十二、≪冰≫(二)――≪巫姫≫と≪宰甫≫――
「――なんとも、奇妙なものを身体のうちに持っておられるのう。……≪夷≫を降した事も得心がいったわ」
宿の一室。眼前に座る幼い娘。なるほど、数歳もすればおそらくは絶世の美女と呼ばれ得るだろう。
ただ、今はどうも幼い。聞き知っていた齢よりも幾らか幼く見えるほど。
そんな少女の言葉と眼光に、男の背に冷たい汗が伝う。
「……予測はしていた。しかし、これほどとは思わなんだわ」
男は正直にそう吐露した。男の眼前に座る少女もまた、驚いてはいるようだ。
しかし、動揺の深さは男と比べるべくも無い。
男の隣では、中腰のまま≪翼≫が屈辱に顔をゆがめている。殳を握った手が僅かに震えながら持ち上がり、また落ちる。
「……帝都の≪禺≫。それがおった。……そういう事かな? ≪宰甫≫どのよ」
「ふふっ。……それを知って、≪禺氏≫直系の≪巫姫≫どのは如何するつもりか?」
男が返した言葉に、≪竜眼≫の≪巫姫≫は少しだけ眼を細めた。
≪巫姫≫は男の顔を知らないはず。しかし、男が≪宰甫≫と呼ばれる者であるという事を正確に推測して、罠を張って来る。
それは、おそらく≪竜眼≫で男を縛る事が適わない為。男としても隠すつもりなど、毛頭無い。しかし、それでも……。
――≪翼≫を縛るほどの≪竜眼≫、か――
男は予測していた≪巫姫≫の能の≪格≫を、ふたつばかり繰り上げる。
≪翼≫は≪神格≫足り得る。おそらく、個人の武力では帝都内でも五指に入る。≪巫姫≫はそれを容易く縛り上げる。
それも余力を持って、ちらりと窺っただけで、≪巫姫≫には可能なのだ。
――局所的には、陛下の≪竜眼≫を凌駕する――
男の出した結論は、それだった。男の失策。それは、今上帝の≪竜眼≫を基準として、≪巫姫≫を量っていた事。
≪竜眼≫というものに、能の強弱がある可能性を失念していた事。
≪巫姫≫の≪竜眼≫の能がどれほどのものかは知れないが、少なくとも何者かを縛るという能にかけては、今上帝のそれを凌ぐだろう。
「そも、貴方様自ら、妾に何用あって御越しになられた?」
「それは、こちらが御身に問うべき事ではないかな? ……いや、腹の探り合いは止めよう。己は確かに帝国において、冢宰を拝命する者だ。しかし、この場では、今は単に≪冰≫と呼ばれるが良かろう」
男の言葉に≪巫姫≫の顔が俄かにゆがんだ。
男の≪意≫を正確に読み取っているのだろう。
頭の回転も悪くは無い。
「つまり、この場には帝国の≪宰甫≫どのはおられぬ、と?」
「――そして、皐公国の≪巫姫≫どのもおらぬ。そういう事でどうかな?」
男の申し出に≪巫姫≫は迷う素振りをする。
言葉から≪意≫が読めないのは、今上帝以外では初めてだ。
これも≪竜眼≫の能と言ったところなのか。
「……良いじゃろう。……さて、先の問いじゃが、この場に≪巫姫≫がおらぬとあらば、妾は単に旅塵に塗れた小娘、じゃろうな?」
「では、娘御は≪巫姫≫が帝都に在ったとすれば、如何な由と見るかな?」
「……さあな、気紛れではないかな? ……あるいは、己の権を侵されたとでも考えているのではないじゃろうか?」
間髪入れずに問い返した男に向かって、≪竜眼≫の剣呑な輝きが増す。≪敵意≫。
男は苦笑を溢した。噂に違わず、気が短い。――そして、若い。
つまり、≪巫姫≫は己が権を侵されたと考えたゆえに帝都にいる。それは間違いが無いだろう。
では、侵された権、とは何だ? ≪巫姫≫が皐公国を離れたのは、男が知る限りでは此度が初めてだ。
それは、おおよそひとが知り得る限り初めてだ、と言い換える事が出来る。
そして、≪巫姫≫とは言え『ひと』の範疇からは出ないはず。……ならば、推測し得る、か。
「もしも、かの帝国の冢宰が、≪巫姫≫の許を訪なった由が、単に知るべき事があったからだと言うたなら、娘御はどう思うだろうか?」
≪巫姫≫、いや、――娘の≪竜眼≫では無いほうの眼が僅かに動いた。
「何を問おうと?」
「――≪不義の獣≫について。そして、≪巫姫≫がこの世についてどこまで知悉しておるか、という事、だろうな」
それも、また男の心からの問いではある。しかし、男は並行して考え続ける。
……≪巫姫≫の望み如何にもよるが、帝都に潜伏するという手は不可解だ。むしろ、≪巫姫≫ほどの能があれば、大手を振って帝都に来たほうが名を高め得るだろう。
名声を望んでの事では無い。……それはどこか、男自身の行動原理とも似通っている。
――そう、得てして、能ある者は小さな事に固執するものだ。
尺度が常人とは異なるから。それは、男の実地の体験談から導き出された結論だと言ってもいい。
だから、ここで考えるべき事は、≪巫姫≫の言う己の権。それだ。
「神智を持つと讃えられる≪宰甫≫が知らぬ事を、美しく才に恵まれておるとはいえ、一国の公女如きが知り得る、と?」
疑義と警戒。それを滲ませながら微笑む顔。おそらくは、己を恃んでいるのだろう。
しかし、男の脳内を≪巫姫≫は知らない。そう、≪巫姫≫は気づいていない。
それが、既に男の手管のうちであるという事に。
「――≪禺≫。そこに伝わる言葉は、既に多く喪われている。かの冢宰とて、喪われたものを求める事は適わぬさ。……たとえば、なぜ、≪禺≫は竜を弑していたか?」
なぜ、≪巫姫≫は帝都に出て来たか、それも隠れて。
「なぜ、≪神≫を産む必要があったのか? なぜ、ひとたる≪禺氏≫がそれを行い、行い得たか?」
なぜ、この機会だったのか? それほど、皐公国が危ぶまれる状態であったのか?
――いや、それは無かろう。≪九神臣≫の末裔とは、それほど軽いものでは無い。
だから、おそらくは≪巫姫≫の言う『権』とは、国の事では無い。
男は、脳内にて情報を開陳し続ける。
東南での≪神≫産み。皐公国へ向かった≪女神の腸≫。皐公国で起ったと言われる≪第二公子≫の乱。時を同じくして、≪極南山≫より降った≪火聖真女≫。
≪堺陽≫で起ったと言う騒乱。それを治めたという≪神怪≫。
次いで齎されたのは≪巫姫≫と≪女神の腸≫と≪極南山≫が、≪荊山≫に叛いたという報せ。その≪荊山≫を騒がせたというのも、同じ≪神怪≫。そして、その責を負おうとする≪雷名≫――
「≪不義の獣≫――竜とは、なんだ?」
少女は、大きく、長い溜息を吐いた。逡巡。あるいは思案。
それは、常人にしてみれば短い時。しかし、男には少々長く、おそらく眼前の少女の叡智にとっても少々長い。
そして、口を開く。
「――≪不義の獣≫とは、そのままの≪意≫。『義』をゆがめる能を持った獣の事よ。問題は≪神≫、柱の数じゃ。……≪神≫を見た事はあるじゃろうか?」
少女の問いに、男は正直に首を振った。
各地を巡った事のある男とて、≪神≫を見た事は無い。
通常、≪神≫とは御坐から離れないからだ。そして、御坐は大まかに人跡未踏の高きにあるはず。
「諸山に坐す≪神≫の多くは、≪不義の獣≫、その尸から産まれた。≪不義の獣≫の能――『不義』とは、顕れるはずの無いものを顕す、あるいはそう在るべきものを変える、という能じゃ。その能によって、≪頭部≫・≪胴部≫・≪末端≫は在るべきでは無い姿を取る。……元々は、≪意≫を持たぬ身体、それを尸と呼んだそうじゃ。余剰、あるいは余り、そう言うても良いのかもしれぬ」
器じゃ。少女は、そう言った。
器――……そう、男の体内にも、おそらくはそれと同じたぐいのものが在る。つまり、そこに≪神≫の大元たるものが侵入するという事か?
いや、男のそれを置いておいたとしても、ひとの身には器が備えられているはずだ。
「待て。ならば、ひとや単なる獣の尸は、なぜ器――≪神≫となり得ぬのだ?」
「巫術が身体の力を使うように、その身によって、あるいは器そのものによって、耐えられる嵩は決まっておる。≪神格≫足る者の器は己が操る≪気≫によって高められ、嵩を上げる」
少女の言葉が、男の脳内に拡げられた情報と繋がれていく。
この感覚。ひとつの繋がりが新たな繋がりを産み、それがさらに知識を遍く埋めていく――
「――そうか。≪力牧真人≫が持つ、あの眼も。ひとつの眼にふたつの瞳がある、あれは……」
「なるほど。≪意≫の無い瞳を、ひとつ抱えておるという事になるのう。……すなわち、≪器≫じゃな。≪神≫と同じ、空の器じゃ」
打てば響くような少女の応え。それに促されて、男も思考をさらに加速させていく。
――だから、≪仙気≫を纏うはずの≪力牧真人≫の体内にあっても、その眼は≪神気≫を以って眺める事が適うのか。
それこそ、男がこの身のうちに抱えるものと、同種のものだと言うべきだろう。
「何の為に、≪神≫――器であり、柱と呼ばれるそれが要るかは、わかるのではないかな?」
少女の言葉。それに男は頷いた。
柱は常に、屋を支える為にある。
「そうか、そのような事か……」
男は得心していた。ならば、≪神≫とは。竜とは。
そして、≪神≫の在る御坐の下部に位置する≪仙界≫とは。
≪白帝≫がそれを創った所以とは、すなわち、二百五十歳前の≪竜帝≫のそれと――
「――代わりに……妾も問いたい」
≪巫姫≫の色違いの双眸が、男を見ていた。
「……――帝国、≪人帝≫とはなんじゃ? ≪竜帝≫は何をした? 帝国とは何の為の、巫術なのじゃ? ≪竜帝≫が≪応竜≫と交わした≪古き盟約≫、あれは何の為に在る?」
なるほど。少女が男に≪禺≫に伝わると思しき秘事の一部を教えた理由。
それは、この問いかけの為か。
随分と手札を晒したように思えたが、おそらくは、本当に重要だと思われる事は隠しているのだろう。
――たとえば、≪禺≫がどのように竜を弑していたか。誰が、それを命じたか。
その辺りを少女は口にしていない。しかし、おそらくは知っている。
知っているからこそ、男にここまで話したのだろう。
そして、望んでいる――対等な取引を。
男は受けて立つ。
この娘にはその価値がある。
少女は、男と同じ地平から眺め得る者なのだ。
「それを語る為には、まず、問わねばなるまい。……≪二天≫、それについて聞いた事はあるか?」
「……ある場において対峙した」
男は心底驚いた。しかし、驚きを顔に表すような事はしない。
それより何より、少女は濁した。いつ、どこで、という事を。つまり、濁さねばならぬわけがあるという事。
――男は、即座に幾つか予想し、絞り込む。そして、一端、置いておく。
「≪二天≫がどのように産まれたかは、知っておるかな?」
少女は緩く首を振った。
それを半ば安堵と伴に眺める自身に男は気がつく。
どれぐらいぶりだろうか。今上帝以外に、己を試されているような心地にさせる者は。
「……≪二天≫とは、遥か昔に、あれより直接産まれ墜ちたものだと言う」
そう言って、男は宿の屋を指し示す。
男の指すものが、さらに上空にある事など、言うべくも無い。
少女も僅かに驚きを示しながら、頷いている。
「問題はここからだ。……≪二天≫が抜け落ちた痕。そこはどのようになったと思う? ≪二天≫は無窮と言う。ならば、抜け落ちた痕もまた、無窮となるのではないかな?」
少女の眼が見開かれる。
これは、男が今上帝にも知られず集めた情報からの推論。仮説に過ぎない。
しかし、今上帝は男がそれを臭わせても否定しない。だから、おおよそ正しいはずだ。
「それによって、この世には、≪気≫と呼ばれるものの、欠如した場所が産まれたはずだ。……しかし、帝域のどこにもそれは見えぬのでは無かろうか?」
男が続けた言葉に、少女は口をぽっかり開けた。
――そう、少女も悟ったはずだ。今、己が何の上に立っているのか、を。
……しかし、男の話にこれほど追随して来る者があろうとは。隣の中腰のまま停止させられている≪翼≫などならば、もう寝ている頃合いだろうに。帝域は、やはり広い。
「――すなわち、帝国とは、ひとが巫術という、ひとの為の業に依って、この世に挑んだ証なのだよ」
少女――≪巫姫≫は唸る。
少しだけ、男は心が痛んだ。
これから、この聡い少女に手痛いであろう口撃を仕掛けねばならない事に。
「――≪巫姫≫よ。ここからは、帝国、最高の官たる冢宰として語ろう」
「漸く、本題……そういう事じゃな?」
男はひとつ頷いた。
そして、口を開く――
「≪神怪≫――≪朱蝶≫。それは皐公国の、いや、そなたの、何かな?」