第一章10
夕飯の準備を進めていたエレナの手に跳ねた魚の血が付着した。
「……ッ」
夕日に照らされた掌を見た瞬間、エレナはタスクフォース563の集合写真が片隅に飾られた孤児院のキッチンから昨年九月三日のフレガータ小学校へとタイムスリップした。
「……ッ」
蒸し暑い体育館。垂れ流された尿とその臭い。
「……ッ」
爆発と突入。母親を呼び求める顔のまま黒焦げになった子供の顔。
「……ッ」
崩れた赤レンガの壁。そこに紛れて転がる小さな下半身。
「……ッ」
だらりと手を垂らした子供を抱き抱えて運ぶ特殊部隊の兵士。
「……ッ」
まだ張り巡らされた爆弾の導線が残る弾痕だらけになった体育館の壁。
「……ッ」
担架に横たわる血塗れの少女。
「……ッ」
爆発に巻き込まれて四散した犯人の死体に怨嗟の声を浴びせながら発砲する保護者達。
「……ッ」
押収され、校庭に横並びになった大量の使い捨て式ロケットランチャー。
「……ッ」
並ぶ黒く小さい死体袋。耳障りな羽音を立てて集る蠅。
「せんせい、大丈夫?」
「泣いてるの?」
子供達から自分を心配する声をかけられて現実世界に戻ってきたエレナは自らの頬を涙が伝っていることに気付く。
「大丈夫です。先生、玉葱を切っていたんです。大丈夫です」
手の甲で目尻の滴を拭ったエレナは子供達を部屋に戻す。
「グリャーズヌイで殺戮の限りを尽くした私があの事件を思い出して泣く……偽善だな」
そして自嘲気味な口調で呟いた彼女は窓外に赤い粒子を見つけ、その七分十二秒後には濃緑色のマナ・ローブを纏いノエルと夕暮れの空で激しく交錯していた。
「やはりテウルギストはそういう輩か!」
空中で火花が一つ輝き、それが消える前に新しい火花が別の場所で生まれる。
「貴様らの世界に私を――いや子供達を巻き込むな!」
エレナは両腰の鞘から引き抜いた二本の鉈をクロスさせて南アフリカ共和国製チェストリグ以外は自分とほぼ同じ恰好をしたヴァルキリーに切り掛かった。
「ある日、私達はいつの間にか自分が難民になっていることに気付いた」
一方のノエルはガリル自動小銃のマガジン基部で交錯する鉈を受け止める。
「生き残っても何も良いことはなかった」
「知ったことか!」
左右に後退翼の伸びる背部飛行ユニットを背負ったエレナはそこに備えられたブースターを噴射してマナ・ローブの燕尾を激しく揺らしながらノエルを下へ下へと押していく。
「ドイツ連邦共和国は私達に市民権を与え、安心して暮らせる場所を提供すると約束した」
「知ったことか!」
エレナは右手で鍔迫り合いを演じたまま左手に携えていた鉈を放り投げ、腰から抜いたPPSh‐41短機関銃をなおも話し続けるテウルギストの顔面に向け連射した。
「しかしフレガータ学校占拠事件というグレン&グレンダ社のネガティブキャンペーンを真に受けた国民はプロトタイプの受け入れを激しく拒絶した。そして私達はヨーロッパから遠く離れた南アフリカ共和国のポムフレットを新天地として与えられた」
「知ったことか!」
弾かれたように首を左右に揺らして至近距離から殺到する七・六二ミリ弾を尽く躱したノエルはカウンターの頭突きをエレナの顔面に叩き込み大流血へと追い込む。
「アスベスト鉱山に囲まれたポムフレットは大気・水・土壌に健康を脅かす危険が潜んでいるという理由で放棄された死の土地だ」
「知ったことか!」
ノエルは顔中を赤く染めてなお激昂の声を発するエレナと体勢を入れ替えて彼女を地面に叩き付けようとしたが、一九四八年現在唯一生き残っている第一世代ヴァルキリーはギリギリで立て直し背面超低空飛行で木々を削り取る。
「カラハリ砂漠の片隅にある不毛の地は最も近い町から百六十キロも離れていた」
「知ったことか!」
エレナはコマンドサンボ仕込みの投げでノエルを前方に放り飛ばす。しかし投げられた側は軽やかに空中で回転――軽やかに着地しガリル自動小銃を構えて発砲した。
「耕作に適した土地もない。雇用する産業もない。私達はそんな場所で貧困と飢餓という真っ暗な未来と向かい合わせで何の可能性もない絶望的な生活に入った」
「知ったことか!」
風を切る音を立てて迫り来る七・六二ミリ弾を左右の急機動回転で回避したエレナはノエルへの肉薄に成功し、ドラムマガジン内の弾丸を全て撃ち尽くした左手のPPSh‐41短機関銃を投げ捨てつつ右手に携えた鉈を振り上げる。
「自由ヴォルクグラード軍を名乗る武装勢力がルナ・マウンテンに人質を取って籠城した」
「知ったことか!」
奇遇にも同じタイミングで弾切れを起こしたガリル自動小銃にノエルが新しい二十五発入りマガジンを差し込む隙を与えずに得物を左ハイキックで弾き飛ばしたエレナはお互いの出生に端を発する長い因縁に一気にケリを付けようとした。だがその瞬間である。
「何だと!?」
ノエルから自由ヴォルクグラード軍のリーダーが誰であるかを聞かされたエレナは足元からの砂埃が消えるよりも早く刃を止め、後方に宙返りして着地する。
「君だけには伝えようと思ってね」
「テウルギスト……お前は嘘をついている」
マナ・ローブ下の黒いインナーに割れた腹筋を盛り上がらせているエレナは即決した。
「私もルナ・マウンテンに行く。そしてお前達の嘘を暴き、お前達に罰を与える」
しかし、ノエルに鉈の先端を向けたソ連製ヴァルキリーの声は酷く震えている。
実際のところ、彼女もわかっていたのだ。