day 5
観察していたニンゲンはアラクネに食べられてしまいました。どうしようとスライム君が考えていると、目の前にアラクネの糸が張り付きます。
「ふぅむ、そこなスライムよ、妾の領域になんのようじゃ、おりてまいれ」
アラクネの女王さんはスライム君に気が付いていたようで、話しかけてきました。糸を媒介にした振動会話です。
これならばスライム君にも通じます。どうやら彼女は相当長生きをしているようですね。スライムと会話できる生き物は稀です。相当長生きをして知恵がある者以外には不可能な芸当です。
スライム君は言われた通りにするすると木をおります。彼女と敵対しても良いことはありませんし、何より糸を媒介としての振動会話です。
はじめてのことでした。せっかくですし話をしてみようと思ったのです。出てきたスライム君を見て女王さんは珍しいものを見たと声をあげます。
「ほう、お主ブラッドスライムか。珍しいのう。ここ最近はとんと見んな。なにせ、妾の領域にはおらん。一匹いてほしいんじゃがなぁ」
ブラッドスライムは、血を吸いますが同時に傷を塞ぐ物質を分泌するのです。それは血を吸われる宿主以外も治すことが可能です。
そのため、群れにブラッドスライムの宿主が一匹いると群れの個体数が大幅に違うとまで言われています。そんなブラッドスライムは宿主の個体とともに大切にされ、群れとともにたいそう長生きするそうです。
女王さんはブラッドスライムであるスライム君に対しては何もしません。何よりスライムという生き物はおとなしいですので、何をするまでもないのです。
ただブラッドスライムの場合宿主を傷つけてしまうと話は別になるのですが、まだ女王さんはなにもしていないので大丈夫のはずです。
とりあえずどうしてここにいるのか宿主のところにいないで一匹で活動している理由を問います。あわよくば自分の群れに引き込めればと女王さんは考えているようです。
「それで、何をしておった、宿主でもニンゲンに殺されたか?」
「ううん、ニンゲン、見てた」
「ニンゲンを? なぜじゃ」
「ニンゲンさんの、食べ物、知りたい」
女王さんは怪訝な表情をします。なぜブラッドスライムがニンゲンの食べるものを知りたいのかわからないからです。
しばらく、考えをめぐらせてようやく答えに行きつきました。それは女王さんからするととても荒唐無稽なことですが、他にはどんなに考えても答えなどでません。
「……お主もしかしてニンゲンの血を吸ったのかのう?」
頷くようにスライム君は体を震わせます。
「なんとまあ」
スライム君は珍しいどころではないブラッドスライムでした。ニンゲンの血を吸うスライムがこの美しの森で生まれるとは長生きした女王さんも思ってもないことです。
「難儀じゃのう。ただひとりのニンゲンの血しか吸えぬのか。もしや、妾の子らが殺してしまったのかのう」
それならば烈火のごとく襲ってくるはずですが、それがないということは違うということなのですが一応確認しておきます。女王さんは意外に心配性のようです。
「だいじょうぶ! 洞穴にいる!」
「ほっ、それなら良いのじゃ。そうじゃ、ニンゲンの食べるものならばこれなんてどうじゃ」
女王さんが子供にあるものを持ってこさせます。それは動物の死骸でした。ウサギですね。どうやらあの弓をもっていた少女が捕まえたウサギのようです。
「ニンゲンが捕まえたものじゃ。捕まえたということは食うということじゃ。これをほれ、腹を裂いて、内臓やらを取り出して、肉だけにして焼いて食うんじゃ」
女王さんは懇切丁寧に食べ方を教えてくれます。女王さんからすればニンゲンを襲う時にそんなことをやっていて知らず覚えていた知識ですが、スライム君に必要だろうと思ったので教えてあげます。
もちろん、ただというわけではありません。考えあってのことです。そうでなければスライム君にそんなことまで教えてあげる義理も義務もないのですから。
スライム君がブラッドスライムで、しかも助けを必要としているからこそです。簡単に言うと恩を売っているわけです。
「これをお主にやっても良い。その代わり、困ったときにお主の力を貸してもらえんかのう」
ブラッドスライムを群れに引き込むのはこの美しの森における勢力の拡大においてとても重要です。一匹でもいれば怪我の治りが違うのですから、ここは恩を売っておくべきなのです。
ブラッドスライムは宿主の利益になる相手ならば歓迎する性質があるので、この提案もきっと乗ってきてくれるでしょう。
「うん、いいよ」
女王さんの予想通りスライム君は快諾します。
「良し持っていくがよい。ああ、そうじゃ。ニンゲンの道具もいくつか持って行った方が良かろう。どれくくってやろう」
どうやら女王さんは世話焼きのようです。殺したニンゲンの道具からスライム君が必要そうなものを選んで糸でくくってくれます。
「ありがとう」
「礼は怪我をしたときに治療してくれればよいからの。ほうれ、できたぞ」
鍋に火打石などといったニンゲンの道具がその中に入っています。使い方はスライム君も見ていたので多少はわかります。
きっと大丈夫とスライム君は楽観的に思って女王さんにお礼を言って洞穴に帰ります。ニンゲンさんは大丈夫でしょうか。
「…………」
ニンゲンさんは変わらずそこにいました。スライム君がいなくなったことは気が付いていましたが、特に何かを思うこともありません。帰ってきた時も、なんだか荷物を多く持ってきたな程度です。
それが鍋などニンゲンの道具であることに気が付いても何も思うことはありません。しかし、スライム君が火をつけようとするとさすがに関心を持ちました。
何をしているんだろう。スライムという生き物は火を必要としているとは思えません。そもそもこの美しの森の生物はニンゲンと違って文明の利器など使いませんので明らかに不可解な行動です。
火と道具。そんなものを使う動物なんていません。ニンゲンさんもそう思っていましたので、スライム君が道具を使い始めたことに驚いたのです。
かちかちと火打石を打ち付けて火をつけます。なかなかつきませんが、スライム君には疲労も腕の痛みというものもないので何度も打ち付けていれば火が付きました。風は自分の体を通して風を起こせるのでそれでどうにかして火が生まれました。
ぼう、と燃える炎を見るとニンゲンさんの心の中に安堵が生まれます。熱と光はニンゲンさんに安心を与えることができるのです。それから必死に鍋に水を汲んでそれを火にかけています。
精力的にちょろちょろと動き回るスライム君を見てニンゲンさんは思います。どうしてこんなことをしているのだろうかと。
スライム君の、ブラッドスライムの生態など何一つ知らないニンゲンさんにはその理由がわかりません。思えば、ずっとこのスライム君は動き回っています。思い返すとまるで自分が大切にされているかのように感じました。
まるで、そうまるでかつての自分と同じようにです。まさか、そんなはずはないと頭を振りますが、一度生じた考えは消えてはなくなりません。
そんな風にニンゲンさんが考えているときもスライム君は動き回っています。触腕を伸ばして女王さんが用意してくれた肉を焼いて行きます。焼き方なんて知らないのでそのまま火の中に突っ込んでいます。
「…………」
すごい雑な焼き方ですが、いい匂いが漂ってきます。思わずゴクリとニンゲンさんは唾を嚥下します。お腹の虫も鳴き出します。それも当然でした。
ニンゲンさんはここ数日何も食べていませんし、何も飲んでいません。身体は限界を超えて憔悴しています。そんな事実に今更気が付いたのです。
自覚すると同時に感じる圧倒的な飢餓感と訪れる全身を苛む強烈な痛み。そんなものを感じても声すら上げられないのです。
そんなときです。目の前に先ほどまでスライム君が焼いていた肉が差し出されます。どれくらい焼けばよいのかわからなかったのですが、さすがに焦げた時の匂いでやばいと思ったのか出してきたようです。
焼けた肉の匂い。それを差し出しているのがスライム君である事実など目に入りません。今は、目の前の肉だけでした。
それを食べても良いのでしょうか。プライドが邪魔をしますが、そんなことなど体は問題にしません。もはや空腹は限界を超えているのです。
しかし、両手がありません。どうやって食べますか? 答えは単純です。そのままかぶりつきました。行儀が悪いなど言っている場合ではなく我慢できずニンゲンさんは肉にかぶりつきました。
生焼けです。美味しくありません。しかし、涙が出るほどそれは美味しいものでした。涙でしょっぱくなったのがまた良い味になりそうです。
その様子にスライム君は嬉しく思いながら大慌てです。ようやくニンゲンさんが食べ物を食べてくれたので、それは良かったのですが泣きだしてしまったのです。どこか痛いのでしょうか。怪我なら大変です。
すぐにスライム君は触腕を伸ばしてニンゲンさんの体を調べます。どこにもけがは在りません。
「ちが、ちがいま、すの」
ニンゲンさんもさすがに何度かになる経験です。自分が泣いたらスライム君が自分の体を調べることということに気が付いています。
まるで心配してくれているかのようなそのしぐさ。もしかしたら本当にと思ってしまいます。思ってはいけないと思いながら、想ってしまうのです。
スライム君の手つきは優しくニンゲンさんをいたわるものです。言葉は伝わらず、何を考えているのか顔もないのでわかりません。
しかし、そのしぐさで伝わることがあります。泣きだせば同じような優しい手つきで体中を優しく触ってきます。心配するように。それからおろおろと身体を震わせるのです。
ニンゲンさんが泣き止むとスライム君は安堵したように体を震わせます。まだ数日この生物を観察しただけですが、なんとなくそんな風な気がしているのです。
きっと気のせいでしょう。ニンゲンさんは思います。こんな得体のしれない生物が自分を心配しているなどありえません。
ですが、同時に信じたいとも思ってしまうのです。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――それはしばらく前のこと。
美しの森の表層。虹の湖を通り過ぎ宝石の森を抜けて骨折りの洞窟を超えた先にある大木の根元にそいつはいました。
二足の獣。人狼。ニンゲンに銀灰と呼ばれる存在であり、この美しの森表層の王です。本来であればこの表層にいるような存在ではありません。
人狼は本来であれば第一層、第二層周辺に住み着く生き物です。知能が高く、集団で狩りをする魔物に分類されるアビス原産の生物です。
そんな存在がなぜ表層にいるのでしょう。おそらくは隻眼であることが理由です。左目に深い傷があります。おそらくはそれで下層から上がってきたのでしょう。
表層に上がった銀灰は、表層の森を自らの領域としています。この美しの森の表層は彼の領地であり、そこに生きる全ての生物は銀灰の所有物です。
それがこの美しの森表層の理。全ては彼の為にある。そう言ってはばかりません。何より、その強さによってこの表層では負けなしなのですから表層の全てはまさに彼の為にあるのです。
彼が言えばだれでも従うでしょう。力こそがこのアビスの法。それはなにもニンゲンだけではないのですから。
「――――」
眠りについていた銀灰はふと鼻をひくひくとさせます。匂いを感じ取りました。それは血の匂いです。ニンゲンの血の匂いです。
しかも、このアビスにいるニンゲンのそれはと同じとは到底思えない極上の美酒のような香り立つ匂い。森が沸き立つのが王にはわかりました。
「――――」
黄金に輝く隻眼を開きます。探さねばならない。そう銀灰は思います。極上の血を森中にまき散らしたニンゲンを探さなければいけない。このアビスでは手に入れることのできない極上の血の持ち主を探さなければならない。
それは彼が王であるからです。王であるがゆえに手に入れなければならない。なぜならば、森が沸き立ち、あらゆる生き物が極上の血の持ち主を探しているのです。
起きあがると同時に咆哮を上げる。森のざわめきが一瞬消え失せます。しかし、すぐに森のざわめきは戻って来ました。極上の血です。今回ばかりは王に従う者などいません。
誰もかれもが血を求めているのです。
王は駆けます。風となり、揺らぎの丘を越えて、骨折りの洞窟を抜けて、駆けます。森の方が王を避けるかのように道を開くのです。
王の先を行くものはおらず、王の道を阻むものもいない。咆哮一つ、彼の声が森へと響き渡ります。それは彼が狩りを始めた合図でもありました。
いろいろと動き出すようです。どうなるのでしょうか。
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