day 1
どしんと、大きな音を立てて灰色の二足狼。いわゆる人狼は倒れました。この美しの森の表層の王であり、銀灰とニンゲンに呼ばれている隻眼の人狼さんです。
それが大きな音を立てて倒れました。スライム君の突進が決め手となり、長い戦いが終わりを告げたのです。
スライム君はぼろぼろでした。スライムなのでぼろぼろという表現は適切ではありませんが、ニンゲンさんにとって表現するにはそうしかありませんでした。
きれいな赤い身体は今やちぎれていますし、体もその分だけ小さくなっています。それでもスライム君は勝ったのです。最弱と言われるスライムのスライム君は勝てるはずのない人狼さんに勝ったのです。
「どうして――」
だからこそニンゲンさんはわかりません。どうして自分の為にスライム君がそこまでしてくれたのか。単なる餌の為だからというわけではないでしょう。
なぜならば人狼さんはそのことがわかっていたので、スライム君も一緒に連れて行ってくれると言ったのです。寧ろ、ニンゲンさんの世話も人狼さんがすると言っていたので、スライム君としては断る理由などないはずでした。
ですが、スライム君はそんな人狼さんの提案を断り、戦うことにしたのです。
どうしてでしょう。温厚なスライム君は、どうして戦ったのでしょう。戦ったせいでスライム君はひどくぼろぼろです。スライムということを鑑みても十分、大けがの領域です。
ぼろぼろのはずなのにスライム君は嬉しそうにぽよぽよとニンゲンさんの前ではねています。
「どうして」
ニンゲンさんにはわかりません。ニンゲンさんにはスライム君の言葉はなにもわからないのです。ただぷるぷると震えているようにしか見えません。
「どうして、こんな私なんかのために、そこまでしてくれますの……?」
歩くための足も、何かをするための手もない何もできない自分の為にどうして、とニンゲンさんはスライム君に問いかけます。
けれど、スライム君にはわかりません。スライム君にはニンゲンさんのことは未だになにもわからないのです。ただ口をぱくぱくさせて音を出しているようにしか聞こえません。
「こんなにもぼろぼろになって、どうして……」
その時、スライム君はひときわ大きくはねました。やったよと言わんばかりです。事実そういったのかもしれません。
けれど、ニンゲンさんにはわかりません。
それから、じっとニンゲンさんを見つめます。体を大きく広げてまるで君は、僕が守るよと言わんばかりです。事実そういったのかもしれません。
けれどニンゲンさんにはわかりません。
ニンゲンさんにはスライム君の言っていることは何もわからないのです。でも、きっとそういったのかもしれないと思いました。いいえ、思いたかったのです。
ぽろりとニンゲンさんの頬を一筋の涙が流れます。次々とあふれ出して止まりません。それは、初めて受けたやさしさだったからかもしれません。
これにスライム君は大慌てです。涙を流すということは痛いということです。どこかけがをしたのでしょうか。どこか痛いのでしょうか。
体中を触ってもわかりません。寧ろどんどん泣いてしまいます。スライム君は困ってしまいました。ですが、何をしていいのかわかりません。ただ慌てて身体を震わせるばかりです。
「ちが、違うの、これは、違いますの。うれしくて、ないていますのよ……」
困って慌てるスライム君に、そうニンゲンさんは言います。言葉はわかりませんが、大丈夫ということは伝わったようです。代わりに、どういうことなのだろう、とスライム君は身体をぐにぃと曲げます。
ですが、泣き止んでくれました。スライム君もほっと一安心です。
「ふふ、ありがとう。素敵な騎士様。これくらいしか、私にできないけれど――」
ふわりとニンゲンさんがスライム君に口づけをします。優しい口づけです。
スライム君は何をされたのかわかりません。スライム君はスライムなのでニンゲンの口づけという文化を知っているはずがありませんでした。
もしかして食べられてしまうのかもしれないと思ったほどです。ですが、口づけされた部分が妙に温かく感じます。それになんだかとても良い心地です。
なんでしょうこの気持ちはスライム君にはわかりません。ですが、ニンゲンさんを守ろうと思った時と同じ気持ちです。
温かく心地のよい気持ち。もっと感じていたいですがスライム君は少し疲れてしまいました。ニンゲンさんの隣で眠ります。
ふと、なんだか心地よい振動を感じます。それはニンゲンさんの詩でした。子守歌のようですね。ゆったりとした綺麗な歌です。
スライム君にはもちろん内容なんてわかりませんが、とてもそれは良いものだと思いました。
「ありがとう。本当に――出会ったのが貴方で良かったですわ」
――あの日、堕ちてきたあの日に出会えたのが貴方で良かった――。
ニンゲンさんの言葉がすっと響き渡りました――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
さくりと、何かに刃を入れた音が妙に大きく少女の耳に伝わります。いいえ、それは違います。伝わったのは耳ではありません。
なぜならば、それは音になって耳に聞えるほど大きなものではなかったからです。少女がそれを感じたのは全身でした。
さくりとした感覚を触覚が感じ取り音として頭に伝えたのです。それはつまり、自分の身体に刃が突き立てられたということでした。
鈍い痛みがじわりじわりと広がっていきます。つつぅと進むナイフの感触と同時に熱っぽさと冷ややかさが同居した奇妙な痛みがじんわりと全身に広がっていくのを少女は感じていました。
皮膚を裂いていくのは一振りの冷ややかで同時に血の色に染まる熱っぽいナイフ。そのナイフが通ったところから血が流れ出します。
それはドロドロのマグマのように熱く、その熱はどんどん、どんどん、体中に広がってきます。しかし、不思議と痛みは一瞬でした。
一瞬。突き立てられ肉へと食い込み、最後の一線が切れた瞬間、鋭い痛みが走るのです。あとには鈍い痛みが熱とともに広がって行きます。
どくん、どくんと心臓がはねているのがわかります。そのたびに、鈍い痛みが脳を焼きます。熱となって痛みが襲います。それは思ったほど痛いものではありませんでした。
しかし、確実に腕が斬られているのです。自覚して言葉にすれば現状はそういうことになるのでしょう。しかし、少女はそんな異常事態を自覚してなお思考が追いつきません。
直接の現場を見ても、現実感のことごとくが欠落していて、まるで全てが夢の中の出来事であるようだと感じていました。
――ああ、切れている。血が赤いな。痛いな。
そんな現実感に乏しい反応しかできません。夢見心地とはまた違います。夢のように逃避できていればなんと良かったのか。鈍い痛みがそんな逃避を赦さず、これが現実であると少女に容赦なくたたきつけるのです。
そんな夢よりも遥かに常軌を逸した光景に悲鳴すら上がりません。ただただ、切られていく皮膚を、筋肉を、肩から引き抜かれる骨を見ていることしか少女はできずにいたのです。
「ご老体、どうしてそんなナイフで切るのですか? のこぎりなどを使った方がよろしいのではありませんか?」
そんなときです。それでは効率が悪いのでは? と疑問を多分に含んだ男の声が響きます。
確かに今、少女の腕を丁寧に丁寧に血まみれになりながら切っている老人の手にあるのは小さなナイフです。とても四肢を切ることに適している道具とは思えません。
それに対する老人の答えは非常に男を馬鹿にしたような、心底呆れたものでした。
「阿呆か。これほど美しい腕をのこぎりなんぞで切るなんてもったいない。腕を良い感じに握らせたまま切っているのがどういうことかわからなでもないだろう」
そして、歯が抜けて不気味な顔で下劣な笑みを老人は浮かべます。男にはわからない世界でした。わかりたくもありません。
問題はきちんと仕事がなされるかどうかでした。
「安心せい。ほれ、まずは一本目だ。ほほぅ、綺麗な指じゃのぉう。神の指と言われるだけのことはある。本当にもらっていいんじゃろうな」
「左腕以外だ。それ以外は私には必要ない。しかし、切り落とした腕を何に使うというのかね」
「わしのアレにつかうんじゃよ。アレじゃ」
そう言って老人は腕を股間にもって上下に振ります。下劣な上に下品でもありました。心底男は嫌悪を抱きますが、この男以外にこの仕事ができるものはいません。
なので、それを表に出さず無表情を貫きます。
「なるほど理解した。」
そんな会話を少女は聞いていました。しかし、少女にはどこかで聞いた声と聞いたことのない老人の声に聞えていました。あまり意味はありません。
そんな会話すらも遠くに感じていたのです。肩から先がなくなったことが現実だと認識できない。頭の中が妙に冷えていて、何も感じられていなかったのです。何より目の前の光景が信じられないのでしょう。
そう少女が思っているとふたたび、さくりと刃を突き立てる音が響きます。今度は左腕。右腕の次は左腕を、ぐるりとナイフが皮膚を綺麗に裂いて行きます。
刺すような痛みはやはり一瞬だけで、その次には熱のような鈍痛がじょじょにじょじょに広がっていく。ぐるりとナイフを一周させるとぽたりぽたりと血がしたたり落ちていきます。
それを目の前の老人は舐めとりながら今度は筋肉を裁断します。繊維の根元から切断し、ひとつひとつほぐすように解いてははがしていきます。
少女が感じるのは肉を触られている不快感とやはり熱でした。鋭い痛みは一瞬だけ。あとはどくん、どくん、と鼓動に合わせて流れる血の熱量と鈍い痛みだけが脳を刺激します。
息苦しさに少女の息が荒くなっていきます。流れ出す血が床に溜まって湯気を上げているようです。鉄さびのような匂いが鼻につきます。
それでも、この現実感の薄い行為を少女は正しく認識できずにいました。いいえ。違います。少女はこんな現実を認識などしたくなかったのです。だから、気が付かないふりをしているのです。
「ほれ、約束の左腕じゃ」
「確かに。あとは好きにしたまえよ」
「なん……で」
声が出ました。男に対して思わず少女の口から声が出ました。
「目覚めて来たようだね」
「どうするんじゃ?」
「このままやりたまえよ。私には関係のないことだ」
しかし、男には関係ありません。もはや全ては終わったことなのです。
「さあて、足じゃ足」
「まったく理解しかねる。足などどうするというのだ」
「足も使うんじゃよ。足もきれいじゃわい」
「…………」
もう男はこの老人に問うことはやめることにしました。腕は良いのですが、この性癖だけは理解できそうがありません。
男が頭を抱えている間も、老人は作業を続けていきます。ナイフを振り下ろしていきます。
少女の体に三度目の鋭い痛みが走り、熱痛が広がっていきます。今度は、ごりごりと削る音がしました。骨が削れる感覚が全身へと伝わっていきます。
少女の全身に鳥肌が立ち寒気が背筋を昇って行きます。それでも不思議なことに鋭い痛みは一瞬。それからは終わることのない熱痛が全身を蝕んでいくのです。
気が狂いそうになります。そして、それは四度目まで続きました。
「ヒヒヘヘイハ、良いコレクションになるわい。感謝するぞ」
「私としては左腕で十分であとは殺すだけだったのだがね。さて、気分はどうかな?」
「…………」
焦点が合わない。息が苦しい。熱い、じんじんする、痛い。痛い痛い。いたいいたいいたいいたい。
少女はもう虫の息でした。
「しゃべる気力もありませんか。苦しいでしょう。せめてもの慈悲です。楽にしてあげよう。私の最後の忠義です。どうぞお受け取り下さい」
少女はその綺麗な金髪をつかまれて引きずられて行きます。そこにあるのは穴でした。深い、暗闇が広がる穴。
そこに連れていかれてしまいました。
「ほうら、アビスの穴です。アビスがどのようなものかあなたは良くご存じでしょうが、実際に見たコトははありませんね。もしよければ見てきて感想を聞かせてください。――まあ、できればだがね」
「どう……して……」
「なぜ? はは」
それは嘲笑でした。
「この期に及んで、いまだに状況を理解できないのか君は。君はなんて、愚図なんだ。そんなだから、おまえの両親も死ぬんだ。つまり、おまえが悪いんだよ。おまえが死ぬのはおまえに生きる資格がないからだ。それに、私はおまえが心底嫌いだったんだよ」
「たす、け……」
「ええ、お助けします。苦しみから、死という救済を差し上げます」
「ぁ――」
男は髪の毛をつかんでいた手を放します。少女は落とされてしまいました、漆黒の穴へ。
どこまでも、どこまでも少女は堕ちて行きます。
遥かな奈落の底へ――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
照り付ける陽光もないのに明るく、妖精光が舞う。そんなある種幻想的な光景を持つこの場所を人はアビスと呼びました。自分達の世界の真下にある世界。地下世界や地獄とも呼ばれます。
そんな世界の辺境にある小さな森は大層緑が美しく、湖は様々に光輝く虹の湖が存在していました。美しの森とアビスに住む人々からは呼ばれています。
そんな森に一匹のスライムが住んでいました。なんと、ただのスライムではありません。水を主食とするブルースライムでもなければ、草を主食とするグリーンスライムでもありません。
体に色はなく透明。そう、このスライム君はクリアスライムと呼ばれるとても珍しいスライムだったのです。
スライムは高い偏食性を有していることで有名ですが、実は最初から偏食しているわけではないのです。スライムは元々なんでも食べることが出来ますが、それでは世界も食べてしまうと神様により最初に食べたものを主食とする偏食性を持たされたのです。
クリアスライムとは、偏食性をまだ持っていない状態のスライムのこと。普通ならばすぐに何かを食べて偏食性を持ってしまうので、クリアスライムは非常に珍しいのです。
そんなスライム君は、食べるものを探しているようでぼよんぼよんとご機嫌に弾みながら移動しています。なんとこのスライム君は普通では満足できないグルメ君だったのです。
自分に相応しい食べ物は何かないかと同期のスライムたちとは違う道を行くまさにスライムの中のスライムを自称していたのでした。
そんなスライム君は、何かないかとあたりを探しています。水や草などではなくもっと何か特別な。そういうものを求めていました。
そんなときです。夜でもないのに急に暗くなります。はて、なんでしょうか。そうスライム君が疑問を感じて身体をぷるぷると震わせた時です。
何かがすさまじい勢いでスライム君の上に堕ちてきました。あらあら、どしんとすごい音がしました。砂煙が巻き起こっています。スライム君は大丈夫でしょうか。
砂煙が晴れると、問題なくスライム君はそこにいます。スライムは衝撃に強いのです。切断にも強く弱いものはスライムの種類によりますが火などです。あとは魔法と呼ばれるアビスの不思議な技術もそうです。
さて、温厚なスライム君ですが、いきなり上に何か落っこちてきたらさすがにご立腹の様子。ぷるぷると震えます。
その時です。芳醇な味が広がりました。それは自分の上に堕ちてきたモノから流れ出しているようです。赤い液体。そうです血でした。
赤く、朱く、紅く。それは命の色でした。スライム君にはないものです。それは甘く、芳醇で、これこそ自分が求めて来たものではないかとスライム君は思いました。
何よりもう飲んでしまったのです。この血以外にもう飲むことはできなくなってしまいました。スライム君の体の色が透明なものから色がついていきます。それはブラッドレッド。血のような赤い色。
そうです。スライム君はブラッドスライムとなりました。ブラッドスライムもまた希少なスライムです。本来であれば巨大な生物に寄生的に生活しているスライムです。
共存している生物が怪我をしたときにそのけがを塞ぐと同時に少しだけ血を貰うのです。それ以外は、基本的に宿主の上で丸まっている非常にマイペースなスライムです。
この変化はスライム君にぴったりですね。さて、これからどうなるのでしょうか。
スライム・ミーツ・ガール。
ひとりと一匹の物語。
美しく残酷で優しい童話のようなお話を目指しています。
私ハッピーエンドが好きなので、どんなに少女が不憫な目に遭おうとも最終的には絶対に幸せなハッピーエンドにしますので、どうか、どうかよろしくお願いします。
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ストックがあるんでできる限り毎日更新で行きますが、リアルの都合ではどうなるかわかりません。
機構聖剣の方はストックないんで週間更新です。すみません。
では、どうかごゆるりとお楽しみいただければと思います。