七、夜の日々
試そうとは思ってた「夜のお散歩作戦」だけど、いつでも計画を実行に移すのは難しい。
俺がまだ人間だった頃、どれだけ多くの計画倒れのプランを立てたことか。
例えば、小学生の頃の「カブトムシの楽園作戦」とか。
あとは、中学生の時の「委員長は実は運動も出来るんです作戦」とか。
高校の時は言うまでもなく「一匹オオカミなんだぜ、作戦」だな。
結論を先取りすれば、ぜーんぶ、しくじった。
夏休みが終わるころには「カブトムシの楽園」になる予定だったプラスチックの虫かごは、まるっと一週間ほどその存在を忘れて遊び呆けたおかげで、「カブトムシの墓場」と化していた。
……今でも、十数匹のカブトムシがひっくり返ってカサカサになって死んでいた光景を鮮明に思い出せる。
次の「委員長は実は運動も出来るんです作戦」の内実は、クラス対抗のバスケットボール対決でシュートを決めてヒーローになってやろうっていう実に単純な内容だった。
……回って来たボールを常にゴールに向かって投げまくったせいで、最初の数分から先、二度と俺にパスは来なかった。
高校の時の「一匹オオカミなんだぜ、作戦」については言うまでもない。
……気づけば、ボッチだった……。
だが、人間は学習するもんだ。
俺の場合、人間の中でも底辺の部類だったから学習が実を結ぶまで時間がかかったのは仕方ねえ。
その間に、蝶になったりしてたのもきっとしょうがないことだったんだ。
……なんて物分りのイイことは言わねえ。
俺はこの一週間、もんのスッゴく人間の幸せを噛み締めた。
いや、俺自身の身体は無いから人間未満なんだけども、それでもだ。
人と話せる喜び――話し相手は龍だけだけど。
そこそこの味の三食の飯――味覚も龍の舌を借りてるんだけど。
屋根とベッドのある生活――精神体のせいなのかあんまり眠くならねーんだけど。
……考えてみると、あんま幸せでもなかった気がしてくる。
いや、それでも結論は変わらねえから構わない。
――復讐だ。
俺の心の中の蛮族が血を求めてる。
どこの誰だか知らねーけど、人を勝手に蝶なんかにしやがって、ぜってー許さねえ。人権無視もイイところだ!
俺が人間の身体で語るはずだった時間を、食うはずだった飯を、迎えるはずだった安らかな夜を返せと言ってやりたい!
この世界には怪っていうモンスターも、鬼だか神だかもいるみたいだし、たぶんそのあたりの何かが俺を蝶にしたんじゃないか?
七日前、龍には「人生何が起こるかわかんねーけど、前見て進め」的なことを俺は言った。
確かに、俺もそう思う。それが正しい。
たぶん、あの朱蝶っていう名前になった夜、俺は人生で初めてイイことを言ったんじゃなかろうかって自画自賛したくなるぐらいだ。
いや、蝶を経て精神体になってんだから、人生っていうのはおかしいんだけど。
問題は俺の存在が精神だけっていうこの状況にある。
前ってどっちだよ! って話だ。誰かこういう生物になった場合の処世術を俺にレクチャーして欲しい。
だから俺は、俺の心の中の野蛮人の「バルバルバルバル」っていう声に従うことにしたんだ。たぶん、バルバロイは復讐を求めてる。「バル」しか言わないけど。
そしてこの「夜のお散歩作戦」こそが復讐の第一歩に繋がるのだ! ……たぶん。
決して、久々に人間の身体を満喫したいなーとか、そういうんじゃない。
あれだ、その、いざって時の為に……そう、例えば何らかの理由で龍の意識が無くなって身体が動かせない時、とか。
その「いざって時」が来た時に「身体がうまく動かせないよー」じゃ洒落にならないからね!
で、「いざって時」が俺の復讐相手の眼前でやって来る可能性もあるからね!
そーいう意味で復讐の第一歩なのだ。
……よし、俺の中でなんとなく大義名分ができたぞ。
これで心置きなく「夜のお散歩作戦」を開始できる。
実は準備自体は七日前から始めてた。
俺だって、小学生の頃から伊達に失敗を重ねてきたわけじゃない。
いつだって俺は漠然とした結果を求める為に、正当な手順を踏んで来なかった。だから今回はひとつひとつ、着実に積み重ねて来たんだな、これが。
初日。まずは寝てる龍の意識レベルの確認。声掛けだね。ちゃんと寝てるのを確認した。
次に身体を動かせるかを試してみる。……どれだけ気張っても動かせなかった。そこで思い出したのは昼間ガッツポーズを決めた時の気持ちだ。あの時のことを思い浮かべて、
『ひゃっほう!』
って言ってみたけど、まったく動かなかった。テンションが低いのか?
そう思って過去の嬉しかった思い出シリーズを思い浮かべ続ける。でも、改めてその少なさと小っちゃさに愕然とする始末。
『……なんだよ、卵の黄身が双子だった、って』
最後に絞り出したそのエピソードに逆に落ち込んで初日は朝を迎えてしまった。
二日目はちょっと冷静に考えることから始めた。
テンションの問題ではなさそうだってことは初日にわかった。
そこで昨日のガッツポーズを決めるまでの状況をトレースしてみる。
『蝶の生活に限界を感じてて、もう終わりにしたいと思って……』
巨乳ちゃんの谷間で潰されたいと思って、城壁を飛び越えて、街を彷徨って、そしたら横から手が伸びて来て……。
終わった。そう思って次に目を開けたら。
「あれ、暗い」
あ、声が出てる! 目蓋動かせる! やったぜ、俺、龍の身体動かせてる!
と思った次の瞬間には動かせなくなった。
『なんでだ?』
呟いて、もう一回最初からトレース。
また蝶になった気持ちで、城壁を飛び越えて、巨乳ちゃんを探して、横から手が伸びて来て……。
「成功」
声に出した。やっぱり成功体験を正確になぞるのが唯一の手段らしい。
そのあとも、何度か身体の支配権を獲得したり、失ったりしてるうちに俺はひとつの事実に気がついた。
『この身体が龍のものだと思うとダメになるっぽいな』
身体を自分のものだと信じて疑わない。そうしないと、すぐに支配権を手放してしまうことになるらしい。
考えてみると、理に適ってるような気もする。
誰だって自分の身体を動かす時に、どう動かすかなんて考えてないはずだ。身体が自分のものだっていう前提がいつでもあるはず。
そうしてさらに幾度か身体を操るまでのイメージを鍛えて、二日目も外が明るくなって来たので終了。
三日目、俺は重大な問題にぶち当たる。っていうか気がついたのだ。
『……もし、龍の身体の主導権を完全に奪ってしまって、精神だけの状態に戻れなくなったら?』
確かに、完全に身体を支配するってことは何度か想像した。
それにはメリットは多いけど、デメリット――というより重大なリスクが幾つか付き纏ってる。
まず、俺――朱蝶を知る人間がいなくなる可能性、または龍が敵に回る可能性。
龍が精神体として存在できるかは微妙だし、たとえ存在できても敵に回られるといつ寝首を掻かれて身体の主導権を奪い返されるか、戦々恐々としなけりゃならん。
次に、俺独りで生活を送れるのか。
今は、たぶん龍の経験や知識を参照している状態に違いない。龍が消えたあとや敵に回ったあとでもそれらがちゃんと機能する保証はない。
さらに、地官長からのミッションをこなせるのか。
たとえ龍の知識や経験を問題なく参照できたとしても、俺は実際に龍が遊んだっていう山野を歩いたことすらない。そんな状態で命令をこなせるだろうか。
そして最後に一番現実的な問題だ――龍のパーソナリティを、俺は演じ切ることができるのか?
たった三日でも、心の中を覗き続けてればコイツがどんなヤツかわかる。
龍ってヤツは掛け値なしのイイヤツだ。そして、タフだ。
ふつうなら、頭の中に別人が住み着いたら不安になるだろうし、疲れるだろうし、辛いどころの話じゃないはずだ。
何せ嘘が通用しない状態で、四六時中ずっと監視されてるようなもんなんだから。
それでも龍は初日の混乱以来、基本的には俺を信頼し続けてる。これから先はどうなるかは、確かにわかんねーけど。
掛け値なしのクズの俺に龍の真似はたぶんできない。身体を乗っ取って、巧く演じてたって、きっとそのうち誰かが気づくだろう。
お前、誰だ? ――そう、言われる瞬間が来る。かなりの高確率で。
そしてそんな龍に――正直に言えば、俺は恐怖を感じてるんだ。
――俺は、龍っていう男がどこかおかしいんじゃないかって思い始めてる。
……いや、そこは深く考えてもしょうがない。
課題は確実に身体の支配権を手放すイメージを確立することだ。
身体の支配権を得る時に蝶から人間になった時のイメージをトレースしたみたいに。
幾度かの試行錯誤を経て、逆の時は自分の意思とは別に動く身体をイメージすればいいことがわかった。
意思に反して動く身体――反射で勝手に動いちゃう感じに、どこか似てる。
支配権を得るイメージと、失うイメージ。それらを簡略化してスイッチみたいに使いこなせるようになるまで。
三日目は久々に疲れを覚えて、早めに切り上げた。
四日目も三日目と同じことを繰り返す。
だんだんと≪切り替え≫が速くなってく。朝までひたすら繰り返すことで、≪スイッチ≫にも自信が持てるようになってきた。
五日目。俺は「夜のお散歩作戦」の詳細を立案する。
その為に、前段階として小一時間ぐらい数を数えながら身体の支配権を確立したまま窓の外を眺めてみる。
3000を数えたあたりで、そろそろいいかな、と思って≪スイッチ≫を切り替えようとしたら問題発生。
「……戻れねえ」
やばい、やばい、ヤバい!
軽くパニくるけど、一端、深呼吸。
落ち着いて慎重にゆっくりとこの身体の支配権を初めて失った時のことを思い返す。勝手に動く唇、勝手に動き出す脚。≪スイッチ≫が切り替わる。
『……あっぶねぇ』
戻れた。でも、これから先どうするべきだろうか。簡単には≪スイッチ≫が切り替わらなかったのは、たぶん身体を支配してた時間の問題だ。
身体を長く支配すればするほど、馴染んでしまって戻りにくくなる、って感じか。体組織の癒着に似てる。
諦めるべきなんだろうか。……いや、問題は精神体に戻る時の≪スイッチ≫の強度だ。そこさえクリアできれば。
俺は何度も何度も身体の支配権を手放すイメージを練り上げる。手放す時にはそんなに速さは要らない。
確かに、速いほうがいいかもしれないけど、今は確実性優先だ。
ちょっと自信がついて来たところで、さっきより短めの時間を目標にして≪スイッチ≫を≪入れる≫。
やっぱり身体を支配下に置く時には≪スイッチ≫を≪入れる≫って感じがするよな。
さっきより少しだけ短い2800を数えたあたりで、そろそろだな、と思って≪スイッチ≫を≪切った≫。
すんなり≪切れた≫ぞ。
そのあとも何度か試して、数を数えながら過ごして7000を越えるくらいまで支配権を維持した後に戻ろうとすると、かなり抵抗を感じた。このあたりが限界なんだろうな。
『まあ、一秒で一ずつ数えられてた自信は無いけど、大まかに二時間弱かな?』
明るくなりつつある空を眺めて、俺は眠った。
六日目、昼間、なんとなく龍の様子を内側から窺うけど、昨日俺が身体を使ってずっと起きてた影響は無いみたいだな。
授業を受けながら俺は夜の計画を練る。
今日のメニューはあれだろうな。
夜、龍がいつものように早々と寝息を立て始めたので、俺は早速≪スイッチ≫を入れた。もう慣れたもんだ。
昼間、決定したメニューってのは単に筋肉トレーニングだ。
精神と身体が長い時間一体になってると癒着が激しくなるっていうのなら、身体を精神に従えて動かす運動も癒着を助長する可能性があるはず。
まずは、腹筋・背筋・腕立ての王道パターンから。
「おお!」
すげえ楽だ。俺が人間だった頃なんて、たぶんどの筋トレもニ十回と連続してできなかったと思う。
でも、全然違うぞ、この身体。
軽々とそれぞれの筋トレを二百回ずつこなしたあと、俺は横になって≪スイッチ≫を切った。
ちょっとだけ抵抗を感じたな。時間にしたら、三十分強ってとこだろうけど。
やっぱ、運動は危険だ。
でも、これで「夜のお散歩作戦」の時間の目安はおおよそ三十分ってところが妥当だってわかったぞ。
念のため、≪スイッチ≫を入れてさっきより軽い運動をしたり、時間をちょっと伸ばしたりしてからまた≪スイッチ≫を切るっていう作業を二、三度繰り返してから六日目も早めに切り上げた。
――そして、来たぜ決行日!
昨夜けっこう運動したのに龍の体調に変化は無いらしい。精神だけじゃなくて身体もめちゃめちゃタフだな。
ふたりで雪を気絶させ、≪雷名≫って名を聞いてなんか龍が悩み始めたけど、やっぱ疲れてたのか今日も早々と寝息を立て始める。
だから、俺は予定通り≪スイッチ≫を入れた――