二十六、急転
「――私が≪巫姫≫様にお会いしたのは、三歳前でした」
長双さんは、俺の存在に気がついてたみたいで、視線をそのままに喋り出した。
三歳――三年前ってことか。
「当時、十になったばかりの≪巫姫≫様は私にこう仰せられました。
――≪鼻削ぎ卿≫よ、妾の友には蛮の系が及んだ者がおる。そやつも殺すか? ――
とね。猛々しい姫様だな、などと思いましたよ」
ああ、そのおひい様の言う≪友≫っていうのは、尚のことだったんだろうな。
ふたりと長双さんの間にある、微妙な距離感の理由が初めてわかった。
「私が『いいえ、もうこの手をひとの血に染めることは、おそらく無いでしょう』と申しますと、
――ならば、よし! ――
だそうで。……あの頃から≪巫姫≫様は上に立つ者が何をすべきなのかを好くわかっておられました」
そりゃあ、そうだ。
なんてったって、純粋培養のガキ大将気質だもの。おひい様らしい。
「ここは、私が攻め亡ばした、彼らの拠点のひとつでした。……ここの民は勇猛でした。特に、おそらくは族の長でしょう。あの男は強かった……」
『…………』
龍が何かを言いたそうにしてる。
たぶん、俺じゃなく長双さんに。
もどかしげな龍の気配は長双さんには伝わらないけど、長双さんは漸く俺を振り返った。
「……彼の遺族が、もしもどこかに居るのなら、彼の勇敢を伝えたい」
長双さんの瞳はどこか、澄んでた。
俺は、それはどうなんだろう、って思う。
遺族にしてみれば、長双さんは仇なわけだし。
『己らに出来ることは致しませぬか?』
……まあ、龍にそう言われたら、俺には一も二も無いさ。
何せ俺は、間借りしてる身だからな。……何ができるかは知んないけども。
それにしても、ふたりともなんか変わったねー。
お兄さんは不思議ですわ。
『すべて、朱蝶どのが言われたことではありませぬか?』
そんな意味不明なことを言って、龍の苦笑が頭ん中に響いた。
俺にはさっぱりわからんのだけれど。
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「朱蝶どの、≪雷名≫卿。どうぞ、こちらへ! おひい様からお話があるそうです」
尚が、ふたりの元へ戻った俺たちに声をかけてくる。なんか焦ってる。
あれ、なんでおひい様は≪竜眼≫解放してんの?
「――龍! 聴いておるな? 出来る限り急ぎたい。南沼まで昼夜問わずに急いでどれほどかかる?」
おひい様までなんか焦ってる。何があったんだ?
『――己ひとりならば、一日かからず。この一行ならば、荷を棄てての昼夜兼行ならば、丸一日足らずで到れましょうが――』
龍の答えをそのまま告げると、おひい様が決然と頷いた。
「なれば、すぐに発つ!!」
有無を言わせないおひい様の態度に疑問を覚えつつ、俺たちは必要最低限の荷造りをして、そのまま陽も沈むというのに、夜の森へと侵入した。
†††
「――鬼がおらんのだ」
夜の森を駆ける尚の背中に直に負ぶさりながら、おひい様は説明し出した。
「おおよそ五歳も前とはいえ、蛮の鬼もおらず、それどころか三月ほど前の公国一行の鬼すら一匹たりともおらぬ」
おひい様によれば、それはかなりの異常事態らしい。
鬼――人の幽霊は、消えるまで死んだ時にいた場所の近場を漂うのがふつうみたい。
僻地で死んだ人の鬼は、街を目指してゆっくり移動して、やがて消えちゃう。
その移動速度はかなりゆっくりで、ふつうは何年もかかるんだけど、あの蛮の村の跡地みたいな、人が沢山亡くなった場所が近くにあれば、そこに吸い寄せられる。
「三月もあれば、半数はあそこに辿り着いていてもおかしくは無いのじゃ」
でも、それが独りもいない。
そして、蛮の人の幽霊もいない。
「――戦場の≪気≫は≪兵気≫によって切り裂かれ、≪異気≫となることが多い。――じゃが、その≪異気≫すら残っておらぬ」
「先に行った公国の人たちが、あそこにあった≪異気≫を何とかしちゃった、っていう可能性は無いんですか?」
先導役の俺は左手には松明を、右手には剣を掲げながら、龍の脳内指示に従って走る。
走りながら、振り返らずに訊く。振り返ってる余裕なんか無いんだ。
ここ数日で夜の森歩きは何度かしたけど、足許の覚束ない森ん中を走ったことなんてほとんど無い。
龍に無茶をさせられてる感じ。
「無い。魍魎が棲むというから、巫祝を三人付けたが、技量はそこそこといったところじゃ。大きな巫術をそう何度も、続けて行使するほどの力量は無かった。――巫術は身体の力を使うのじゃ」
なるほど。道中、おひい様が寝てばっかりいたのは体力温存の為だったのか。
自分の脚で歩けとか思ってて、ゴメンなさい。
「そもそも、いっぱしの巫祝が付いていて、魍魎ごときに遅れを取ったなど、よほど愚かな事をしたと考えておったのじゃが……」
どうも違ったようじゃのう、とおひい様。珍しく反省してるみたい。
その三人は、ほかの人を逃がす為の盾になって亡くなったらしい。
「つまり、どういう事なのですか? ≪巫姫≫様」
最後尾から、同じく松明を持っているはずの長双さんの声が聞こえてきた。
「――この先に居るのは魍魎などでは無い。――かつては、確かに魍魎だったのかもしれぬが、最早、違う≪怪≫となっていよう――」
敵さん、レベルアップしたってことか。
でも、それが鬼がいないこととか、≪異気≫が無いことと、どう関係してるんだ?
「おひい様、≪異気≫が無いとか、鬼がいないのって、その化け物となんか関係あるんですか?」
訊いてみた。
「――魍魎とは、本来≪異気≫が凝り固まったものじゃ。ゆえに状をなしていようとも脆い。≪格≫は下の下じゃ」
確かに、おひい様は前にも「魍魎の≪格≫は下の下」って言ってたっけ。
「じゃが、魍魎は≪異気≫の≪つなぐ≫性質を保つ怪でもある。――俄かには信じられぬが、おそらく南沼の魍魎だった≪もの≫は、百里も離れたあの蛮邑跡に残っておった≪異気≫を吸い寄せたのじゃ」
は? 40キロ以上も離れたトコロのもんに影響を与えるって、どういう原理?
いや、それが≪気≫とか≪異気≫なのか?
「道中、鬼や怪を見なかったのも、おそらくはその為じゃ。すべて、南沼に集まって喰われておる。今もじゃ。――さきほど≪竜眼≫の遠見にて確かめた」
マジかよ。
何? なんでいきなり、そんなスケール感が変わったの?
俺の心はとんと付いて行けてない。
『なるほど。あのような南邑近くに貙虎が現れたのも、おそらくはその為でしょうな。その≪怪≫の勢力から逃れてきたのでしょう。近くにも禽獣の気配がほぼ無い』
……待て待て待て、龍。冷静なのはイイことだけども。
おひい様が急いでるのは、つまり、今もそのバケモンがデッカくなってるから、ってことだろ?
で、俺たちはそいつをこれからどうするんだっけ?
『……退治せねばならんのでしょうな』
待て待て待て。俺はこないだやっと、まともに野生動物と渡り合えるようになったばっかりだぞ?
それが、なんでいきなり、なんか上級っぽいモンスターと闘うことになるんだ?
……いやいや、だけどもそうだ! そんなに慌てること無いのかもしれない。
「おひい様、勝てますよね?」
そうだ。落ち着け俺!
なんてたって、こっちには「死ねば≪神格≫」のふたりと、≪竜眼≫を持ってるおひい様がいらっしゃるんだぞ!!
楽勝に決まってる!
……ねえ? おひい様、大丈夫だよね? なんで返事が無いの?
「……五分じゃろうな」
マジかよ、マジなんすか、おひい様?!
「問題は、万が一にも妾らの手には負えなかった場合じゃ。――この一行は強い。しかし、その妾らが敵わぬとなれば、国が傾きかねんぞ」
だから、なんでそんなおっきなイベントになっちゃってるの?
そもそも、生き残って還って来た人たちは、なんで事前情報くれなかったの?
『朱蝶どの、彼らはただの士卒です。巫祝などでは無い。わからずとも責められませぬ』
くそぅ。責めるべき相手が見つからねえ。
「おひい様、しかし、なぜ魍魎はそれほど力をつけたのでしょうか? ≪怪≫がこのように短い歳月にて≪格≫を上せるなど、尚は聴いたことがありません」
「……おそらくは、蛮との戦のせいじゃろう。≪兵気≫に千切られ、点在しておった≪異気≫が徐々に引き寄せられていったのじゃ。戦によって産まれた鬼も多かったゆえ」
それって……。
「――半ば、私の責ですか」
長双さんの言葉に、俺は思わず「そうだ!」と言いたくなったけど、グッと堪えた。
いんや、長双さんのせいじゃない。心ではわかってる。
でも、感情的には「勘弁してくださいよー、もおー、長双さんーぅ」って感じだ。
『朱蝶どの!』
いや、俺もわかってるって。冗談ですから。
「……卿の責ではない。国の責であり、さきの失敗を軽んじた妾の責じゃ」
おひい様がなんだか男前だ。
尚に背負われてる状況だけど。
「良いか、急ぐぞ!!」
おひい様の号令の下、俺たちは夜の森をひた走る。
しかし、そんなおひい様たちが敵うかもわからん怪物に、こんな矮小な俺ごときができることなんてあるんでしょうか?




