二十五、虎と対決
南邑を発つと、道路事情が一変した。
道ってよりは、土の地面を雑草ごと踏み固めたって感じ。
踏み固められたはずの地面も、ところどころぬかるんでる。
それどころか、道をふさぐみたいに池や沼まで現れる始末。
『時節においては「霖雨」――長雨の時期を挟んでおりますゆえ、このようになるのです』
全員が直径4メートルぐらいの池を跳び越える時に龍はそう言った。
それでも、俺たちの進行速度はほとんど変わらなかったし、事件っていうほどの事件もなかった。
尚が跳び越える時におひい様が荷物の上から落ちそうになった事もご愛嬌ってもんだ。
それから尚の歩みが一時、のろくなったけど。
この旅で、初めてまともに野宿をすることにもなったけど、尚が担いでた大荷物にはテントが含まれてた。
「おひい様に野営など無理ですので、小さいですが幕を用意致しました」
尚も大概、過保護だ。
野宿の間は、俺と尚と長双さんの三人で、交代で寝ずの番をした。
龍に言われて持ってきた石コロ――火打石で、手間取りながらもなんとか焚火を作る。
「獣も火を見れば、寄っては来ないでしょう」
長双さんの言葉にちょっと安心。
こっちの世界の野生動物もそういうところは変わんないわけだ。
『長双さんにここいらで出る獣をお教えしたいのですが、お伝え願えますか?』
え、いいけど? マジで? この旅で龍がそんなこと言い出したのなんて初めてじゃん。
『……よいでしょうか? まず一番厄介なのは貙虎です。虎の一種にて、ひとを襲います。次に長右……』
俺は、龍が次々と言う動物たちの呪文みたいな名前を、長双さんに伝えた。
どうも、龍の心境には変化があったらしい。
俺はにやにやした。
長双さんとの狩り、そして≪気≫の操作の鍛錬は続いてた。
野宿初日から尚が火の番をしてる間に、ふたりで森に入る。
俺は内心ビクビクしてた。
だって、龍によれば虎が出るんだもん。
前を行く長双さんの鼻唄に、イラッとする。
お待ちかねの虎が出るって聞いて嬉しいらしい。
俺は慎重に耳を澄ませた。
長双さんは、巨大猪の進路上に躊躇なく人の背中を押し出すような鬼畜だ。
俺が先に発見――あ、なんか聞こえた。
……獣の呼吸音みたいだけど、この数日で聴き慣れた猪や鹿なんかとは違う。
ヤツらは鼻で「ぷしゅ」とか「ふしゅ」みたいに呼吸する。
今、聞こえてるのは「ハァー、ハァー」って感じの口での呼吸音。
かと言って「パンツの色は何色?」とか訊いてきそうにはねえ。
――っていうか、近くない?
『右、十歩の距離です! 来ます!』
龍の警戒の声に、俺は即座に右を向く。
十歩――おおよそ15メートルほど先から、巨大な影が疾駆してくる。
その影は一回、身体をたわめて伸ばすだけで、5メートルぐらい跳んでる。
俺は固まってしまった。
鼻唄を唄いながらズンズン進んでた長双さんと、慎重におずおず進んでた俺との距離よりも、走ってくる猛獣のほうが近い。
推オジサンから貰った剣を抜く暇も無い。
「朱蝶どの!」
俺は瞬時にあらん限りの≪気≫で全身を強化した。
身体中の筋肉が「ビチビチ」いってる。
『今、あっぱー!』
龍の指示に従って、もう眼前に迫る獣――その開かれた下顎に向かって、渾身のアッパーカットを繰り出した――
――ぱあんっ!
乾いた音が響き渡ったと思った次の瞬間、俺は獣に圧し掛かられる。
確かに、顎にクリーンヒットしたと思ったのに。
そう思いながら、後ろに倒れ込む俺の視界は暗転した。
『……凄い』
「流石です」
獣に押し倒された俺の、外側と内側からふたりの声が聞こえた。
狭まった視界でよおーく見ると、ぷしゅぷしゅ血を噴いてる肉塊が眼の前にあった。
その血が俺の顔に向けて飛び散ってる。
「うおお!」
急いで、獣の身体の下から這いずり出して現状を確認。
――全長3メートルはありそうな虎の頭が消えてた。
こう、首のあたりから先が引き千切られたみたいに。
傷口から血と一緒に白くて太い物体が飛び出してる。
……頸椎?
「あれ? 頭は?」
そう訊くと同時に、森の梢に雨が降ってきた。
イヤ、雨じゃない。なんかもっと重くて、金臭い。
「飛び散って、今ごろ欠片が降ってきたようですね」
空を仰いでぽつりと呟く、長双さんの顔も、血の雨でぽつぽつ汚れてる。
……マジ?
最後に、数メートル離れたところに何かそこそこデカいものが落ちる音がした。
駆け寄って見たら、虎の上顎および鼻面だった。マジか。
――そう、俺、っていうか龍の肉体は、たった二日ほどの≪気≫の訓練で、兵器と化していたんだ――
全身から血の気が勢いよく引いてく。
俺は根っからの小市民で、臆病者なんだ。
こんなことしちまって、できるようになっちまって、どうしよう?
とか考えてたら、全身が悲鳴をあげる!
筋肉痛なんて、目じゃない!
なんかアドレナリンとかエンドルフィンとか出てたんだろうけど、たぶん、今引いた! たった今、引いた!!
こうして俺は「会心の一撃」の副作用で動けなくなり、虎の屍骸と一緒に長双さんの肩に担がれて帰還した。
帰還した俺に、眠そうなおひい様がヒーリングをかけてくれた。
「腑でなければ治せるとは言うたが、ここまでやるかのう?」
って呆れながら。
身体はおひい様のおかげで全快したけど、俺はもうちょっとちゃんと≪気≫を扱えるようになろう、って決意した。
同時に、やっと尚の苦悩の一端がわかった。
彼女には「力加減」っていう一択しかない。
感覚の調節尺度がひとつしかない、ってのは相当厳しいはずだ。
たぶん、尚が本気になれば今夜の俺と同じぐらいの事は簡単にできてしまう。
だから、きっといつも内心ビクビクしてるんだろう。
優しくしようっと。
俺はそう思って、それから火の番を尚と代わるたびに微笑みかけた。
尚はなんか、どんどん怪訝な顔つきで応えるようになってく気がするけど……。
きっとテレだよね?
……自分にそう言い聞かせながら、俺は樹上で寝る。
テントを使うのは基本、おひい様と尚。
尚が火を見てる時はおひい様を抱えてるから、長双さんが使う。
『己の身体ならば、樹上のほうが良く眠れると思います』
龍がそう言うので、実際に木に登って枝の上で寝てみたら意外と寝起きがイイ。
小っちゃいころから、山に入るとこうして寝てたんだそうで。うーむ、野生児だね。
そんな感じで三日が過ぎる。
夜の狩猟に関して言えば、初日の虎以外、大きな獲物が現れなくなった。
『……おかしい、ですな。そもそも、南邑から百里ほどの場にあれほど巨大な貙虎が出るのがおかしいのですが』
残念そうにしてる長双さんを眺めてる時に、龍が呟いた。
おかしいことはどうもそれだけじゃないらしい。
「なにゆえ、怪や鬼がこれほど顕れぬ?」
おひい様が訝しそうに言う。
ここら辺りは世界の果てに近い辺境だから、そういう物が出ないのは逆におかしいって話らしい。
野宿初日から、おひい様はみんなの持ってる武器を集めて、刃に自分の血で文字を書いてた。
怪とか鬼みたいなモンスターを相手にするには、ふつうの武器じゃほぼダメージを与えられないんだって。
だから、おひい様が武器に呪文的な何かを施してたんだけど、モンスターは一匹も現れない。
なんだかイヤな予感に苛まれながらも、今、俺たちの目には廃墟が映ってる。
蛮邑跡地――かつて長双さんが攻めた蛮の人たちの村のひとつだ。
ここは南邑とも、南鄙のお城や国都とも、なんか趣が違う。
廃墟なんだから当然なんだけど、廃墟になる前からたぶん、違ってたんだと思う。
土壁は無くて、腐りかけて苔むした木製の柵がところどころ残ってる。
その外側には、濠がまあるく掘ってあって、緑色の藻が繁殖してる。
国のお城も、南邑も、区画は四角が基本だったけど、ここは全部丸い。
南邑とかお城周りに広がってた田んぼも、ここでは、集落の大きさに比べて小さかったみたい。
今は、全部、沼か荒地になってるけども。
朽ちかけた家屋もどことなく違う。
木は木の建材なんだけど、どの家も屋根とか残って無くて、ワラの固まりが辺りにぽつぽつ落ちてる。
藁葺きだったのか? 公国じゃ、どんな家も板の屋根だったんだけど。
長双さんが、ふぅ、って溜息をひとつ。
おひい様以外のみんな、どことなくそんな長双さんを窺ってる。
おひい様はというと、なぜか尚に向かって一言。
「尚! ここは、貴様とは関係ない! 気に病むなよ」
そう言って、なんかお祈りをするみたいに跪いて、呪文をぶつぶつ言い始めた。
声を掛けられた尚は、なんか苦笑してるし、どういうこと?
『……おそらく、尚どのには蛮の系が混じっているのでしょう。あの肌はそういうことです』
そうなの? 系が混じる――混血ってこと?
つまり、おひい様は尚を気遣って言ったわけ?
映画版? 劇場版のアレなんでしょうか? ジャイなんでしょうか?
そんなことを考えてたら、おひい様の祈祷みたいのを聴いてた長双さんが、ふらりと歩きだす。
そのまま、廃墟の奥へとスタスタ進んで行っちゃう。
大丈夫? ちょっと心配になるんですけど。
その後を追った俺は、朽ちかけて、焼かれたような焦げ跡に、苔の生えた太い木の柱だったろうものに触ってる、長双さんを見た。
長双さんが眼差しを注ぐ柱は、残ってる建築物址の中では一番立派で、一番太い。
この人は記憶力がイイ。
もしかしたら、自分が駆けずり回った戦場を、ぜーんぶ憶えてるのかもしれない。
アンニュイな感じの長双さんを見てたら、なんか、そんな気がした。




