第二章11
更に数時間後――。
ホテル・ブラボーの上に広がった空は既に青い聡明さを失い、過剰な硝煙と砂埃によって霞んでいた。その下を乱舞するスカイレーダーが翼に吊下されたあらゆる兵装――ロケット弾、爆弾、そしてナパーム弾――を雨あられとタスクフォース599に向けて叩き込むと、それらの鉄の破片が渦巻く地上で炸裂音が連続して響き渡る。ある者は悲鳴を上げる暇さえなく即死し、ある者は全身を血だらけにしてのたうち回った。
「ユライヤは?」
手足をもぎ取られた外国人傭兵達の絶叫を聞きながら、煤と返り血で汚れているとはいえやはり涼しい顔のサブラはシャローム兵に問う。
「地下に逃げた模様です」
「トンネル・ラットで狩り出してください」
「了解」
鈍い光を放つブリキのコップで熱く濃いトルコ・コーヒーを啜るサブラから命令を受けたトンネル・ラット――狭いトンネル内を移動し、その中で戦闘を行うためヘルメットを被らないシャローム学園軍の兵士達が黒々とした穴に身を投じていく。
「畜生……畜生……畜生……」
折れた飛行ユニットの両翼を引き摺り、爆撃で数本の指が吹き飛んだ右手に包帯をぐるぐる巻きにしたユライヤは人一人がようやく歩けるスペースしかないトンネルを進む。
「イカ臭い息の鉛筆チンポのクソッタレのマンコ野郎!」
ユライヤの耳に自らの悪態は入らなかった。閉所で発砲した時に起きる『耳の穴に釘を打ち込まれたかのような、耐え難い巨大な音』による聴覚の麻痺を防ぐため、両耳に煙草から引き千切ったフィルタを詰め込んでいるためだ。
トンネルの地面には哀れにもブービートラップの餌食となった両足のない死体が横たわっている。剥き出しになった白い骨が黒焦げの断面から伸びていた。
「ファック!」
絞ると滴りが落ちるまで防虫スプレーが浴びせられた軍用ブーツが地面を踏み締める湿った音が聞こえ、ユライヤは拳銃で物陰から伸びた手を撃った。肉の砕ける音と共に肘から先が千切れ落ち、悲鳴を上げて飛び出してきたトンネル・ラットの頭を吹き飛ばす。
「糞ネズミ共め!」
悪態をつくと同時に、すぐ横に迫った別のトンネル・ラットがよく研がれたナイフを縦に振り下ろした。ユライヤはそれを一歩引いて回避し、続いて繰り出された太腿への一撃を避けてその腕を掴み、ぐるりと一回転して相手の背中を押し顔面を岩に叩き付ける。更に反対側に叩き付けると骨が砕けた鼻から大量の血液が吹き出し、お互いの足を汚す。
「くたばりやがれ!」
ユライヤはトンネル・ラットが脱落防止用としてウージー短機関銃に装備していた細いパラシュートコードを踏み付け、動きを封じると、無防備になったそいつの後頭部と背中に容赦なく銃弾を叩き込んだ。
「いたぞ!」
また一人片付けたのも束の間、狭く息苦しい地下通路の奥から新たなトンネル・ラットの声が重なり合って聞こえてきた。
舌打ちしてユライヤは逃走しようと一歩を踏み出すが、その直後、右足に走った激痛に悲鳴を上げた。もんどりうって地面に転がる。爪先を見てみると、足の裏から甲までが黒々とした釘によって貫かれていた。初歩的なブービートラップに引っかかったのだ。
「畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 畜生ーッ!」
ユライヤは絶叫しながら地下通路の暗がりに向かって拳銃を乱射し、記憶している限りの罵詈雑言を撒き散らしながらトンネルの外に出る。
黒々とした穴は教会じみた建物の一室に通じていた。錆宜しく壁にこびり付いた血痕、足元に転がる大小様々な骨、そして強烈な死臭が充満する空間には巨大なアビー・カートライト――四年前、テロ組織ラミアーズのリーダーとしてアルカを恐怖のどん底に叩き落したサイコパス――の写真が飾られていた。いつ見ても彼女の右口端から頬にかけて走る傷は醜く、色々なものを差し引いても端正に見える顔立ちとの対比が言いようのない歪んだ印象を他者に与えていた。
「なんだってんだ……畜生」
這って前に進むユライヤは今頃になって異常な鼻の詰まりに気付いた。舌打ちし、また汚い言葉を吐いて苛立ちながら何度も何度も強く息を吹き出して鼻腔を開通させようとするが、まるで鉄の栓でもされたのではないかと思える程、鼻の通りは良くならない。再度、何度も何度も音を立てて息を吹き出す。すると何かの先が穴から飛び出した。ヒルだ。たっぷりと血を吸って、丸々と肥えて太ったでかいやつ。
「なんだってんだよ……俺はヒルの餌なのかよ」
ユライヤの目尻に涙が溜まる。このヒルは何らかのタイミングで――恐らく、先日キャロラインから顔面を地面に押し付けられた時――自分の体内に入ったのだろう。そのままヒルは毎日動かずにユライヤの血を吸い、どんどん大きくなっていったに違いない。
「畜生……」
顔のあちこちを赤紫に腫らし、頬の至る所に凝固した血液をこびり付かせたユライヤは情けなくて涙を流す。
「畜生……」
石を拾い上げてヒルを潰したユライヤは這いずって壁に寄りかかり、苦悶の声を漏らしてチェストリグから鎮痛剤の注射器を取り出す。
「OK……OK……」
口でカバーを外し、清潔ではない注射針を左手の上腕部に突き刺した。
「もうちょっとだけ動いてくれよ、俺の体」
サブラが同じ建物の中にいることはわかっている。その通り自分がいる部屋から通路を覗き込むと、そこには周囲を見回しながら先程取り逃がした敵の姿を探るイスラエルのヴァルキリーがいた。
「俺はここにいるぞ!」
部屋を飛び出したユライヤは飛行ユニットから激しくマナ・エネルギーを噴射させ、
「ユダ公!」
背中を向けているサブラに襲い掛かり、
「俺はずっと我慢してきたんだ! 我慢してきた! してきたんだ!」
背後から羽交い絞めにして一気に壁へと押し込む。
「このウェディングドレスはな、俺がアルカに全てを捧げたことを意味してんだ。俺はアルカと結婚した! 抱かれても良いとさえ思った!」
激突の衝撃で倒れ込んだサブラの顔面にユライヤは自分の拳を叩き付けた。
「だがな、アルカはそうじゃなかったんだよ。俺の愛情は一方的だった。気付いた時には軍を追われ、荷物運びのアルバイトで毎日の学費を稼がなきゃならなくなってた!」
ユライヤの苦悶する声と肉のぶつかり合う音が響き渡る。
「惨めだった。ある時はワーグナーを流してヘリ部隊を率い、ある時はたった一人で三百人の敵を相手に戦ってたタスクフォースのリーダーが、銃を取り上げられたらレジ打ちすら満足にできない世間知らずの馬鹿娘になってしまった。こんな地獄があるか!?」
ユライヤはたった一本の腕で殴り続けながら肩を震わせ、両目から涙を流す。
「愛してくれとは言わない。だけど、この仕打ちは酷過ぎる。確かに俺は好き勝手にやってきた。だけどな、少しぐらい報われたっていいだろう……!」
「それは貴方の自分勝手かつ希望的観測に満ちた主観に過ぎません」
真下から打ち上げられた強烈なアッパーカットがユライヤの顎を打ち抜いた。意識を飛ばされた彼女は後方に倒れて尻餅をついてしまう。
「上から好き勝手に言いやがって!」
壁に背を預けたユライヤは落ちていたAK47自動小銃を拾い上げ、
「そういう奴は殺したくな……」
歯を食い縛ってその銃口を――向けた瞬間、サブラが構えたガリル自動小銃からのフルオート射撃を全身に浴びた。
「何もかも貴方が世界を自分の都合に合わせて考えていたことが原因ではないですか。人は誰でも世界と折り合いをつけて生活しています」
紫の瞳に無慈悲な光を湛えつつ、サブラは続ける。
「もっとも明確な自己意思を持たない私には無縁の話です。何故なら、私という存在はイスラエルの歯車に過ぎないからです。歯車はただ回るだけで自分の考えや意思を持ったりはしません。そして私の命はサブラ・グリンゴールドのものではなく、イスラエルというユダヤ人国家の所有物です」
「けっ……」
ユライヤは心底憎しみのこもった視線をサブラに向ける。
「素直にアンゴラのダイヤモンドが欲しいって言えよ」
「私が欲しているのではありません。スマイリー・ダイヤモンド社――正確には我が祖国イスラエルがアンゴラのダイヤモンドを欲しているのです」
サブラは続ける。
「かつてクラウゼヴィッツはこう言いました……『政治は戦争を宿す地球だ』と。しかし、今や政治と経済の関係はイコールになっています」
更にサブラは続ける。
「アンゴラを始めとするアフリカ諸国で採掘されるダイヤモンドの原石は、主に英国のデビアスというダイヤモンド会社に集められます。そして購入者の首や指に装飾されるまでは数度の加工や卸しを経て、その原価に様々な中間マージンや人件費などを積み重ねていきます。そして気付いた時には彼らが言う『給料三か月分』の価格になっている」
「そうかい」
ユライヤは呆れと嘲りの混じった笑みを浮かべる。
「スマイリー・ダイヤモンド社とやらはデビアスを通さず、採掘も加工も販売も全部自分達でやるつもりだろ。どうせお前らのことだ……拉致してきた現地のガキを死ぬまで鉱山で働かさせるなり何なりやって中間マージンと人件費を浮かす。そうすれば価格設定を給料三か月分から二か月分に減らしても十分黒字になるしな。ユダヤ人の考えそうなことだ。良心が痛むならそんなことは思いつきもしない」
「私はアンゴラではなくイスラエルのプロトタイプです。そしてアンゴラはアルカに組み入れられていない。つまり国際社会の中に存在していないも同義――即ち、その国民は野生動物か何かに等しい存在なのです」
「そうかい……へっ! あっさりと引っ掛かりやがって!」
黙って話を聞いていたユライヤは口角泡を飛ばして手榴弾のピンを引き抜き、
「獲物の前で長々とビジネストークしてんじゃねぇよ! 三流!」
勢い良くレバーを外して投擲した。
「ふむ」
サブラは早歩きで転がる手榴弾に近付くと、それをごく自然な動作で拾い上げ、
「それで?」
レバーとピンをセットし直した。これでもう爆発することはない。
「貴方はこのソ連製手榴弾が三秒で爆発すると思っていたようですが……」
手榴弾を外へと投げ捨てたサブラは淡々と話す。
「実際には五秒で爆発します。この手榴弾はソ連製ではなく米国製だからです」
「クソッタレが!」
既に銃弾で穴だらけになったユライヤは最後の力を振り絞って先程のAK47自動小銃を持ち上げ、サブラを撃とうとする。だが、トリガーを引いた直後に銃は暴発を起こし、彼女の残っていた右手の指は無残にも全て飛び散った。
「言い忘れました。その銃の弾丸の火薬は『我々』が調整済です」
「なんてこったい……」
仁王立ちになったサブラの前でユライヤは激しく吐血する。体のあちこちから赤黒い液体が流れ、たった今四散した指の骨や破片がその中に浮いていた。
ユライヤは残った左手でチェストリグからまた新たな手榴弾を手に取り、歯でピンを引き抜こうとする。だが、パキッと音を立てて彼女の犬歯は折れてしまった。
「畜生……ピンが抜けねぇよ……そうか……俺はウサギの穴に……」
掌の手榴弾を見ながらユライヤは涙を流す。
「いや違う……俺はもう穴に落ちて……それを認め……ったんだ……」
泥水のように濁った光を放つユライヤの声は、もう掠れて消えかかっていた。
力なく横たわったユライヤの目尻から涙が溢れ、土埃塗れの床を湿らせていく。
「俺は百……万……ドルの……価値……が……」
サブラは息絶えたユライヤへと歩み寄り、手を伸ばす。そして開きっぱなしになった彼女の瞼を閉じ――る筈もなく、左手薬指をよく研がれた軍用ナイフで切り落とした。
「百ドルの値打ちもありませんね」
そう断言してサブラは切断された指を叩いて落とし、安物のダイヤモンドが付いた指輪だけをポケットに入れてその場から立ち去った。