第一章6
両翼にシャローム学園空軍所属を表すダビデの星が描かれた二機のP‐51Dムスタング戦闘機に守られて空を行くエル・アル航空――このイスラエルの航空会社による恩恵に預かれるようになったことで、SW社は前金が振り込まれてから僅か一時間後には自社の兵士をアルカのどこにでも展開できるようになった――のDC‐3輸送機内で書類に目を通していたエーリヒはその中身を一通り確認し終えると傍らの消臭スプレーを手に取った。
「あーもう……」
魔女の大釜と化したショナイ平原から直行してきたせいで死臭や血の匂いを全身にこびり付けているSW社の最高責任者が事あるごとに日本製消臭スプレーを体に浴びせていたため、今や機内には噎せ返るようなミントの香りが充満している。
「BFでは勝ちたいけどお金は払いたくない。全く矛盾してるよ」
目下エーリヒの悩みは昨年、SACSによってアルカを追い出されたものの今年になってようやく校舎再建を果たせたルーマニアとブルガリアの学園との交渉だった。
「四千万ドル!? そんな金額はとてもお支払いできません……」
ヌートリア戦闘服から皺一つないスーツに着替えたエーリヒは今日三箱目のカフェイン錠剤を噛み砕きながらブルガリアの学園の関係者が漏らした言葉を思い出し頭痛を覚える。
「とはいえ私達は二つの学園に楔を打ち込めた」
エーリヒの向かい側に腰掛けた金髪の少女が口を開く。
「BFでは勝ちたいけど大金は払えない。だからSW社は無料で契約する見返りとして、今回のようにその学園の上層部に社員を少なからず送り込む。イレギュラーの目を摘み取るためにね。そうやって私達はあちこちに根を張り勢力を拡大していくし、私達と契約しないと国際社会の中で立ち行かない学園はそれでも縋るしかない」
ザ・オーでのスカウト活動を無駄足で終えたノエル・フォルテンマイヤーの言う通り、SW社はクライアントが到底支払えない額の報酬を要求した上で救済処置を提案し彼らを依存させるように仕向けることが多い。極めて下衆な方法ではあるが、人の良心や性善説を前提条件にできない世界の深淵では他に有効な手段がなかった。
「まあね……」
下手をすると家族よりも深く長い付き合いのある少女に肯定の頷きを返したエーリヒは突然の疲労感を覚えて眉間に手を当てる。
エーリヒは一九四三年以来ずっと、誰に勝つわけでも誰と戦うわけでもなくストイックかつ徹底的に『自分の戦争』を戦い続けている。彼にとってのルールとは自分であり、やると決めた以上は何を言われようが、どう思われようが、何をされようが完遂するのがエーリヒ・シュヴァンクマイエルという純粋な人間だった。とはいえBFや拠点同士の距離が極めて近いアルカ故の多忙は少なからず応えているようだった。
「エリー、着くまで暇だし『マイルハイクラブ』しようよ」
「えっ何それ……」
「ざっくり言うと飛行機の中で、えっち」
「うえ!?」
唐突にシートベルトを外して席を立ったノエルは肉感的で長い両足を広げてエーリヒに覆い被さり、その耳元に唇を寄せて甘い音色で囁く。
「ええええ!?」
「にゃはは」
学生服に身を包むノエルは肉食獣から逃げる小動物宜しく距離を取ろうとする童貞少年の後ろ首に両手を回し、キスした上でその女性的な白い頬と自分の頬を擦り合わせる。
「は、離してよ!」
「大人しく食べられるにゃーん」
加速度的な勢いでエーリヒの顔は茹で上がっていった。
「そういうことは結婚した後に……」
「良いではないかぁエリーのいけずぅ!」
不純異性交遊への道を猛スピードで突き進む二人から少し離れた位置にある機内電話が助け船を出すかの如く騒々しい響きを発したのはその時だ。
「ちょっとごめん」
瞬時に奥手な童貞坊やからアルカに君臨するプロトタイプの王へと表情を変えたエーリヒは冷淡な動作と口調でノエルを引き離して立ち上がり受話器を掴む。
「進路を変えてください。サカタグラードへ戻ります」
即決し流暢なヘブライ語で手短に要件を機長へと伝えたエーリヒは席へ戻る。そして足と腕を組み、人差し指で何度も上腕部を叩き始めた。
「今のエリーをマリア・パステルナークが見たら立派になったって喜ぶだろうね」
「彼女は関係ないよ」
ノエルは素っ気ない返事をした少年が喜びの表情を浮かべた一瞬を見逃さなかった。