十九、≪楽王≫、≪連≫
――成った――
背後で大扉の破れる音を聴いた≪巫姫≫は、そう考えた。
如何に≪竜鎧甲≫とやらが強力でも、纏う者はひと。ひとの眼で≪神怪≫足る己の僕の動きを追えるはずが無い、と。
その為に≪巫姫≫は言葉によって己へと眼を引きつけ続けたのだから。よって、確実に朱蝶は≪人帝≫を捕えるはず。
……それが、どの程度甘い考えだったのか、≪巫姫≫は直後に知る事となる。
なるほど。≪巫姫≫は正しい。
この場にいる者のうちで、≪孟棠≫を除けば、≪竜鎧甲≫を纏った男は最も凡庸だ。
≪竜眼≫を持っているわけでも、≪神≫の御坐を約束されているわけでも、悪神でも、≪神怪≫でも無ければ、≪転仙≫どころか、≪仙≫ですら無い。
確かにその男は≪竜帝≫の系にあるし、≪神格≫足り得る者ではある。武才において人後に落ちる事も無い。
しかし、『ひと』だ。その点で≪巫姫≫は正しく、その観測もまた正しかったはずだった。
――だが、真っ直ぐ疾風たる速度を以って玉座へと跳んだ朱蝶の脚を、その手が≪人帝≫に触れる前にその男は捕えた――
――≪楽王≫≪連≫。彼は『ひと』だ。だが、彼はまさしく傑物なのだ。
……彼の特性を追う為には、『王』について少々言葉を用いねばならない。
この世界においても、『王』とはそもそも君主を指す言葉だった。
その言葉の成立は古く、≪仙界≫が産まれた時に創られた語彙である≪人帝≫よりも、語彙としても概念的にも遥かに遡る。
≪人帝≫という言葉の下に『王』という言葉が、さらには帝国の成立と伴に≪意義≫を変えたのは当然だったのかもしれない。
帝国は一系――≪竜帝≫直系のみを戴くシステムだ。しかし、もちろんその直系に不具がある事は予想されるべき事でもある。
その為に帝国の『王』は存在する。保険であり、もうひとつ。≪人帝≫となる前の皇子が淘汰された結果の存在であるという事。
帝国のシステムは≪人帝≫に対する絶対的な聖性――不可侵性を有しているが、帝位を継承する前の皇子たちが骨肉を相食むとしても問題は無い。
システムに抵触しないのだ。それは、より強い≪人帝≫を産む為の必然。
もちろん、長子にこそ継承権はある。だが、その長子が不慮の事故で死亡した場合、次子へと継承権は移り、その次子が死亡した場合は三子に移る。
玉座を前にした淘汰。それは予め定められた事だ。末子ですら、兄たちがすべて亡くなれば長子へと繰り上がる。長子となれば継承に問題は無い。
先帝には五人の男子があった。うち三人は長子たる今上帝に殺された。
では、なぜ、次子であった≪連≫のみが生き残る事が出来たのか?
まずは、先帝正妃に男子が無かった事。妾腹であった、後に今上帝となる長子が、正妃の養子となった事。もうひとつは、先帝の次妃――≪連≫の母――が正妃の実妹だった事。
先帝の長子が≪竜眼≫を遷された事は、後宮内においても秘匿されていた。
長子を養子とした正妃、正妃の実妹である次妃のみがそれを知っていた。
≪竜眼≫。その恐るべき力。それを理解していた次妃は、息子の≪連≫を兄に挑ませなかった。
――帝位を得られずとも、良い――
≪連≫は健やかに育つ。加えて、彼の弟たちの攻勢はすべて第一子たる長子に向かった。
先帝の次妃には先見の明があったと言うべきだろう。
≪連≫の弟たちはそれぞれ、病死、縊死、死罪を賜った。
≪連≫は知る。兄の強大さを。その全能性を。≪竜眼≫を用いれば、どのような些細な罪も明らかにされ、その智慧の前にはどのような罪も拵えられてしまう。
兄を知った≪連≫は武芸に打ち込んだ。彼は最初から『王』を目指していたのだ。
そして、彼にはある特性と武才が与えられていた。
帝国の『王』に求められるものは、百歳前の内乱以前と以後で変質した。
帝国において『王』は半神と見なされている。しかし、かつてそれに与えられていた権益は上卿よりも幾らばかりか不遇だったと言うべきだろう。
まず、采領が認められず、官位では無い為に独自の兵権も、如何なる政権も有していない。ただ、俸禄だけは上卿を凌ぐ。
それは一局集権を図る為には当然の事だとも言えたが、帝国――≪人帝≫にしてみれば無駄飯食らいに他ならない。
ただただ≪竜帝≫を祖とする系の保存、≪人帝≫を欠いた時の保険。
この世界の史を鑑みるに、最も貴族的と言われるべきかもしれない。それが、『王』であり王族だった。
さらには、帝国建国から百五十歳続く、家系による専任制――系を前提とした官僚制。
≪人帝≫や諸侯直系にすら行政に関する専門的な知識は必要なく、まして帝位に至るかすら知れない王族や皇子にそれは求められない。
結果、彼らが学ぶものは広範な帝王学に類するものに止まり身を入れて学ぶ王族も稀だった。
つまり、王族に求められたものとは。
一に、生殖能力を含む健全な肉体。
二に、警戒されない程度の知識。
三に、社交性――遊興。
――それが、百歳前の内乱によって転倒する。
王族は尽く≪鬼邦≫に殺された。独自の兵力も、逃げ込むべき采領も、生き延びるべき知識も持たず、王族は死滅した。
……それから百歳。今、帝国には三王家がある。百歳前の大内乱ののちに帝系から別れたものだ。
≪楽王≫≪連≫。彼が当主を務める三王家のひとつ≪楽王家≫は、今上帝の御世において新設された王家である。
そして、三王家の当主――≪三王≫のすべてが、兵略・武芸を修めている理由は百歳前の内乱の影を引いているからにほかならない。
だから、≪連≫は武芸に打ち込んだのだ。
それでも、彼の兵略における才は凡庸の域を出なかったと言うべきだろう。
だが、個人の武才には恵まれた。九つにして、帝軍の将校を試合にて降し、十二になる頃には禁軍将軍に比肩するほど。
しかし、知略は士卒にすら及ばない。微妙な将になるはず。そんな彼が、将器を発揮したのは初陣の時だった。
齢十三。彼が旗下は帝軍東鎮軍所属総数千のうち精鋭百の部隊。敵するは≪夷≫およそ七百。少数の≪夷≫を撃滅するはずの小競り合いのはずが、周辺の≪夷≫が戦場に集まっていた。
彼はその軍の名ばかりの元帥だった。勇猛果敢で鳴らした≪夷≫は、数に劣るも帝軍を打ち破り彼がいる本陣へと近づく。
彼の傍にいた東鎮軍右将たる将校は、≪連≫を旗下と伴に逃がそうとした。皇子を死なせたとあっては、将校の首が飛ぶ。
だが、≪連≫は向かって来る≪夷≫に対し、戦車を走らせた――
驚いたのは旗下の精鋭たちだ。彼らは皇子を死なせまいと奮戦した。
そして、≪連≫がその圧力を背負った時、彼の将器は開花した――
彼の膂力と五官は、平時の彼自身を大きく凌ぎ、業の冴えは神妙に達していた。
……彼は後ろに控える将としては凡庸だったが、先陣を駆ける将としては最良だったのだ、と言えるだろう。
そして、その特性は背中に続く者が多くなるほど、発揮された。
例えば、≪雷名≫長双と対したならば。同練度の百対百で何も無い平原ならば、≪雷名≫は≪連≫を必ず降すだろう。
だが、千対千で平原ならば少々苦戦し、五千対五千ならば両者の勝率は五分ほどになる。
万対万ならば、≪雷名≫の勝ち目は薄く、それを≪雷名≫が知悉しているならば、他の地形と地勢へと誘導するだろう。
≪楽王≫≪連≫は己が背負う圧力が大きければ大きいほど、大きな武才を発揮する――
彼の戦術はいつでも単純だ。突破。自身が先陣を駆って、敵軍を薙ぎ払う。
しかし、単純にして最良。そして、個人の武技で自軍の圧力を背負った彼に比肩する者はいない。
彼自身は温和な性質を持っている。帝位に恋々とする事も無ければ、兄を羨む事も無い。
ゆえに彼は、兄から、智慧が無いと思われている。
彼自身、それを自覚しながら変わる事は無い。それはある意味『王者』としての気質とも言えるのかもしれない。
だが、一たび、万の軍勢の先に立てば、彼に並ぶ者はいない――
――そして、今。
≪連≫はかつて無い圧力を背負っていた。
兄――≪人帝≫の生命。帝国の威そのもの。
彼の五官はかつて無く研ぎ澄まされ、先陣を駆け続け矢玉投石を避けて払い続ける事で磨かれた動体視力は予知の域に至る。
別に、≪竜鎧甲≫に使用者の五官を研ぎ澄ませるような能は無い。ただ、≪竜気≫を使用者の膂力に乗せるだけだ。
……だが、帝国のどの武人でも無く、≪楽王≫≪連≫がこの場でそれを装備していた事は、彼の敵対者にとっては最悪だったと言っても良い。
だから、彼は≪人帝≫へと跳んだ朱蝶の脚を掴みえた――
―――
――マジか。
俺がそう思ったのは一瞬だった。
次の一瞬で掴まれた右足首が握り潰された。≪異気≫で強化してた右足首が。
そのまま、もの凄い力で引っ張られる。
俺は、右脚の脛の辺りに≪異気≫を凝らして、そこから先を切り離す。
残った左脚で相手の身体を蹴って、玉座に対して左の壁際の円柱のひとつに背中から突っ込んだ。
崩れる円柱の残骸を身体に受けながら、傷口から溢れそうになる血を、≪異気≫で拾って体内に循環させる。
「しゅ――」
おひい様の声。俺の視界にくすんだ黄金色。そいつが既に俺に向かって跳躍していた。
跳躍? いや、床と水平に飛んでる。おいおい、ふざけた速度だな。
突き出される拳。避けられる? 無理か。なら受けるしか無い。
――≪異気≫。俺の保有する≪異気≫のすべてを高密度にして込めた右腕。下から拳に叩きつけるように振り上げる。
衝撃。破裂――爆発みてえなのまで起っとるがな。
完全に崩れる円柱。その奥の壁を突き破る俺の身体。相手も反対方向に弾かれたみたいで、追って来ない。
俺は自分のダメージを確かめながら、残った左脚で床を蹴って跳んだ。
右脚の脛から先が無い。ただ、失血は≪異気≫で補ってるからちょっとやそっとじゃ致命傷にはならない。
相手の拳を払った右腕には異常は無いけど、おおよそ全部の≪異気≫を右腕に込めたせいで、身体の節々の強化が薄くなったのか鈍痛に襲われる。
右脚のほうが痛いから鈍痛程度だけど、案外身体のダメージデカいかも知れん。
謁見の間に戻ってみると、相手は既に≪人帝≫の座る玉座の前に立っていた。
ぴんしゃんしてる。俺の右腕と衝突した拳にも一見異常は無いようだね。
俺とおひい様の両方に構えるように立つその背後、玉座に向かって右側の壁際にあった円柱に何かがぶつかったみてえな痕がある。相手もあっちまでは飛ばされたらしい。
――さて、……なぜか追撃は来ないみてえだ。
俺は状況を整理する。
奇襲は失敗。俺たちの勝利条件の≪人帝≫の前には、超絶バケモンが仁王立ち。
こっちは既にかなりダメージ食らってる。ついでに、ここは敵地だから長引けば敵の増援が来る。……至れり尽くせりだな。
「なるほど。……≪巫姫≫よ、これがそなたの僕か」
玉座の男はそう言った。男の≪竜眼≫が緋金の輝きを放ってる。
その光が迸る先、おひい様も口を開いた。
「≪人帝≫。……そのように無駄口を叩いている余裕が、貴方にあるとは妾には思えぬが」
おひい様の兇悪な笑顔。その理由は傍から見ててもわかる。
おひい様の≪竜眼≫と、≪人帝≫の≪竜眼≫。
強い輝きを放ってるのは、おひい様のほう。たぶん、おひい様は≪竜眼≫で≪人帝≫を攻撃してるんだ。
≪竜鎧甲≫の男もそれに気づいたらしく、腰を沈めておひい様に向かって跳躍する構えを見せる。
同時に俺も両手を床に突いて左脚をたわめて、≪人帝≫を狙う素振りをした。
――≪竜鎧甲≫の男の視線が俺をちらりと捉え、そのまま≪人帝≫の右側へと流れる。
「≪宰甫≫! 貴方が陛下の壁とならば――」
「殿下。皆様四名、いえ三名と≪神怪≫の争いは、ひとの身には余ります」
微笑み。場違いにも、さも面倒臭えみてえな微笑みを湛えながら≪宰甫≫と呼ばれた男は、≪竜鎧甲≫の男の悲鳴に応える。
黄金色に身を包んだ男の瞳に憎悪が浮かんだ。
「……≪冰≫。……そなたも、余を試みるつもりか?」
怒りとも、おひい様の攻撃の効果とも知れない蒼褪めた顔。
それでも、≪人帝≫は唇を笑みゆがめてそう言った。
「陛下もまた御望みの事かと思いましたゆえ、非才のこの身も励み申した」
てへぺろ、って感じで答える≪宰甫≫。
≪人帝≫が可哀想になるわ。
「……≪棠≫。そなたもか?」
≪人帝≫の苦々しげな視線が、謁見の間の入口付近へと向かう。
≪孟棠≫っていうおっさんは蒼褪めながら、ブンブン首を振り、隣の九女を見た。
……そう、実は≪孟棠≫さんには特に何も言って無い。
九女は固い顔で≪人帝≫を見、≪孟棠≫を見た後、溜息をひとつ。
そう、この状況は完全に想定外だ。勝負は一瞬。奇襲が失敗したら俺たちは負けるはずだった。その場合、俺たちは全力で逃走の予定。
九女は≪女神の腸≫は無関係だ、で通す予定だった。一応、長双さんを捕まえて来たワケで、≪人帝≫の命令はこなしたワケで……ってな感じで。
だけど、おひい様と≪人帝≫の≪竜眼≫の能力の優劣が、予想外の膠着状態を産み出している。
かつ、俺が初撃で右脚を喪ったのも地味にデカい。これで逃げられるかは微妙。どっちに転ぶかわからない現状。
九女は真一文字に結んでいた口を開いた。
「――この九女が、勝手にやった事よ。≪棠≫はもちろん、姉妹たちも知らぬ」
知らんぷりしとけばイイのに。≪孟棠≫さんが、まさかって顔で九女を見る。
見られた九女はなぜか、俺を見る。なんとかしろってな具合で。
九女の隣では長双さんが≪人帝≫を見ていた。そして、手と頸を固定する木製の枷を破壊する――
「――動くな、卿!」
――構えた長双さんに、声をかけたのはおひい様だった。
「しかし、姫様――」
「≪巫姫≫どのの言う通りだ、≪雷名≫どの。……そなたも傍観する以外には無い。九女神どのの態度は正しい。そなたらが動かれれば、己もまた動かずばなるまい」
≪宰甫≫が長双さんを宥めるように、脅迫するようにそう言う。
コイツが一番読めねえ。何したいんだよ、マジで。
そうこうしてるうちに≪人帝≫の息が荒くなってる。顔はもう蒼を通り越して白い。
おひい様が≪竜眼≫の出力を上げてるらしい。
すげぇな、マジで。うちのおひい様は。
「……≪連≫。そなたに、命ずる。そこな≪神怪≫を、早う、片付けよ」
――息も絶え絶えな≪人帝≫の言葉に、≪竜鎧甲≫の男の眼が俺を捉える。
燃えるような、いや、視線で灼き尽くされそうな、そんな眼だ。
「…………名は?」
ソイツの問い。
武器も持ってねえし、構えてすらいない。にも関わらず、圧倒的な気迫。
「朱蝶……」
「――≪楽王≫≪連≫。……参るぞ、≪神怪≫≪朱蝶≫……」
――≪連≫が、俺に向かって腰を沈めた。