day 6
「…………」
あれからスライム君は精力的に動き回っています。ニンゲンさんが食べ物を食べてくれたのが嬉しかったのでしょう。それからというものスライム君はニンゲンさんが食べるものを集めにいろいろな場所に行っているようです。
それをニンゲンさんは見ていました。数日も経てばこのスライム君が何を求めているのかがわかります。血です。自分の血。血液。
生きるために彼は血を吸うのでしょう。そのことにニンゲンさんは気が付きました。だから、自分の世話を焼くし、生かされている。
つまり、ただの餌です。餌としての価値がなくなれば捨てられるだけの命。それが自分なのだとニンゲンさんは理解しました。
「こんなところに落とされて、こんなわけのわからない生き物が、都合よく助けてくれるなんてあるわけない……」
自分が特別だと思っていた。少なからず、その出自からそう思っていたのです。けれど、それが失われてみれば、立つための足がなければ、何かを掴むための腕がなければ何もできない。
何かをやろうとすることすらできない。何も、何一つ、何もかもがニンゲンさんには遠くのことになってしまっていました。
そう何もできないのです。何一つやることができないのです。それを動けないからと言い訳して、何かをしようともしません。ニンゲンさんは惨めでした。
そして、それ以上に、いまだに脳裏に焼き付いているのでした。自分をこんな風にした男の、かつてニンゲンさんに向けてくれた彼の笑顔が焼き付いていました。
ニンゲンさんは今でも彼の言葉を思い出します。彼の顔を思い出します。彼のしぐさを思い出します。仕えてくれていた彼のやさしさを思い出すのです。
何を信じるべきなのか。何を信じていいのか。わかりません。立つための足を奪い、何かを為すための腕を奪った憎いはずの相手。両親を殺した憎い相手。
だというのに、憎めません。何か理由があったのではないのかと今でも思ってしまうのです。ニンゲンさんはどうするべきでしょうか。
誰も教えてはくれません。自分で答えを出さなければいけません。スライム君にはニンゲンさんのそんな気持ちなんてわからないのですから。
誰も、ここにはいないのですから。ただ――。
「……それより」
どうしてもどうにかしたい切羽詰まった問題ならありました。
「服、着たいですわ……」
四肢を切られる際に服を脱がされてしまって今はなにも着ていません。数日前まで、茫然自失としていた時ならまったく気にならなかったのですが、さすがに気になります。それにトイレなどの問題もありました。
意識を失っていた時はそのまま垂れ流していたようですが、意識を取り戻した以上そのままにはできません。
「……どうすれば……」
しかし、どうにかしようにもニンゲンさんに何とかするための腕は在りません。そうなると誰かになんとかしてもらう必要があるのですが、スライム君はニンゲンさんの言葉がわかりません。ニンゲンさんもスライム君の言葉がわからないので、どうしようもないのです。
結局、どうしようもないのです。全ては無常。
「…………」
ニンゲンさんは再び落ち込んでしまいます。スライム君はどうしたのかと思います。食べ物は食べてくれます。果物も食べてくれるようになりました。水もきちんと用意しています。
あとは何が足りないのでしょう。住む場所もあります。食べ物もあります。あとは何が必要なのでしょう。スライム君は考えます。何が必要なのかを考えます。
森の動物たちはどうしているでしょう。食べ物、住処。他に何かしていることはないでしょうか。スライム君は考えます。
そして気が付きました。そう、水浴びです。森の動物たちは数日に一度水を浴びています。もしかしたらニンゲンさんもそうなのかもしれません。
「え、なに、なんですの?」
そうと決まればニンゲンさんに聞いてみます。しかし、スライム君の言葉はニンゲンさんには通じません。通じていないこともスライム君にはわかりません。
なので、言うだけ言って、スライム君はニンゲンさんを抱えます。
「え、ちょ、な、なにを!?」
ニンゲンさんは驚いてもがきますが四肢がないのでさほどもがくことができません。そのためスライム君はそのままニンゲンさんを乗せてするすると移動を開始します。
「ぁ……」
久しぶりに浴びた光。それは妖精光ではありますが、曇りの陽光と同じでありました。久し振りに浴びた光は不思議な熱があるようです。
不思議なクォ・ヴァディスの景色は、ニンゲンさんの眼を釘づけにするには十分すぎるものでした。色とりどりに輝く宝石の森。
ひときわ強い妖精光によって色とりどりの輝く木陰の下をスライム君に乗ってニンゲンさんは移動します。幻想的な光景でした。全てを忘れて見入ってしまうほどのに美しい光景でした。
森を超えても幻想的な光景は続きます。湖にたどり着きました。その湖もまた七色に輝く不思議な湖です。虹の湖と呼ばれるこの表層における巨大な水源でもありました。
「すごい、きれい……」
比較的浅そうな湖の畔にスライム君に乗せられたままニンゲンさんはやってきました。これからどうするのでしょう。
しかし綺麗な場所です。妖精光で照らされた黄昏時を思わせる明るさの中で七色に輝く虹の湖はとても神秘的に見えました。
スライム君は畔で止まると、ニンゲンさんを掲げます。何が起きるのかと緊張した面持ちで身構えるニンゲンさん。
一震え、ニンゲンさんにこれから水につけるよーと伝えてからスライム君は触腕を下げていきます。もちろん、ニンゲンさんにはそんなことなど伝わっていません。
徐々に徐々にゆっくりと下がっていきます。このままでは水に浸かってしまいますね。ニンゲンさんも気が付きました。
「え、え、ちょっと――」
気が付いて、スライム君になんとかやめるようにと身振りなんてしてみますが、スライム君は身体をかしげるばかりです。伝わりません。
その間もニンゲンさんの体は水に浸かっていきます。浅瀬ではありますが、恐怖しかありません。スライム君が手を離せば、ニンゲンさんはなすすべもなく溺れてしまうのです。
水は冷たく、七色に輝く不思議な水です。生き物もいっぱいいるようです。こんなところでおぼれてしまったらどうなるでしょう。想像しただけで肝が冷える思いでした。
ニンゲンさんはもがきますが、四肢がないだけに意味はありません。徐々に徐々に水に浸かり、肩まで使ってしまいます。
もしスライム君がニンゲンであったのならここで止めるでしょう。しかし、スライム君は全身を綺麗にした方が良いんじゃないかと思っています。
そのため頭まで全部水につけます。それからじゃぶじゃぶと左右へと振ります。一応、洗っているつもりのようです。
「ごばご――」
スライム君からしたら善意なのですが、やられている方はたまったものではありません。空気を求めて暴れるばかりです。
「はっ、けほっ――」
もちろん、ニンゲンさんを殺す気なんてスライム君にはありませんので、死にそうになれば引き上げてくれます。
しばらくそれの繰り返しです。すっかりニンゲンさんはぐったりしてしまいました。それでも綺麗になってさっぱりしているのですが、やはりそれどころではないようです。
水の中で何度もぐわんぐわんと振り回され、さらに乾かすためにも空中でも振り回されました。ぐったりもするでしょう。
スライム君もさすがにぐったりした時点でやめましたが何が悪かったのかわかりません。
「もう、いい、です、わ……」
ニンゲンさんはいくら言ってもスライム君には通じないということを学びました。ゆえに諦めモードです。トイレだって、振り回されている最中に漏らしてしまいましたし、もう全部諦めモードです。振り回されたせいでさらに吐瀉してしまっていますし、もうどうにでもなれですね。
さて、あとは帰るだけという段になって、スライム君は立ち止まります。おかしなことに気が付いたようです。そうです。いるはずのブルースライムたちがいません。
何より、周囲が静かなのです。こういう場合は何かが起きます。さて、何が起きるのでしょうか。答えは単純でした。
「ギギ、ウマソウ、ニオイ――」
「オイテケ、オイテケ」
茂みの中から現れたのは緑色の体色の小さな人型の生物です。魔物ですね。片言ながらも言葉を介すようです。
それにニンゲンさんもハッ! っと反応しますが、その姿を見てひっ、と息をのみます。あまりにも醜く、矮小で、不衛生極まりない不快感を否応なく感じさせる姿。
それは地獄の小鬼ともよばれるこの表層どころか全てのクォ・ヴァディスにおいて珍しくない生き物でした。そんな生き物がぞろぞろと茂みの中から出てきます。
手には、錆び付いた武器を持っている個体もあれば、こん棒などただの木の棒を持っているものや鍋をかぶっているような個体もいます。
彼らはゴブリンです。低いですが知能もあるアビス原産の生物です。魔物と呼ばれるアビスの生物の中でも比較的ポピュラーな種族といえるでしょう。
雑食で、女好き。このゴブリンという種族には雌がいません。他種族のメスを浚い孕ませることで繁殖するのです。母体の能力を受け継ぐので実はけっこう厄介な害獣だったりします。
ただ普通のゴブリンはニンゲンだろうと、アラクネだろうと穴があればそこに突っ込んで腰を振るような馬鹿な生き物です。どんな生物でも孕ませられるので一匹見たら最低三十匹はいると思った方がよいでしょう。
そんなゴブリンたちの狙いはもちろん、ニンゲンさんです。どうやらニンゲンさんが落っこちて来た時にまき散らされた血の匂いを嗅いで、探してようやく見つけたといった風です。
隆々と猛る股間を隠そうともしないゴブリンたちや錆び付いた凶悪な武器を見て、ニンゲンさんは悲鳴を上げて逃げようとします。
しかし、四肢がないため全然逃げられませんし、何よりスライム君に乗せられているので動けません。スライム君は逃げようとするニンゲンさんを大きな岩のかげに降ろします。
「え、ちょ、ちょっと――」
ここにいて、大丈夫だからと言ってスライム君はゴブリンたちの前に躍り出ます。その様にゴブリンたちはゲゲゲと笑うばかりです。
ゴブリンたちはブラッドスライムのことも知りません。彼らの群れのボスくらいなら知っているのでしょうが、ただの特に何の力もない雑種な下っ端ゴブリンにとっては生き物なんて食えるもの、食えないもの、孕ませるもの、孕ませられないものという区分しかないのです。
スライムは食えないものであり孕ませられないものです。なにせ、生殖器官がありませんから、如何なゴブリンと言えど孕ませようがありません。
そういう時は、殺すとか倒すとかです。スライムが殺し難い生物だということも考慮してません。とりあえず武器で殴ってれば死ぬだろとしか思っていないのです。ド低脳です。
「ゲゲ、コロシ、テ、ウバウ」
「オンナ、イイニオイ、ウバウ」
「ウバウ!」
ゴブリンどもの意見は一致しています。スライム君を殺してニンゲンさんを持って帰るつもりです。ニンゲンさんはそうなるとどうなるのでしょうか。
答え。極上の血の匂いにひかれてやってきたのですから、そのまま食われてしまう。
答えその二。苗床にされてしまう。
どちらにしても悲惨なことには変わり在りませんね。ニンゲンさんは逃げられませんし、万事休すです。ゴブリンたちが早速と言わんばかりにニンゲンさんに殺到しようとします。
その様子を見て、ニンゲンさんは思います。
――ああ、こんなものか。
もともと死んでいた身です。運良く生きていただけ。運が切れればこんなものです。抵抗しようにも抵抗できません。
そのための腕も、逃げるための足もないのですから。なんて、惨めなんでしょう。そんな風に思っても、いまだにあの人の顔を思い出してしまうのですから。
そして、同時にやはり思うのです。
「死にたく、ない――」
死にたくない。死にたくない。死にたくない。ええ、それは生物としては至極当たり前の感情です。死の気配を前にして、感じる生存本能。
「死にたく、ありませんわ。私は、まだ――!」
まだ、何も、何一つ為していない、わかってもいない。それが、こんなところで死ぬなんて認めたくなかった。
けれど現実は非常です。いかにそう思ったところで何もできないのですから。ゴブリンの魔の手が迫る、その寸前に。
「ギ――?」
ゴブリンを朱い棘が貫きました。
「え――?」
そこには全身から棘を出しているスライム君がいました。