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意天  作者: 安藤 兎六羽
四章 仙
132/159

三十一、その頃、帝都は




 〓〓〓




 その頃。

 ≪火聖真女≫――≪女娃じょあい≫は帝都の宮城にいた。


――随分、質素な宮だ事――


 ≪女娃≫は、ひとの状に戻った≪赤≫と伴に、与えられた宮城内の南の離宮の客間の一室を見回して、そんな事を思う。

 広さはおおよそ十歩四方。狭くは無く、確かに敷かれた毛氈も柔らかく、足の裏に微妙な心地よさを運ぶ。柱や梁には一応、金銀玉が施され、花や樹木の枝の意匠があしらわれている。四角く切り取られた窓から眺められる庭苑には、人工の小川が流れ、染まりかけた楓や、実りかけたざくろが色を添えている。

 しかし、≪極南山≫は≪陽登宮≫に比べるべくも無い。調度の意匠はもちろん、使われる金銀玉の質までも、一段下がる。


――見事だったのは、謁見の間……玉座くらいでしょうか……――


 ≪女娃≫は思い出す。ふんだんに使われた黄金、黒玉の床に、紫糸で編まれた幾重もの帳。

 間に到るまでに眺める事の出来た庭苑には、珍しい玄鶴が幾羽も放し飼いにされ、紅に染まった枝葉を啄ばんでいた。

 何より、黄金に彩られた漆黒の玉座。そこに坐る金枝玉葉の姿も輝いていた。


――……それでも、長双様の雄姿には及ばないけれど――


 半ば身内びいきに≪女娃≫は、そんな事を思う。

 ≪竜帝≫のすえ、今上≪人帝≫には驚くべき事に呼ばれる名が無いという。ひととしての名はあるが、玉座にいた時にそれを棄てるのだ、と。

 二百五十歳あまり続く、単一の帝系。その上を飾る者は、やはり≪帝≫なのだ、という事だろう。


 その≪人帝≫は、鮮やかな紫の上衣に身を包み、煌びやかな錦を纏い、黄金の冠から垂らされた真珠を連ねた十二のたれに顔を半ば隠していた。

 その間から覗く顔はおそらく、ひとで言うところの少壮ほどだろうが、眼が大きく細い眉に、少し朱を差したような頬が、若々しく感じさせた。

 若々しく見目も良いが、齢に対して何か頼りなさそうな……。≪気≫や大きな力も感じないし、相応しいだけの威を纏っているようには見えなかった。いわゆる凡才。


「あれを見ればわかり申す。帝域など、たかが知れておるというもの。……それとも、御山を侮っているのでしょうか?」


 ≪赤≫が吐いた荒い息に、≪女娃≫は苦笑を浮かべた。

 いや、≪赤≫の言う事もわかる。≪極南山≫の者が≪人帝≫とまみえるのは二百五十歳――≪人帝≫の八代目の今上帝において初めての事となる。

 おそらくは、帝国もどのようにこちらを扱って良いものやら、わからないのだろう。南の離宮は≪人帝≫の宮殿とは比べるべくも無い。なんとも、≪火聖真女≫を招くには中途半端だ。


 それしても、≪赤≫は幾らなんでも正直に過ぎる。

 どこに耳目があるか知れたものでは無いというのに。

……まあ、その正直さゆえに、事は巧く運んだのだが……。




――遡る事、五日前。

 空中に揺蕩う、蛇行する幾条もの筋。≪女娃≫の眼には巧く捉えられないが、竜である≪赤≫の眼にはそれが確かに映っているという。

 かつて、≪黄帝≫の呼びかけに応えた≪応竜おうりゅう≫が、その膨大な≪竜気≫を以ってこの世において身体を引きずった痕跡。


 竜脈。竜種以外のすべての生が辿る事適わないそれは、≪赤≫の眼には黄金に輝いて見えると言う。

 そこに≪赤≫が長大な身体を躍り込ませた時、何度目かその背に乗って竜脈に入る≪女娃≫は半ば理解していた。

 竜脈とは、地脈に似ている、という事を。時を無視して、強引にふたつの場をつなぐものだと言う事を。


『姫君。≪人帝≫の都でございます』


 瞬きの後、≪赤≫は念話でそう言った。

 竜脈を抜けたのだ、と。つまり、瞬きの間に旬が経過した事となる、と≪女娃≫は理解した。

 しかし、地脈と似てはいるが、どこへ行くにも旬を盗られる地脈とは、竜脈は違う。


 竜脈を渡り終えた≪赤≫の背に、≪女神のはらわた≫の一同六柱を載せて、≪女娃≫は帝都は宮城上空へと姿を現していた。


「竜脈は距離によって奪われる時が違うのか? 渡る感触は地脈と似ているのに、なぜそうなっている?」


 九女が≪女娃≫に尋ねてくるが、≪女娃≫は応える言葉を持たない。

 今まで、そういうものだ、と認識していたに過ぎないから。

 ≪赤≫の鱗を撫でて、助けを求める。


『この≪赤≫の場合は、そうなる。かの≪炎帝≫陛下に代表される五頭の≪神竜≫ならばもっと早く、≪応竜≫ならば時を奪われる事など無いだろう。単に、この身の力が及ばぬだけよ』


 半ば恥じ入るようにそう言った≪赤≫に、九女は俄かに沈黙する。力の及ばない事を恥じているのかもしれない。

 ≪赤≫は生真面目だ。竜の中においては珍しいと、≪霊恝真人≫から聴かされた事がある。

 ひとで言うならば、武人。あるいは、求道者。≪赤≫が聞けば怒るだろうが、それに非常に近い。


――竜の性質・・・・にどこまでも逆らうものだ事――


 ≪女娃≫は少し微笑ましく思う。 


「おお! 竜脈って面白いな!」


「姉上、五月蝿い。……≪人帝≫は≪竜帝≫の系にあられる。……言わば≪火聖真女≫どのと同格と思召されよ」


 四女が興奮の声を上げる中、九女の発した言葉に、≪赤≫が火焔の息を吐いた。


『悪神――姫君より貴き御方は、帝域、≪仙界≫見渡してもおられぬ! 慎め!』


 竜の状の≪赤≫の言葉に、九女はげんなりした顔を見せる。


「よろしいか? ≪赤螭竜せきちりゅう≫。ここは帝域――≪人帝≫の領野だ。その主に会おうというのに、謙譲を抱かぬ者が言葉を届ける事適うか?」


「――まことに至言。≪赤≫どの。九女様に従いましょう」


 高熱の鼻息をひとつ噴き出す≪赤≫を押し止めるようにそう言った。

 沈黙を以って肯んずる≪赤≫が、ゆるゆる高度を下げていく――

 やがて、小さく方形に見えていた、長い帝都の城壁が大きく見え始める。


「大きゅうございますわね」


「帝都外郭は、およそ二十里。帝域において最大の城郭となると聞く」


 大きな四角の外はさらに広大な平野。上空からは単に緑色と土色の縞に見えた下生えは、どうも整然と並べて植えてあるらしい。

 背の低い緑色の植物。皐公国でも眼にした農地だ。

 しかし、広い。見渡す限り。そんな言葉が頭をよぎる。


「ひととは、まことに不思議なものですわね」


 ≪仙界≫に在る≪仙≫たる者に、食事は必ずしも必要なものでは無い。

 餓えに近い感覚はある。しかし、それは腹に由来するというよりは、力の欠乏に由来するものだ。ならば、≪仙気≫を纏って力を集めれば良い。

 ≪女娃≫にとっては、食とは座興に過ぎない。それも、望めば≪極南山≫の誰か――≪繊阿せんあ≫あたりが膳を運んで来てくれるような。


 だが、人界のひとには食事が不可欠だと言う。それも、多くの者の口と腹を満たす為に、これほど広大な土地を必要とする。見渡す限りの土地を蔽い尽くすほどの量が。

 帝域は皐公国にあって初めて空腹らしい感覚を覚えた≪女娃≫も、長双や周囲の者に倣って、皐公国では食事を摂ってみたが、決して美味とは言い難いものだった。

 しかし、≪気≫程度で集められる力の量は知れている。……≪女娃≫は、ひとにおける食というものの必要性を実感として理解しつつあった。≪赤≫は、ぱくぱくと粟や米といった物を口に運ぶ≪女娃≫を眺めて、大層驚いていたようだが。



……そうこう考えている間に、いつのまにか≪赤≫は、広い方形の城郭の中心部にあるもうひとつの方形の城壁――おそらくは宮城壁――その門の上に前肢を掛けて、半ば身体を浮かせた状態で、不躾に宮城内を睥睨していた。


「おい! ≪赤螭竜せきちりゅう≫!」


 九女の叱責が飛ぶ。


 宮城壁内外から、顎を落としたように呆けた顔を晒したひとびとが、≪赤≫に目を奪われている。

 畏れや怖れ以前の、驚愕。どの顔も、竜の姿を見て呆けている。

 矛を構えるのも忘れた門衛。

 宮城の奥、宮城の方形の壁の内側にある、さらに方形の壁の内へと奔る者。

 逆にそこから駆け出して来た者が、竜の姿を見て停止する。

 振り返れば、宮城外の粗末な衣服を纏った者らが、遠目にこちらを指さしている。


『――ひとどもよ! ≪炎帝≫が末子にして、≪極南山≫は最高の仙女! ≪火聖真女≫様の御成りだ! ひれ伏すが良い!!』


「≪赤螭竜せきちりゅう≫! 話を聞いておらなんだか?!」


 叫ぶと伴に、九女が≪赤≫の背から跳び下りた。

 四丈ほどの高さから、跳び、石畳を割り砕いて降り立つ、九女神。

 その姿を見る者の視線が、九女の身体が描いた直線を追う。


「我が名は≪九聖女神≫――≪孟氏≫が氏神、≪女神のはらわた≫が九女なるぞ。≪極南山≫の女主≪火聖真女≫どのと、守護竜≪赤螭竜せきちりゅう≫どのをお招きした。誰ぞ≪孟棠≫を呼べ」


 九女の大音声に、周囲の者らは即座に行動に移す。

……と言っても、その言葉に遵ったわけでは無い。≪赤≫の言葉に遵って、跪いたのである。


『それで良い』


 満足げな≪赤≫の声に、九女が空を仰いだのが見えた。



……結局、その≪孟棠≫という者が現れるまで、傅かれて待つ事になったわけだが、それがどうも悪く無かったらしい。

 ≪赤≫の行動によって、≪人帝≫への謁見を待っていた≪荊山≫の耳目――≪仙≫の報告の前に、≪女娃≫は≪人帝≫との謁見を繰り上げられた。

 結果、≪人帝≫の耳に≪荊山≫側からの視点よりも先に、こちらの言い分を通す事が出来たわけだ。


 ≪女娃≫が主張した事は主にひとつ。

 皐公国下、夏官輔≪雷名≫長双と、自身の婚約。また、それが皐公国というよりは、長双の家と≪極南山≫の問題である事。

 そして、長双が未だ皐公国下の上卿にして官吏であるという事。


 皐公国下にあるという事は、≪人帝≫の配下にある、という事でもある。

 今回の訪問はあくまで、婚約者の主に許しを請うだけ、という事になっている。

 それらはすべて≪巫姫≫の提案の過激な部分を削いで行った結果だ。


……≪三老≫との一件は敢えて触れない。重要な事は、長双が未だ≪人帝≫の配下である事。

 しかし、長双個人は≪極南山≫の婿となる予定である事、だ。

 ≪人帝≫はそれを認めた。


 案の定、≪荊山≫の≪仙≫は、≪人帝≫に「皐公国と≪極南山≫と≪女神のはらわた≫が結んで、帝国と≪荊山≫に叛こうとしている」というような報告を上げたらしい。

 その証左に、≪三老≫――≪常喘仙≫が撃退された、と。


 改めて≪人帝≫に呼ばれた≪女娃≫は微笑みと伴に、言った――



――ちょっとした、じゃれ合いのつもりだったのですが……? ――



 そもそも≪仙界≫は帝域に不可侵。諸侯が≪仙界≫とみだりに関わる事も禁じられているという。

 にも関わらず≪荊山≫は、≪三老≫などという高位の≪仙≫までも派遣して、皐公国一行に接触を図って来た。

 それこそ、≪人帝≫を蔑ろにするものではないか。


 ≪女娃≫の場合は、長双に択ばれたから婚約という形になった。≪人帝≫への挨拶の為に帝都に長双と、その所属する皐公国≪巫姫≫ともども向かう途上、≪三老≫が現れた。

 長双の婚約者である≪女娃≫はひとの婚約者でもあるが、同時に≪仙界≫の住人でもある。

 ちょっとした、忠告のつもりで≪赤≫を嗾けたに過ぎない。


 ≪巫姫≫が手を出したのは、今上帝を越えて、≪荊山≫と言葉を交わす事を憚られた為。

 ≪女神のはらわた≫は居合わせたに過ぎない。



――そもそも、うちの姉の夫は≪荊山≫にあると言う――



 九女は≪荊山≫の≪仙≫を睨みつけて、そう言った。


……若干、詭弁に近い。だが、それで良いと≪女娃≫は思う。

 ≪人帝≫は万里四方の帝域を統べる者だ。一度、認めた事は生半に撤回出来ないはず。よって、長双と≪女娃≫の仲は既に公認と言っていい。

 ならば、ここから先は≪極南山≫と≪荊山≫――≪仙界≫の諍いとなる。


――いつもの小競り合いで終わるでしょう――


 ≪極南山≫と≪荊山≫は数歳に一度、そのような諍いを起こしている。

 ≪荊山≫は≪八洞仙≫の抑えが効かず、≪極南山≫は≪霊恝真人≫により統括されている。

 攻めて来た≪荊山≫の≪櫨剛仙ろごうせん≫辺りを、適当にあしらって終わりだ。



 あとは二十歳も我慢すれば、長双との新婚生活が待っている。

……だが、≪女娃≫は己の観測が甘かった事を、≪八洞仙≫・≪灰髯仙かいぜんせん≫の登場によって思い知らされる。




 〓〓〓




「今上陛下におかれましては、どうか≪火聖真女≫どのの言をあまり重く用いられませぬよう……」


 巨漢と言うに相応しい。

 でっぷりと肥えた腹を突き出し、ゆっくりと折り畳んで≪荊山≫は≪八洞仙≫、その身体に比して小さな頭部を下げながら≪灰髯仙≫が跪いた。

 ≪仙≫に多いという≪尸仙≫であるが、その身体はどうも痩せ衰えた尸を想起させない。


 似たような体形の者が多い≪八洞仙≫の中でも特に印象に残り易い。

 今上帝たる、この身が彼を憶えているのは、単にそれだけの話に過ぎない。

 だが、それを承知してか知らずか、≪灰髯仙≫はよくこの宮城へと遣わされていた。


 幾度も顔を合わせていれば、厭でもその性質を知悉するようになる。


――食えない男だ――


 そう思いながら、少し手振りをすると、灰色の衣を纏ったふくよかな≪仙≫は身体を揺らしながら、器用に滑るように謁見の間を後にした。

 それを見送っていると、入れ違いに独りの男が入ってくる。すれ違う≪灰髯仙≫があからさまに厭そうな顔を浮かべて消えた。

 柔和と言っていい面持ち。濃いめの髭に、癖の強い髪をどうにか纏めたというような頭部。申し訳程度にかぶった冠は少々曲がっている。


 眼は大きいが、いつも笑み細められている。簡素だが、染められていない絹の白い衣を軽やかに纏い、この宮城において唯一佩刀を許されているのに、その腰は空。

 中背と言うには僅かばかり高い背丈。筋肉はそれほど多く無さそうだが、帝都の文官ほど細くもないし、武官ほど鍛えられてもいない。

 威容を正せば王者たる風格を発するに相応しい偉丈夫であろう今上帝と同じ程度の齢の男。


「≪宰甫さいほ≫様! 幾らなんでもそのような――」


 不作法にゆるゆる謁見の間に入って来たその男に、侍臣たちが気色ばむが、今上帝たる彼は一向に≪意≫に介さない。

 そもそも、この宮城において、いや、この帝国において≪宰甫≫という美称を以って呼ばれるその男に、そのような諫言など無に等しい。


「――≪宰甫≫と語る。ほかの者は下がるが良い」


 彼の言葉にすべての者が一様に頭を下げて、謁見の間から退出する。

 それを見送った≪宰甫≫と呼ばれた男は苦笑を浮かべる。


「陛下もお人が悪い。……陛下御自ら、そのように仰々しく己を呼ばれては、ほかの者の立つ瀬がありますまい」


 彼は答える代わりにかぶりをゆるりと振った。


「さて、≪ひょう≫。≪極南山≫と≪荊山≫に乱が起りそうだが、どう思うよ?」


 苦笑を深め、少々困ったような顔で≪宰甫≫――≪冰≫という字名を持つ男は口を開く。

 今上帝たる彼の元・学友にして、≪竜帝≫・≪九神臣≫の末裔、≪子公爵国≫の公子。

 十歳ほど前、東の異民族――≪夷≫のことごとくを随え、帝都へと来朝させた男。


「≪仙界≫というものは人界よりよほど単純なようですな」


 彼は我が≪意≫を得たと言わんばかりに笑み溢した。


「≪仙≫どもは初めから充足しておる。ゆえに、簡単にひとつの≪意≫に縛られたがるようだ」


「皐公国の≪雷名≫ですか。……噂はかねがね聴いておりますが、≪仙界≫が争って手を出すほどとは。……まるで、男にたかられる絶世の美女ですな」


「絶世の美女と言えば。≪火聖真女≫どのは大層見目麗しくも、を凡庸と見たようだ。有り難いな」


 彼の言葉に≪冰≫は眉を「ハ」の字に困ったような笑みを見せる。

 まるで、悪戯小僧を柔らかく叱るような風情だ。


「また、そのように擬態をとられる」


「擬態、か。……そうは言うがな、帝域は安寧にはほど遠い。≪不義の獣≫――諸竜の≪帝≫たる≪応竜≫は、≪炎帝≫の封の下にあるし、≪不仁の獣≫――≪獣神≫は≪白帝≫の許に在るとは言え、なぁ?」


「北方――鬼魅の地に、帝域が塞ぎし大穴から産まれし鬼怪ですか」


 打てば響くような受け答え。

 ≪冰≫はやはり、彼の思考の先の先まで読んでいる。


「その上に、このように頭の上をぶんぶん飛ばれては適わぬよ」


「≪荊山≫は切り時と? ……しかし、未だ代わり得る耳目は建っておりませぬ」


「≪極南山≫では代わりにならんか。……痩躯の老人よりは、傾城と謳われる美女のほうが、なぁ」


「よほど、かの仙女どのに御執心と見える。……まあ、≪仙界≫で事を納めてくれるならば、良いではありませんか? 鬼怪が産まれようとも、≪夷≫を加えし只今の帝軍ならば慌てる事も無いでしょう」


「そうよ、≪冰≫。……まことに皐公に謀叛はありえぬか?」


 彼は皐公爵の切れ長の瞳を思い浮かべる。

 思慮に富むあの男が、短慮を起こすとは思えないが、だからこそそれが本物であった時は大事に成り得る。

 つまり、勝算がある、という事だ。


「――陛下。≪不義の獣≫は、≪黄帝≫により大まかにその力を喪っております。また、皐公爵どのとて阿呆ではありませぬゆえ。……まあ、≪巫姫≫あたりは少々、手に負えぬようではありますが」


「まあ、御坐を約されたそなたの言う事。間違いはあるまいて」


 途端に彼から離れて佇む男の顔に苦いものが混じる。

 それを見て、彼は少し勝ったような優越感を覚える。≪宰甫≫と称えられるこの男に欠点や弱点など認め難いからだ。

 そして、同時に少し罪悪感を覚えた。今上帝たる彼にこのように口を利けるだけの者は、この男をおいてほかにいない。


「赦せ」


 この男が、彼に叛けば――それはあり得ないと知っているが――帝域はおそらく亡びる。

 この男が、この玉座を本気で狙えば届くだろう。

 それでも、≪冰≫は畏れている。その畏れを知っているからこそ、≪冰≫という男を知っているからこそ、彼は≪宰甫≫と称えられる男を安んじて重宝する事が適うのだ。


「……すべて、聴かなかった事と致します。……さて、己が構築せし耳目はおおよそ七割。≪荊山≫を切るには早く、≪極南山≫は代わりにならぬと来れば、やる事はひとつでしょう」


 男のその言葉に今度は、彼が苦笑を浮かべた。



――いったい、この男はどれほど先んじているのか――


 この男ならば、口にこそしないが、おおよそ≪二天≫とやらの存在にも気づいている事だろう。

 そして、帝域は勿論、この世界の仕組みにも。

 それでも、彼は男――≪冰≫を信頼している。≪冰≫こそは彼の周囲で最も、言葉が義に近い者だから。それこそが、信というものだから。



 今上≪人帝≫はゆっくりと、その瞳孔の≪竜眼≫を治めた――


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