二十二、決着
地味な話、俺の≪異気≫は蛟に身体を譲られた当初からだいぶ増加してた。
≪白≫に連れ去られてからもぽつぽつ拾い≪喰い≫してたけど、一番デカかったのはやっぱ≪相柳≫との戦闘の時。ヤツの≪異気≫――当時の俺を凌ぐ量の≪異気≫を吸収した事だろう。
あれで、一気に俺の≪異気≫の量は倍以上まで膨れ上がった。≪二天≫に齧られたり、実験で捨てたりしたけど、天井の低いドーム状なら直径で120キロ越えるんじゃない?
で、≪竜鎧甲≫。その≪異気≫を全部右腕に込めて、やっと弾ける≪竜気≫を放つ鎧。何、それ、ってやつだ。
このままじゃ明らかに拮抗出来ない。ということで、俺は逃げ回ってたワケだけども。
相手がエネルギーを使い切らないかな、とか思ってたけど、どうもそれも遠い。……というより、下手すると≪竜気≫は別のエネルギー使ってんじゃねえのか、という可能性も考慮する。
だって、二百五十年ぐらい前から本体から離れて存在するはずの≪竜鎧甲≫ですら、蛟の力を大きく超えてるのは不可解だ。
まあ、それはイイ。問題はつまり、俺が正面から彼と殴り合う為には、≪異気≫が絶対的に足りない、ということ。
で、足りないなら増やせばイイって話だけども、そうそう都合良く≪異気≫が落ちてるワケがねえ……ってなことにはならなかった。
≪仙≫たちが吾公国の上空で戦って盛大に≪異気≫を産んでるらしい。そもそも吾公・吾雲は、それを陳情する為に帝都までやって来たって話だった。
未だに地理は全然把握出来ていないけど、開戦宣言から少なくとも十日ちょっとぐらいの時点で吾雲が帝都に来てたことを考えると、吾公国と帝都の距離はあんまり遠くないはず。
俺の≪異気≫の形状を変えて伸ばせば、届くんじゃねーの? ってワケだ。
ツァン師匠には俺の考えてたことがわかったようで、止められるかなーって思ったけど、割りと軽くゴーサイン出された。
まあ、ツァン師匠が大丈夫ってんなら、大丈夫なんでしょうよ。師匠が信じる俺を、信じる。
それでも漫然と≪異気≫をダラダラ拡げても、届くまでにはだいぶ時間がかかってしまう。そんなことはやってられない。俺の敵――彼を待たせるワケにはいかない。
それに彼の――≪楽王≫≪連≫の攻撃は俺を捉え始めてる。
修正される動き。狙いは良くなり、俺を的確に誘導する。
おそらくは数分間。繰り返された踏み込みは優に百は超えてるだろう。既に、≪連≫の拳が俺に掠り始めていた。
そんな中、まずは、感知用に≪異気≫を薄めて引き延ばす。≪異気≫は単純な命令ほど簡単に速攻でこなす。時間はさほどかからない。
ちなみに、俺が≪連≫の攻撃を避ける為に身体強化に使っている≪異気≫の量は一番使い慣れたもの。
≪相柳≫戦前の全量のおおよそ三分の一、現在の総量の約七分の一程度だ。
その気になればもっと身体の強化に≪異気≫を回せるだろうが、量的に一番馴染んでるらしく気づいたらそうしていた。
しかし、避けうる限りはこのままがイイ。と言うよりも、もし急に身体強化に回す≪異気≫の量を上昇させた場合、俺の知覚とか反射が身体の性能に追いつかない可能性がある。全身に影響を与えるような下手なことは出来ない。一撃が致命傷になり得るからだ。
だからまずは総量の七分の六ほどを出来るだけ薄く展開する。俺を始点に立体的に。二枚の扇の要を重ね、扇面を放したような形状に。それはもう爆発的に。密度が限りなく薄いから物理的な現象は殆ど起こさないだろうけど。
……なんか、すげえ量の違った手触りが一挙に流れ込んで来て混乱しそうになるけど、そこは師匠頼り。
俺と師匠は身体を共有してるだけではなくて、≪異気≫の貸借関係でもつながっている。師匠に情報処理を任せて、俺は≪連≫の一挙一動に集中する。
そうじゃないと≪死≫ぬ。彼は速く、強く、強靭な≪意≫と身体で俺を攻めるのだから。……それにしては少々、攻撃パターンとそこへ移る動きの単純さがアンバランスだけど。
師匠は俺の膨大な≪異気≫を操作出来ないが、≪気≫の知覚に関する能力は俺よりも遥かに鋭敏で、かつエネルギーの把握にも長けている。
情報の精査にはそれこそ莫大な時間が必要なのだろうけれど、師匠はどうもそれを経験で補っているらしい。
情報を一から億まで総当たりで順々に感覚していくのではなくて、一度に全体を概観し、経験則に基づいて取捨選択を行っていると思われる。
何か流し読みの速読に近い。師匠の場合はどうも、全体を概観した後で一部に眼を向けてそこから全体の組成の予測もしているようだ。
だからこそ対象のおおよそのエネルギー量を察知することが出来るらしい。
その精度はかなり信頼度が高い。≪相柳≫との戦闘の前に四姐のエネルギー総量に対しての師匠の予測値を、本人に確認したところ誤差は二十分の一以下だった。
まず、四姐が自分のエネルギー総量をかなり正確に把握していたことに驚いたワケだが。
ちなみに、十三女が把握している自分のエネルギー量は師匠が概算した結果と同じ値だった。師曰く、「十三女神は己に対し、あまり関心が無いのだろう」とのこと。
つまり、驚くべきことに師匠の観測精度は、下手すりゃ当人を上回る。
だからこそ俺は師匠にエネルギーの出納を見て貰ってるワケなんだが。
(見つけたぞ。ここより真南におおよそ八百里。地上よりおおよそ六百仞だ。巨大なものから、どうも濃く、小さなものまである。……≪怪≫か?)
数秒、師匠にしては時間がかかったと言うべきか。それとも八百里――300キロ以上も先の感触を把握するには速すぎると言うべきか。俺が≪連≫の拳を三度躱す間に、師匠は座標と伴に粗い情報まで叩き出した。
えーと。南に340キロメートルぐらいの、1キロメートルぐらいの高度か。思ったよか遠い。
少し≪異気≫の密度を薄めれば今の形状や、よく慣れた半球状でも届くけど、向こうの≪異気≫のほうが密度が高いと持って行かれる可能性がある。
≪相柳≫に倣うことにする。
総量の七分の六ほどの≪異気≫を紐状へ。ここは強度を考えて縄。一抱えぐらいありそうな≪異気≫の縄を適当に南に伸ばす。先端の10キロメートルほどは潰すように面積を増やし、それとは逆に密度も上げる。柄の長ーいハエ叩きだ。
おっかなびっくりやってる時間は無い。勢いよく伸ばして、勢いよく行かせて貰おう。
(――東へ一寸。行き過ぎだ! 阿呆めが! 二分戻せ! 高さが足りん!!)
師匠がうるさい。こっちはこっちで、≪連≫の必殺の一撃を躱しながらなんだ。
微調整とかやってられない。面倒だから≪異気≫の縄をぶるんぶるん振るった。というか根元の俺が動き回ってるから、先端は滅茶苦茶に動く。
なんかいろいろなモンに触る。とりあえず≪異気≫だけをくっつける。元々≪気≫はつなぐ性質があるだけに、それは簡単。
伸ばす、くっつける、回収。これだけの命令なら、割と時間をかけずにこなすことが出来る、はず。
完全に呑み込むのは、縄を手繰り寄せてからでイイだろう。
……でも、なんかおかしい。
(おい。速すぎるだろう)
同意。速すぎる。確かに経験上≪異気≫は簡単な命令ほど速度を上げて応える。
でも、さすがに300キロも400キロも伸ばしたんだ。音速だとしても到達に15分以上かかる。往復で30分以上。
経験上、≪異気≫は音速よりも高速に進むことが出来る。≪相柳≫はそれに血液の弾丸を載せてたワケだし。それでも10分くらいはかかると踏んでたけども。
下手すりゃ、その前におひい様のほうが決着するか、敵増援が来る、もしくは≪連≫からの攻撃を受けるでアウトになる確率は非常に高かった。
永遠に近い体感時間を覚悟していたんだけど、もう帰って来た。
≪連≫の踏み込みで二十回ぶんぐらい。たぶん数十秒。速すぎない?
(力量も然程減っておらん……いや、流れ込んでいるようだな)
気づいた。左の手の甲がむっちゃ光っとる。
何? おひい様がエネルギー供給してくれてるんだろうか?
うん? あれ? おひい様の≪竜気≫膨らんでない?
どういうことだ? 何が起こってる?
――いや、違うな。
情報の確認は後回しだ。今やれることをやる。俺にはそれだけしか出来ない。
常に現実というものは酷い。
俺が自分の自我を人型に無理やり保とうが、決意を固めようが、殺される時は殺されるだろう。
それはそうだ。俺よりも狡猾で、強力な意志を以って一歩を踏み出すヤツなんて、向こうの世界ですらゴロゴロいるだろう。こっちの世界ではそこに俺より強いという要素が加わる。
競合相手のエネルギー量、戦闘技術によっては、俺は瞬時に抹殺されるだろう。
だから、俺が今やるべきことは現状がどのような理由でそうなったかでは無く、あくまでも現状の把握だ。
ここで言うなら、≪連≫と俺。俺が≪連≫に敵うかが問題。
俺は咀嚼する――
望外になんか高密度の≪異気≫を纏った≪怪≫が沢山いたらしい。エネルギー量的にも、≪異気≫の量的にもだいぶウマい。
≪異気≫に味蕾は無いだろうけども。
(……≪仙界≫の≪仙気≫とやらから産まれ、地上に影を落とすほどの≪異気≫ゆえ、まあ、無いよりはましだとは考えていたが。……これほどとは)
師匠の感嘆。
再度、同意。≪異気≫は大元から切り離されると球状になって漂う。吾雲が帝都にやって来る前に吾公国に影響を及ぼすぐらいだから、今はかなりデカくなってんだろうとは思ってたけど。
≪荊山≫の≪仙気≫、特に≪力牧真人≫が操る≪仙気≫は俺が身体を守る≪異気≫に匹敵して、攻撃を通せるぐらいの密度があったから、≪仙気≫自体の密度もかなり高いんだろう。
だから、≪仙気≫から産まれた≪異気≫も高確率で俺の戦力を上昇させると思ってたけども。
なんか、空に浮かんでる≪怪≫を数百体もついでに呑んだせいか、俺の≪異気≫の総量が跳ね上がる。
器に仕舞い込む。入るな、やっぱり。≪二天≫譲りの器は伊達じゃ無いらしい。
≪怪≫を吸収出来るかは、少しだけ疑問だったけど。いつか出くわした≪魍魎≫が馬をあっという間に体内で消してしまっていたから行けるとは思った。
≪怪≫といえども≪異気≫から発生してるはずだしね。ちょっとこっちの≪異気≫の密度――圧力を上げたら、既に形状を殆ど維持してなかった≪怪≫の身体は消化された。
どうも≪魍魎≫を仕留めた時にプリンみてえに切れたのは、こっちの≪異気≫に向こうの≪異気≫が吸着されていたからだと予想。今回の≪怪≫に至っては、俺の≪異気≫の内部でついでとばかりに膨大なエネルギーを吐き出したみたい。
――さて、問題はここからだ。
俺は増えた≪異気≫を制御する。≪連≫の拳を避ける。すれ違い様、密度を上げた≪異気≫の一部――腕を模した形状のそれを≪連≫の身体にぶつけてみた。切り裂かれ、弾かれる。
ただ、密度を上げれば切り裂かれるのに少々時間がかかるようで、少しだけ圧された≪竜鎧甲≫の≪竜気≫が凹んでゆっくり戻った。まともに殴り合うには、足りないらしい。
密度を上げても切り裂かれ、いずれこっちの身体を強化するぶんの≪異気≫が蹴散らされてしまう。
今、≪連≫にぶつけた≪異気≫は、≪竜気≫を弾いた時に右腕に纏った≪異気≫の密度に比較して薄い。
師匠、どのぐらいでしょうか?
(今、お前の≪異気≫の総量はおおよそ最前の三倍近くになっているだろうな……今のは、その十分の一ほど。感覚としてはお前が今身体に纏っておる≪異気≫の総量の倍ほどか)
流石に全身をその密度ですら覆いきるほどの量は確保出来なかったか。
片腕の体積は、だいたい身体の十六分の一ぐらいって聞いた憶えもある。
全身は無理だろうけれど、≪異気≫を身体に血液的な雰囲気で循環させれば行けるだろうか?
俺は拳を象った≪異気≫で叩く。≪連≫を叩く。叩きながら撫でる。揺蕩う黒い瘴気が、金色の燐光を放つ≪連≫に襲いかかる。
≪連≫には見えているだろうか? 俺の≪異気≫が濃くなったことが。
見えていたら、攻撃方法を変えてくると思うのだけど、変えてくる様子は無い。
(……先に≪荊山≫でお前の≪異気≫が暴れた時も、尚という娘の眼には確とは映っていないようであった。特別な眼を持つ者や≪仙≫以外には見えぬのかもしれぬ。特にこの≪楽王≫とやらは≪竜気≫に阻まれておるからな)
≪竜鎧甲≫意外と穴が多い。でも、その戦力は脅威だ。……彼を正面から圧倒出来なきゃ、この先、俺の戦力では目的へ到底届かない。
俺は身体を覆う≪異気≫の密度を上げた。さっき腕を象ったよりも濃く。部分的に循環させるように。
≪連≫で直接検証した時間は短い。それでも≪連≫の身体と接する部分の≪異気≫密度を上げて、致命的に弾かれる前に循環させることが出来れば、格闘を行える可能性は高い。
――さっきから直線的に迫ってくる≪連≫の拳を、今度はギリギリで避ける。跳ばない。
何度も見た正拳突き。しかしその精度は上がってる。油断すると身体に風穴が空く。避ける、掠る。左脇に絡めとる。腰が入ってるから≪連≫の体勢は低い。俺の顔の正面に≪連≫の顔。
左腕、左腋、左脇腹あたりの表面に重点的に、高密度にした現在の俺の≪異気≫総量の三分の二ほどの≪異気≫を巡らせる。残りはほかの部分に停滞させたり、身体を強化するのに使う。高密度の≪異気≫の鎧。≪竜気≫を弾きながら流れる鎧だ。
イケた。
完全に≪竜鎧甲≫の≪竜気≫を無効化する事は現状、おそらくは不可能に等しいけれど、少々の時間なら密着していても≪異気≫の鎧を展開していれば格闘戦も可能。
≪異気≫の操作と密度の維持・配分にはかなり神経を使うし、ほかの部分が薄いから真っ向からの殴り合いには向かないが。
そのまま俺は≪連≫の右腕を引き寄せて、顔面に向けて頭突きを敢行しようとするが、≪連≫のほうが早い。
詰まった距離。今までには無かった攻撃――肘打ち。迫る≪連≫の前腕に咄嗟に噛みついた。歯。顔面へ。≪異気≫――循環。
やべえ。想定外。歯が折れるかも。だけど、≪連≫の驚きに引き攣る顔に思わず笑みが零れる。
「ふぁあ? ふぁかふか?」
俺は嬉しくなって思わず笑った。俺と貴方は、この場で対等になった。貴方のおかげだ。これは間違いなく、貴方のおかげなんだ。
≪竜鎧甲≫の性能と俺の≪異気≫の鎧では、貴方に分があるだろう。
だけど、接触してわかった。鎧の中身――身体強化した俺と貴方では、俺のほうにかなり分がある。
なんだか、ドッキリを成功させたみたいな気分だ。
……それにしても、なぜ急に肘打ちが出たんだ? 超至近戦のほうが手札が多いのか?
――いや、違う。そうじゃないのかもしれない――悪寒を覚えた。
密着させた≪連≫の身体が少し浮いた――突き放す。
≪連≫がバランスを崩して、床を滑る。すぐに跳ね起きるけど、その眼差しは警戒にひずんで見える。
俺は変わらず込み上げる嬉しさに微笑みながら、同時に悪寒の正体を探っていた。
……今までの攻撃パターンは不自然なほど限られていた。
跳び込んでの正拳・回し蹴り。そればかりだ。
実際、それで俺はいいように追い回されていたし、掠る程度でも徐々にダメージを受けていた。
だけど、それだけだろうか?
確かに長双さんも組打ちや徒手での闘いはあまりやらないと言っていたけど、格闘戦に慣れていない人間がこの場で≪竜鎧甲≫を与えられて、≪人帝≫に侍るだろうか?
師匠、どう思いますか?
(ふむ。……とりあえず、強気でいけ。嚇せ。危機感を煽れ)
ツァン師匠の攻撃的な声が俺の中に響く――
そうだ。少なくとも≪連≫は動揺しているはずだ。
精神的優位は、がっちり掴みたい。
「これは、もう≪神怪≫と≪竜鎧甲≫の闘いじゃねえ。俺とお前の闘いだ」
今の言葉は半分だけ嘘だ。なぜなら、≪竜鎧甲≫の優位は変わらないし、俺はあくまで≪神怪≫だから。
でも、そうだ、全部を尽くそう。俺はこの場で、貴方を超える為になんでもやる。
ひとと、ひとだ。己を超越したものすら利用し、どこまでも進むのも人間なら、それを超える為にどこまでも卑怯になるのも人間だ。
「――何をした?」
攻めてくる感じが無い。思わず涎を拭うと、≪連≫がそう訊いてきた。
笑え、笑ってやれ。って言うツァン師匠の言葉に従う。
≪連≫が険しい眼でこちらを見た――
呑まれそうになる。龍と同じように真っ直ぐな視線。どこまでも真摯な眼差し。
誰かを守りたいと考えているのだろう。……もしかすると、彼もまた彼の世界の守護者なのかもしれない。
知ったことでは無い。そう切って捨てることは出来ない。……今ではこう思う。黄金色を纏う貴方は強くて、なんだかキレイだ。俺はそんな貴方を知ることが出来ることに喜びすら感じてる。
そう、感じる。俺もまた、尸では無い。
貴方を尸では無いと考えられるからこそ、ここにいる俺は尸では無いのかもしれない。
そして、憎々しげとも言えるような、憎悪の焔にも似た眼差しで、どこまでも俺を正しく量ろうとする貴方の眼差しは、やっぱり誠実だ。
だが、絶望的にも貴方の世界と俺の世界は重ならない。
今、俺たちの傍らで、俺たちと同じように互いの世界の中心が鎬を削っているからだ。
……それでも、いや、だからこそ、貴方の憎悪に応えたい――
(……すまん、失策だった。攻勢を緩めるかと思えば……朱蝶、次の一撃だ)
神妙なツァン師匠の呟き。
反対に、俺は笑った。わかる。≪連≫が動くのが、わかる。俺は貴方を知っている。
≪連≫が跳んだ。相変わらず直線的な動き。でも、違った――
――初めて、≪連≫が完全に俺の視界から消える。
〓〓〓
――一歩目は、虚。
≪神怪≫の正面から左へと大きく跳ねる。右足の骨が砕ける感触。
だが、構う事は無い。
知っていた。己は≪竜鎧甲≫に振り回されている。
一度加速してしまえば、その進路を変える事は己の身体に余る。ゆえにこれまでは、単純な動きよりほかには出来なかった。
だが、それが功を奏す。今までの動きに慣らされた≪神怪≫の眼が、大きく左へ跳んだ己を捉える事は無い。
次の一歩で、左足も砕けるだろう。
構う事は無い。
≪神怪≫――≪朱蝶≫が何をしているかは知れないが、見せていないこの一撃。完全に己の全力の攻撃を受けきれるはずは無い。
ならば、この全力の一撃を以って、止めとすれば良い――
……刹那。≪楽王≫≪連≫が考えた事は、大まかにそれだった。
≪楽王≫≪連≫の択んだそれは、朱蝶の択ばなかった事でもある。
朱蝶が現在保有する≪異気≫のすべてを、四肢の一部に込めた場合、身体の大部分の機能を損なった最大限の一撃を放つ事が適うはず。
……朱蝶もそれを考えないわけでは無かった。しかし、最初から度外視してもいた。
継戦能力の維持の問題、支払う事になる多大なリスク。何より「圧倒した」という印象を≪人帝≫に齎さねばならない。それが≪巫姫≫から与えられた第一目標だったから。
次に、≪連≫を超えたいという目的が優先された事もあり、朱蝶は≪帝器≫――≪竜鎧甲≫の戦力分析に移行した。これから朱蝶が挑む事になるであろう相手は、現在の≪連≫クラスの戦闘能力を保有していると仮定した為でもある。
ゆえに、朱蝶は≪連≫の無力化を択ぶ。≪竜鎧甲≫といえども、その≪竜気≫に対抗する事が適えば隙は少なくない。晒された頭部はもとより、関節部分は稼働域の確保の為に折れ曲がる。≪竜鎧甲≫自体は損傷しなくとも、装備した人間の身体は破壊し得る。
≪連≫の≪意≫を断つ、生命を断つ。それは朱蝶の目的では無い。
戦力を構成する技量の向上。世界を崩す為の戦闘能力の確保。その試練として、≪竜鎧甲≫と≪連≫は最良の目標だった。
……それ以上の感興を敵対するはずの≪連≫に覚えていた事は言うまでも無い事だが。
しかし、敵は、朱蝶の成長など待ってはくれない。
全力を懸けるという事において、朱蝶は一歩だけ遅れを取った。
……と言うより、急に≪異気≫が増加した朱蝶にはそれを択べるほどの情報が未だ欠けていた。
実際、≪連≫の推測は当たっていたのだ。朱蝶は完全に≪連≫を見失った。
それは同時に、朱蝶が≪異気≫の鎧で備えるべき部分を見失った事でもある。全身を隈なく≪異気≫で覆ったとしても、朱蝶が生き残れる可能性は低い。
≪竜鎧甲≫によって増された筋力と≪竜鎧甲≫の全出力に≪連≫の身体は耐え切れないが、その一撃は容易に朱蝶の身体を、急所諸共、命を貫いたはず。
左足すらも犠牲に跳び込んだ≪連≫は冷静かつ賢明ではあったが、ただひとつ見逃していた事がある。
≪神怪≫朱蝶の最大戦力を維持するものであり、同時に最大の感覚器官の存在。
そして、≪連≫が≪竜鎧甲≫を纏っていた事によって知覚出来なかったもの。
――≪異気≫――
逆に朱蝶は警戒していた。≪楽王≫≪連≫という男を高く買っていた。
だから、≪連≫の姿を見失うと同時に、朱蝶は薄い≪異気≫を僅かに拡げた。
そして、察知する。己の右死角から迫る≪連≫の一撃を避けられない事を悟る。
それはまるで、初手の再現。
ただ、大きく異なったのは、朱蝶の≪異気≫が膨れ上がっていた事と≪連≫の攻撃が神速に達していた事だろう。
――そして、もうひとつ。ふたりの拳が重なら無かったという事――
平均的な身体感覚を持っていた朱蝶も、龍の身体、蛟という規格外の身体に慣れた事により、身体の操作感覚は鍛えられていた。おそらくは、禁軍士卒程度には劣るまい。
だが、それでも≪楽王≫≪連≫の捨て身の加速は、朱蝶のそれを凌駕する。朱蝶の狙いは定まらない。
……ふたりの決着は、僅かに伏せながら≪連≫の進路上に置かれた朱蝶の右拳が、≪連≫の首の根元に突き立つのみというもの。
そして、≪連≫の全力の突貫に、朱蝶は右腕を持って行かれる。
大部分の≪異気≫を咄嗟に右腕に込めてしまい、≪異気≫の鎧の展開が十全では無かった為だ。
朱蝶の頭上を通り越した≪連≫の身体は壁を貫いて玉座背後の宝物庫にて停止。
頸部の根、胸の上には、朱蝶の身体から離れ、≪竜鎧甲≫の一部を砕いた右腕の骨の一部が潜り込み、胸骨・鎖骨を砕き、気道と肺を圧迫する。辛うじて生きていたのは奇跡と言っていい。
喘鳴を鳴らす≪連≫の生命の焔は、限りなく小さく……。
残された朱蝶は右肩から先を引きちぎられ、身体の支えを失い、血液を振りまきながら転がった。
断裂を余儀なくされた大胸筋・三角筋は血と共に切れ端を体外へ。力を振り絞り、身体から溢れる血液を残された≪異気≫で体内へと循環させる。
同時に、≪連≫の身体に突き刺さったままの右腕に付き従った≪異気≫との繋がりを復活させ、繋ぎ止める。≪異気≫の制御と、生命維持に徹さざるを得ない。
――両者の決着は、痛み分け。あるいは、双方ともに相互の戦闘不能を目指していた以上は、ふたり共が勝利者と言えるだろうか。
だが、その陰で、ひとつの大きな勝利が少女の手にしっかりと握られていた。
「――小娘ぇっ!! 貴様ぁあああ!! どこまで読んだああっ!!」
今上≪人帝≫の怒号がこだまし、それを受けた少女は可憐とは言い難い微笑みに頬をゆがめていた――




