八、月下の姫
「リミットは三十分――だいたい1800秒か」
俺は数を数え始める。
数えながら行動するってのは意外と骨が折れるから、最終的には体内時計でなんとかできるようになりたいもんだ。
とりあえず今は、手の指を一本ずつ握っていって両手に拳が出来たら「10」と声に出して行く。
『指時計』ってとこかな。
これでも頭ん中で数を数え続けるより、思考にかかる負担は少ないし、ある程度作業を身体の部分部分に自律的に分担できるから悪くない。
即興にしては上々だろ。
「20」
手を使う時はしょうがないから、頭の中で数えるしかないけどね。
さて、まずは宿舎を出るんだけど正面から出てくほど俺もバカじゃない。
誰かに見られる可能性が高いし、一応、寮監みたいな人間もいる。みんな婆さんばっかだけど。
「30」
ってことで、俺は部屋の窓から脱出する。龍の部屋が一階で良かった。
一応、窓から首だけ出して上下左右を確認する。全方位クリア。
最悪、二階でもこの身体なら下に飛び降りれそうだけど、ケガでもしたら龍に勘づかれるかもしれんし。
ひょいっ、て感じで窓の桟を跳び越えた。
外はまだ宿舎の敷地内だ。この宿舎は1メートルぐらいの背の低い垣根に囲われてる。宿舎の木造の骨と土壁、緑の垣根に挟まれた幅50センチくらいの狭い地面に着地。
垣根はこの身体だとヘソより下ぐらいまでの高さしかない。
その向こうは土の道路だ。陽が落ちておおよそ一時間ってとこだろう。今は確か夏のはずだから夜の八時ぐらいかな?
道路に人影は無い。
「40。さて往きに使う時間は900、もしくは1000ってとこかな」
呟きながら垣根も垂直跳びで跳び越える。やべえ、よゆーだ。この身体のスペックまじで半端ねえよ。
道路に降り立ってからも念のために、辺りを窺う。
五日目にもずっと眺めてたけど、夜出歩くヤツは予想外に少ない。一、二時間に一、二組ってとこ。
夜遊びできるようなレジャーが少ないっていうこともあるし、この世界の朝が異様に早いってのもあるんだろう。日昇が早いんじゃなくて、行動を始める時間が早いんだ。
この七日間、龍は俺が身体を操るトレーニングを切り上げるのとほぼ入れ違いに目を覚ましてた。
空が僅かに白み始める時間だから、朝の四時ぐらいには起きてる感じか?
早寝早起きって、ジイちゃんか! とは思ったけど、俺は言わない。
「50」
だって媒体が無いんだもの。夜に起きてて何するの? って話になってくる。
人間だった頃「蛍雪の灯りで勉強する」みたいな昔話を聞いたことがある。要は昔の貧乏学生は夜に勉強する時も、灯り代がもったいないから、「蛍の光」や「雪の明り」みたいな僅かな灯りででも勉強しましたー。っていうヤーツ。
……ナンセンスなんですよね、そんなこと平成産まれの俺に言われても。
換骨奪胎して「すっげえ向学心だろ、どうよ?」って言いたいのはわかります。でも不眠の国・日本でそんなこと言うのは、この異世界で「みんな、寝るの早くね?」って言うのとちょっと似てる。
だって日本では夜にも幾らでも光が溢れてるし、こっちの世界じゃ勉強しようにも本さえ無いんだもの。この異世界はそういう意味では意外とシビアだ。
さて、そんなシビアなこの世界にも、夜眠らない人間が居る。
具体的には俺が今立ってる道路の端から50メートルぐらいの位置にふたりほどいる。
「何者だ!」
宮城の門番らしい。やっべー。そりゃ、声かけてくるか。今めっちゃ目合ってたからなー。
「60」
ヤダ、凡ミス! 俺としたことが……いや、俺らしいケアレスミスなのか。
どうしよう、逃げようかしら?
おろおろしてるからなのかしら、なんかオネエ言葉になっちゃう。
「そこを動くな! ……え?」
あれ? 声を掛けて来たほうが、もうひとりにゲンコツ食らってるぞ。
なんか説教されてるみたい。
「70」
ん、武器を置いてこっちに来るな。なんか駆け足だけど、捕まえに来る感じじゃあないよね。
お、俺の眼の前まで来たぞ、んで頭を下げてる。
「失礼いたしました、校の学生さんでしたか」
「80」
「え?」
しまった。カウントを口に出しちゃった。
「いえ……そうです、学生さんです」
一応、持ってきた龍の学生用の身分証――カマボコ板を見せる。
月明りにそれを眺めると、門番さんが顔を強張らせた。
「そ、そうですか……つかぬことを伺いますが、あの、夏官にご係累がいらっしゃったりなどは……」
あー、なるほど。そういうことね。
学校には高級官吏のご子息方もいらっしゃいますもんね。受ける授業が若干違うらしいから、あんまり見たことないけど。
――パパぁ、夜遊び行こうとしたら、あの下官に怒鳴られたよー。
――よしよし、そういうヤツは国外追放だな。
みたいな? そういうのもあるのかもしれない。
「あー、いませんよ。……友だちにひとりそういうのがいるけど」
完全に否定すると、居丈高になってきそうだから、ちょっとだけ脅す。
雪がいるからまったくの嘘じゃないし。あいつは夏官長に眼を掛けられてる才人なんだから。
「……今宵のことは、是非ともご内密に」
「90」
「え?」
あ、また声に出しちゃった。
「や、なんでもないっす、……俺もわかってますから」
とりあえず笑顔を作ると、門番さんも安心したみたいで「有難うございます」って言って門に帰ってった。
なんとも世知辛い気分になるな。
「100」
さて、気を取り直して俺は歩き出した。今夜の目的はこの城壁内の散策にある。
最終的にはこの街の地図を作りたいところだ。
ちなみにこの街は到る所、壁に囲まれてる。蝶の時に俺が越えたみたいな土壁だね。でもあれほどは高くない、せいぜい三メートルぐらいか。
壁に区切られた区画はそれぞれ役割が違うらしいから、観光にはもってこいだね。
とりあえず、まずはこの広い道路をまっすぐに歩いてみよう。
「110」
……龍によれば確かこの国は皐公爵国って言って、この街は国の首都って感じらしい。
半里四方の宮城の壁を囲む大きな街があって、その外をさらに大きな外郭が囲ってるんだって。外郭の長さは一周十里強なんだって。へーって感じ。
それを訊いたのは確か四日ぐらい前の昼飯時だったと思う。
よくわかんなかったから、『もうちょい詳しく』って言うと、(何がわからぬというのです?)って頭の中で龍の声が響いた。
いや、わかんねーさ。メートルで言ってくれ。いや、メートル法とか無いっすよね。
俺が『里って何?』って龍に聞くと、(三百歩です)って返してきたから、『歩って何?』ってまた聞いたら、(男が二足踏み出した長さですな)とアバウトな回答。
身体尺ってヤツか。
そこで俺は心を捻った。人間の頃に聞きかじった情報によると、確か成人男性の一歩は70センチ弱から80センチ強ぐらいだったはず。とりあえず70センチと仮定。
ふた足ってことは二歩ですよね。つまり二歩が一歩になる、という……頭に浮かぶ漢字がややこしい!
とりあえず、一歩は1.4メートルくらいで、×300の……。
一里=だいたい0.42キロメートル、つまり外郭は一周だいたい4.5キロっすか。へー。
その時はいまいちピンと来なかったけど、自分の身体で歩いてみるとわかる。
「意外と広いよな……120」
俺は夜の道の真ん中を歩きながら呟いた。
そりゃそうか。確か健康ランナーの聖地、皇居外周がだいたい5キロだったんだから、この街はあのだだっぴろい皇居よりちょい小さいぐらいってことになる。
ついでに、宮城の壁は半里四方だから、一周が二里で850メートルぐらいか。
で、このまっすぐ外郭まで続いてる道はたぶん、外郭にある門まで400メートルぐらい。
月明りの中でもそんなに遠くにある門がちゃんと見えるのは、身体の視力がイイからだろうね。
スペック高いわあ。この身体。
しっかし、なーんもねえなあ。
いや、確かに道路の両サイドには建物が建ってるんだけど、ほとんど灯りが点いてない上に門へと向かうほど、その僅かな灯りさえ減ってる。
お先は真っ暗だ。月が結構ちゃんと出てるから明るいっちゃ明るいんだけど。
「あーあ、なんか女の子の居るお店とか無いんすかねー……130」
先に行ってもなーんもなさそうなので、気まぐれに左サイドの建物と建物の間にあった路地に入ってみる。
路地って言っても割りと広い。2メートルぐらいの幅はあるね。
奥に壁が見えた。行き止まりかなって思ったけど、よく見るとデッカイ穴が空いてる。あれか、区画を区切る壁と通り抜ける為の門か。
門の先でなんか灯りが揺れてる。誰か居るの? 灯りが横に流れて消えたな。向こう側の道を走り抜けた感じかな。
なんか、あったのかな?
そう思って、門を覗き込むように近づく。
「ひゃく……ぅううっ?!」
イッタ! 尻餅ついちゃったあ!
……おい、なんか結構重量があるもんが上から降ってきたぞ! てか数、飛んじまったじゃねーか!
痛ってー、……ってほど痛くねーわ。
重かったけどなんか、やらかかった。しかし、なんですか? 現在、腹のあたりにのっかてる物は。布に包まれたそこそこ大きい固まりみたいだけども。
……布から手足が生えてるぞ。
あ、動いた。
こいつ・・・動くぞ! じゃ、なくて。
布っつーか、マントだね。そこから飛び出してる手は、透明な銀色の月光を受けて白ーく闇夜に浮び上がってる。
マントの上のほうから、こぼれて流れる長い髪は艶やかに輝いて……あ、顔上げた。こっち見た。
片目が布で覆われてるけど、見えてるもう片方の眼がデッカ!! 化粧っけが無いのに、肌白っ!!
鼻ちっちぇーな! ほっぺたがちょっとだけふっくらしてて、小さな口を飾る慎ましい唇がほのかに紅いよー!! 重いとか考えてマジゴメン!! むちゃくちゃ軽いっす!!
「……すまぬ、助かった。妾は……」
「――お、おや、おや、親方あー! 空からおんな……むぐ」
口を塞がれました。両掌で。
「貴様! たわけが!」
お叱りを受けました。我々のギョ-カイではご褒美です、はい。
……でも、あの名言は最後まで言わせて欲しかったなあ。もう二度とこんなチャンスないだろーに。
こちらの口を塞ぎながら、空から降ってきた少女はキョロキョロと辺りを見回す。……何、この可愛い生き物?
「……大声を出すでないぞ?」
少女の念押しに俺は激しく頷いた。掌が顔から離れて、口が解放される。
いつでもこちらの口を押えられるように、この身体の腹に馬乗りになりながら身構える少女は、片目でこっちの身形を注意深く探ってから「ふぅー」と溜息を吐いた。
何なのっ? この可愛い生き物!!
「改めて、礼を。妾は皐公国、公爵・皐霜が三女、名を妭と言う。その方の名はなんと……うん? 何やらおかしいな」
なんだ。なんか首を傾げてるぞ。
って言うか、今なんか変なこと言わなかった? この娘。「公爵の三女」とかなんとか。
うん? なんか顔に巻かれてる布を取るみたいだぞ。少女のもう片方の眼が布の下から顕れる。閉じられてた目蓋が開かれる。
――黒い、闇よりも黒い眼球。瞳じゃない。白目の部分が全部、真っ黒なんだ。
その中央に紅い円が浮かんでる。瞳の輪郭を描く細い、血みたいな紅色の線。
紅い円の中、外側と同じような暗闇色の瞳の中心で、一点だけが燃えていた。緋金の瞳孔――。
全身の毛穴が開く。汗が噴き出す。背筋に怖気が奔る。
これ、ヤバいヤツだ。身体が、全身が特大級の警報を放ってる――でも、動けない。
緋金の光がこちらの瞳を貫いてる。それが身体の、頭の中まで突き刺して、俺の存在を縫い止める。俺は射竦められてる。
ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい!!
「お前、鬼か!!」
俺は知った。
この世界ではモンスターは何も、敵キャラのように登場するわけじゃ無い、ってことを。
この少女は間違いなく怪物だ。
いや――俺の眼の前に居るのは、たぶん、少女の形をした怪物なんだ――
そして、俺はワケも分からずに≪死≫を覚悟した――