突きを浴びせ、骨と肉越しに彼女の脳を揺らして危機を出したバタフライ・キャットは立ち上がり、艦橋を背にしつつ傾いた眼鏡を直す少女に向かって左右のフックを棍棒のように振り回しながら突っ込む。
「魯迅は言いました」
サブラは伸ばした左手でバタフライ・キャットの後頭部を掴み、右手で彼女の顔面を激しく殴打する。そして右膝を相手の下腹部に叩き込んだ。
「なんて言ったんだ!」
バタフライ・キャットは伸ばした右手でサブラの後頭部を掴み、左手で彼女の顔面を激しく殴打する。そして左膝を相手の下腹部に叩き込んだ。
「自分で盗賊だと名乗る者には用心する必要がない。裏をかえせば善人だからだ。しかし、自分で正人君子だと名乗るものは用心しなければならぬ。裏をかえせば盗賊だからだ!」
ほざくなとばかりにサブラの顔面へ渾身の膝蹴りを突き上げたバタフライ・キャットは追い打ちで右フックを放つが、サブラが上体を後ろに反らして避けて空振りさせたため、勢いのまま前のめりに倒れてしまう。
待っていましたとばかりにサブラは長い足でバタフライ・キャットの頭部を何度も蹴り上げた。強烈な蹴撃が頭頂部を捉えるたび、猫耳の髪飾りが付いたその下にある頭蓋骨に亀裂が入り、骨の軋む音と共に脳が激しく揺れた。
「私はお世辞にも善人ではない!」
頭に付けた猫耳の飾りの先から汗を振り撒き、自らを鼓舞するように叫んで立ち上がったバタフライ・キャットは大きく踏み込みながら左右のフックを連打、サブラも呼応するようにして大振りのパンチを立て続けに放つ。
激しい乱打戦の応酬が続く中、サブラの側頭部にパンチがヒットした。バタフライ・キャットは尻餅をついた彼女に襲い掛かり、上から自らの上体で押し潰すようにして立ち上がろうとする彼女の首を固定し、四つん這いに状態にして頭部へ膝蹴りを連打した。
「だが、例えバタフライ・キャットが悪であっても、私自身は悪に堕ちたわけではない。私は贖罪のために戦っている、何もしてやれなかった部下達への!」
バタフライ・キャットは荒い呼吸で肩を上下させながら右頬をサブラの飛行ユニットの上に乗せ、口端から涎を滴らせつつ何度も何度も膝爆弾を彼女の脳天にお見舞いする。
「何百万人もいるプロトタイプの取るに足らない戯言ですね」
「口の減らない女だ!」
汗と血みどろのサブラが何の躊躇いもなくそう口にしたので、バタフライ・キャットはわざと首のロックを外して彼女を立ち上がらせた。すぐに左右の連打がサブラを襲う。バタフライ・キャットはフックだけではなく、一撃の度に肺から酸素を奪うボディーブローやバットのように相手の太腿を強打するローキックも織り交ぜ、歩行する人間サンドバッグ状態へと追い込まれたサブラに徹底的な猛打を浴びせた。
「使い物にならないプロトタイプを生かしておくこと、ヴァルキリーがそのことで感情を左右されることはどちらも資源と人的リソースの無駄遣いに過ぎません」
凄まじい打撃の雨を浴び、無色透明の胃液で口の周囲を汚してなおサブラは言い続けた。
「そもそもプロトタイプやヴァルキリーに感情など不要です」
脇腹をボディーブローで抉られようが、ガードの上から効く強烈なパンチを受けようが、
「グレン&グレンダ社最大の失敗は歯車である筈のプロトタイプやヴァルキリーに感情を持たせてしまったことでしょう」
サブラはいつも通りの他人事めいた口調と客観的な発言を止めようとしない。
「勝手に言ってろ!」
バタフライ・キャットはガードを下げ、
「ウサギの穴に落ちたレツァフ・べナイムが!」
サブラを『人殺しの目をした本物の戦士』と罵倒した彼女は大きく前に踏み出し、恐るべき冷徹さを持った同校のヴァルキリーを絶命に追い込むため全体重を乗せた左ストレートを放つ。だが右足を前に出した瞬間、サブラのオープンフィンガーグローブから伸びる左手の指が彼女の右眼に入り込んだ。瞬く間に耐えがたい激痛が走り、バタフライ・キャットは悲鳴を上げて手で顔の右半分を覆い、サブラに背を向けた。
サブラは背後から手を伸ばして強引にバタフライ・キャットの顔面を殴打する。最初の一発で鼻骨が粉砕され、生暖かい血液が鼻腔から噴き出した。もう一発背後から顔面を殴打した時、サブラは右手に歯が折れる感触だけでなく鋭い痛みも感じた。衝撃で砕け散ったバタフライ・キャットの歯で手の皮膚と肉が切れたらしい。
「生き残ること……」
裂傷だらけになった褐色の頬や額から夥しい量の血を流しつつ、バタフライ・キャットは四つん這いになって艦橋まで歩いていく。そして、まだ使える状態にあるAK47自動小銃を手に取り、
「それが……それが……それが最大の復讐だ」
残された僅かな力を使ってチャージングハンドルを引いた。
「モサド工作員なら……いえ、シャローム学園の生徒なら、貴方は宣誓した筈です」
対照的にしっかりとした足取りのサブラはマナ・エネルギーの噴射で距離を詰め、バタフライ・キャットが発砲するより早く銃身を押し退け、左手で彼女の喉を鷲掴みにした。
「私はここに宣誓して、イスラエル国家およびその憲法とその権能に忠実であり――」
サブラはざっくりと裂けた右手の傷から流れる夥しい量の血液などまるで気にしていなかった。細められた瞼の奥の紫色をした瞳には一切の体温を感じさせない光が宿っている。
「シャローム学園軍の軍紀を躊躇うことなく進んで行い、その権限を持つ指揮官による指揮命令に従い、そして、イスラエル国家とその自由を守るために力の限りを尽くし、命をも惜しまないことを約束する」
シャローム学園軍兵士が入隊時に行う宣誓を暗唱したサブラは脳への酸素供給を断たれてなお抵抗しようとするバタフライ・キャットを持ち上げると、思い切り硬く頑丈な足元の飛行甲板に叩き付けた。そして馬乗りになり、無表情で褐色の顔面に向けてAK47自動小銃のストックを振り下ろす。
「普通の人間と戦士の根本的な差異は……戦士が何事も挑戦と……」
サブラが顔に生暖かい飛沫を付着させ、叩き潰される肉と脂肪の感触を木と鉄越しに感じる一方、バタフライ・キャットは滅茶苦茶に打ち砕かれた口元から声を発する。それは諦観めいた響きを孕んでいた。
「……受け止めるのにひきかえ……常人は……何事も……恩寵か呪いと……受け止めるところに……ある……」
「何度も言いますが、私は戦士でも常人でもありません」
やがて顔面を潰し続けたストックが壊れて棒状になると、サブラは躊躇することなく赤い海に沈むバタフライ・キャットの喉元目掛けてそれを突き入れた。
「イスラエルの国益のために回る歯車です」
肉や血管、神経をぶち抜いたストックが甲板を抉った瞬間、空しき抵抗を続けていた少女の手がだらりと伸びる。
褐色の皮膚が避けて血肉が溢れ出し、今こうして戦火の絶えない悲劇の歴史によって人工的に産み出された一人の少女は短い生涯を終えた。
「さようなら」
七分十二秒後、粒子の微光を纏って海上に滞空するサブラは沈み行くモスクワ級航空巡洋艦の最期の姿を無表情で見つめていた。
燃え盛る艦上でマストが軋む音を立てて倒れ、爆発が起きる度に救命ボートや艦砲が空高く舞い上がり、大きな水柱を作って海中に没していく。
「マサダは二度と陥ちず」
これもまたシャローム学園軍の兵士が入隊時に宣誓する言葉がサブラの唇の間から漏れる。極めて歪んだ形とはいえ、サブラは一人のシャローム学園生徒から責任の火を手渡された。その炎を悪意の風から守り、絶えず燃やし続けていかなければならない。しかし、それでも彼女の睫毛に光るものはなかった。
「私は貴方の本名さえ知りません。でも、来世はエルサレムでお会いしましょう」
船体が完全に水没するまで、サブラは寒々とした光を宿す瞳を、黒煙を上げてゆっくりと歴史の闇に消えていくヴォルクグラード学園海軍の航空巡洋艦に向け続けた。
注1 赤外線誘導ミサイルの追尾を攪乱させる防御装備。